2013
03/10
日
1 : 1話 陽だまりのトゥシャイシャイガール ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:10:41.98 ID:PdoUiVix0
きっかけは、いつもそう。予期なんかしていないときに、不意に訪れる。その瞬間にならないと、何が起こるか分からないのだから。
「昨日、女子生徒にアイドルにならないかと声をかける事案が起きました。近くに警察がいたため、事なきを得ましたが、まだ変質者は捕まっていないようです。特に女子は気をつけて帰宅してください」
帰りのSHRで、先生がそんなことを言っていた。なんでも道行く女の子にプロデューサーを自称する男性が、『君可愛いね、アイドルにならない?』と声をかけているみたい。所謂スカウトマンだと思うけど、学校は変質者として見ているようだ。
仮にその男の人が本当に芸能関係者でも、スカウトなんて東京みたいに大きな街でやるものなんじゃないかな? 熊本まで来るなんて、なかなか物好きな人かも。
「私には関係ないかな」
誰にも聞かれないようにぼやく。本物のスカウトさんだとしても、学校の言うように単なる変質者だとしても、私には縁のない話。
もしかしたら、後者は有るかもしれないけど、有って欲しくないと心から願う。
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2 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:12:56.51 ID:PdoUiVix0
「ねぇねぇ美穂ちゃん! 今日って忙しかったりする?」
「え?」
さっきの先生の話をぼんやり考えていると、後ろから焦った表情の友達が声をかけてきた。どうしたんだろう。
「実はさ、今日臨時の委員会があるんだけど、歯医者を予約してて、もう出なきゃ間に合わないんだ。お願い! 代わってくれないかな? ダメ?」
土曜日のお昼に歯医者はやっていたかな? とちょっとした疑問が浮かんだけど、友達は両手を合わせて必死でお願いする。
うーん、そこまでされたら、代わってあげなきゃと思ってしまうよ。
「うん、良いよ」
「ありがとう美穂ちゃん! 今度この埋め合わせは絶対するから! じゃあね!」
彼女はそう言って、駆け足で教室を出る。
「えっと、これは……、クリスマス実行委員会?」
机の上にはクリスマス実行委員会とデカデカと書かれたファイルと、提出しないといけないであろう書類の山。
クリスマスパーティーに向けての会議かな、結構時間がかかっちゃいそう。

3 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:19:14.35 ID:CKewekyd0
私の学校には、一風変わった行事がある。それがこの、12月に行われるクリスマスパ-ティーだ。
クリスマスパーティーと言うのはそのままの意味で、全校生徒が集まってクリスマスを祝うという行事で、他の学校には無い珍しい行事なため、それを楽しみに、わざわざ外部からこの学校を受験する人も居るらしい。
こんなイベントがあるため度々勘違いされるが、この高校はミッションスクールと言うわけじゃない。
少しだけ、イベントごとが好きな普通の公立校だ。
「今年の開催日は……、あっ」
12月16日は私の誕生日。イベントと日が重なっただけなのに、それだけでなんとなく、特別な誕生日になる。
そんな気がしていた。
「そろそろ行かないと。でも、どの教室だろう?」
友達に聞き忘れていた。周りの子も知らなさそうなので、私は職員室まで降りて、先生に場所を尋ねる。どうやら隣の教室だったらしい。わざわざ一階まで降りたのに、この仕打ちはちょっぴり辛い。
「お腹すいたな……」
昼食を食べる時間もあまりなさそうだ。大丈夫かな……。
4 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:21:23.96 ID:MUgLCSgB0
「はぁ、疲れたよ……」
腕時計を見ると、もう14時を過ぎている。委員会は私が思っていた以上に大変なものだった。
お昼ご飯を食べずに委員会に出席したから、時々お腹の虫は鳴いてしまうし、代理出席でこれまでの会議の内容を把握していなかったため理解が追い付かず、1人てんやわんやしてしまい、それを見かねた委員長さんがその都度補足説明をしてくれた。
結果、委員会はその分終わるのが遅れてしまい、周りの皆に迷惑をかけてしまった。
教室を出る時は、それはもう申し訳ない気持ちでいっぱいだった。もし次も頼まれたのなら、キッパリと断っていると思う。
それでも強引に迫られると、受けちゃいそうだけど。
「バス、間に合うかな……。急がなきゃ」
玄関を出た私は、バス停まで走る。土曜日と言うことで、バスはそこまで通っていない。次のバスを逃してしまうと、30分間バス停で待たないといけない。
ベンチはあるけども、屋根はついていない。春とか秋はまだ大丈夫だけど、夏は日差しがガンガン照りつけるし、雨の日はベンチも濡れてしまい、立って待たないといけない。
だからここを利用する人たちからは不評だったりする。雨の日なんか、待つぐらいならわざわざその次のバス停まで歩くなんて人もいるくらいだ。
だけど私は、木々から漏れる暖かな日差しを、体一杯に浴びることの出来るこのバス停が大好きだった。
友達に言ったら、変わってるねって言われちゃったけど、共感されなくても、ここは私だけのベストプレイスだ。
5 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:22:18.76 ID:MUgLCSgB0
「あっ、行っちゃったか」
お目当てのバスは。バス停に着く少し前に行ってしまったようだ。次の停車まで30分もある。
さて、どうしようかな?
「ふぁあ、眠くなっちゃった……」
秋の爽やかな風と心地良い陽光の中、ベンチに座ると不思議と眠気が襲ってきた。背もたれに体を預けて、誘いに抗わず眠りの中へと飲み込まれていく。
大丈夫、20分ぐらいしたら起きるから――。
私の意識は、夢の世界へ。さてさて、今日はどんな夢を見るのだろうか。
6 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:23:18.16 ID:MUgLCSgB0
――
きっかけはいつも予期せずに訪れる。例えそれが人生を変える出会いだとしても、その時にならないと分からないのだ。
プロデューサーの心得その1 とにかく足を使え!
「君、アイドルに興味あったりしない? え? 間に合ってる? いや、間に合ってるってどういう……」
心得その2 勧誘は1人に対して3回まで。それ以上やってダメなら、諦めよう。
「あの! 芸能事務所でプロデューサーをしているも者なんだけど……。へ? 通報する? いやいや、全然怪しい者じゃないからね! ほら、名刺! 知らない事務所だから怪しい? いや、今はまだ無名だけど、いつかは……って110番するのは止めてください!」
心得その3 ティンときたその直感を信じよう!
「ねぇ君! 行っちゃった……。はぁ、上手くいかないなぁ」
断られたのは彼女で何度目だろうか。10人目からは数字を数えていない。とにかく、沢山断られたということだけは分かる。
恐らく人生の中で、これほど女性に振られるなんて経験はそうないだろう。
7 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:25:54.07 ID:MUgLCSgB0
「はぁ、今日明日中に1人勧誘、本当に出来るのか?」
と言うよりも、どうしてこうなった? 全てはあの日、バイトの同僚の代わりにシフトに入ったからこうなったんだ。
『アイドルプロデュースをしてみないか?』
バイト先にやって来た眼鏡のおじさんは俺にそう言った。なんでも新しく事務所を設立するにあたって、新たにプロデューサーを雇う必要が出来た、とのことだった。
どうして俺に話したか聞くと、一言『ティンと来たから』とだけ答えると、面食らった俺を強引に事務所へと連行していった。仕事中にもかかわらずだ。
その間わずか数分、実に見事な手際だ。
事務所に着くなりおじさんは俺にこう言った。
『今週中に1人スカウトして、プロデュースして欲しい』
『は?』
唐突な展開に困惑する俺をよそにおじさんは話を続ける。どうやら返事してもいないのに、俺はプロデューサーになってしまったようだ。
その後おじさん(実は社長だった!)と事務員さんから色々な説明と説得を受けて、少々強引な形で俺は芸能事務所に就職してしまった。
ホンの数分で話が進んでしまったため、正直言って今でも実感がない。プロデューサーとマネージャーの違いを答えろと言われると、正しい返答が出来ないと思う。
8 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:27:23.94 ID:MUgLCSgB0
それでも俺は、この仕事をしてみたいと思えた。どうしたかは分からない、ただこれも縁だ、運命だと考えると、契約書にハンコを押さざるを得なかったのだ。
そう言えばあの時、どこからともなく俺の名字のハンコを持ってきたけど、最初から俺は狙われていたのだろうか?
プロデューサーに就任してしまった日から、俺は目についた女の子に声をかけまくった。
ある時は新手のナンパと勘違いされ、ある時は通報されて、またある時は逆に俺が勧誘されてしまった。……男性にだ。どうもあっち系のビデオの男優を探していたらしい。話を聞かなくてよかったと心から思っている。女性経験より先に男性経験とは御免こうむりたい。
東京、横浜、名古屋。どんどん西に向かって、燻っている原石を探し続けるも、俺の勧誘の仕方が悪いのか、事務所が全くの無名なのがいけないのか、それとも最近の若い子はアイドル自体に興味がないのか、結果は芳しくなかった。
そして先日、更に西へ向かい、俺の実家がある熊本にやって来たと言うわけだ。
「しかし、町並みはあまり変わらないな。このお店、まだあったんだ」
何年か振りに熊本に帰って来たけど、学校への道は殆ど変わっておらず、どこか安心出来た。
日々目まぐるしく変わっていく都会は俺に合っていないのかもしれない。
「さっきの子、○○高の生徒だよな。制服も変わってないんだな」
懐かしさで胸が一杯になるが、帰省で熊本に来たわけじゃない。今の俺はプロデューサーだ。すべきことは、未来のトップアイドルを見つけ出すこと。
そのためにも、とにかく声をかけなければ。
「ん? あのバス停、まだ屋根がないんだな。市もそれぐらい作ってあげたらいいのに」
学校への道を歩いていると小さなバス停を見つける。俺も学生時代あのバス停を利用していたものだ。
9 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:29:39.44 ID:MUgLCSgB0
「ベンチは出来たんだ。おや? 誰か寝てる?」
見るとベンチに座ったまま眠っている少女が1人。俺は起こさないように彼女に近づき隣に座る。
「えーと、寝ているのかな?」
程よく暖かい陽だまりの中、彼女はすぅすぅと可愛らしい寝息を立てている。気付かれないようにそっと顔を覗き込む。
第三者が見たら間違いなく通報するだろう光景。だけど今ここには、彼女と俺しかいない。まるで時間が止まってしまったかのような感覚。
いや、止まってなんかない。空から揺れ落ちて来た白い羽が、時の流れを主張していた。風に揺られながら、羽は彼女の頭の上に落ちる。
「……この娘、可愛いな」
名も知らぬ少女は、猫のように眠っているだけだ。ただそれだけなのに、俺は彼女に心を奪われた。
今なら社長の言ったことが、分かった気がする。
「ティンときた」
俺は彼女をプロデュースしたい。自分の中で今までふわふわとしていたものが、確固たるものに変わっていく。
上手く説明は出来ないけど、この子なら俺の全てを賭けたいと思えたんだ。
10 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 14:31:19.21 ID:MUgLCSgB0
「ん、んん……」
「へ?」
両膝にかかる心地よい重み。さっきまで覗いていた顔が、今は膝の上。
「すぅ……」
「え、えーっと……。どうしよう」
思ってもなかった展開に、少しドギマギしてしまう。彼女は何も知らず、俺の膝に羽のついた頭を預けている。このまま動いてみようものなら、ベンチに頭をぶつけてしまう。それは可哀想だ。
「あのー。バス来ました、よ?」
「ふにゅぅ」
向こうから排気ガスを吐きながら、えちらほっちらゆっくりとバスがやって来る。焦る俺と対照的に、彼女は一向に起きようとしない。
バスのドアが開くと、お婆ちゃんが降りてくる。お婆ちゃんはこちらを見るとにっこりと笑い、歩いていく。どうやら何か勘違いをさせてしまったみたいだ。バスの運転手は、『で、乗るの?』と言わんばかりにこっちを見ている。
「あはは、次の奴に乗ります。すみません」
運転手は軽く頭を会釈すると、バスのドアは閉まり遠く小さくなっていく。本当なら、彼女を起こすべきだろう。だけど俺は、もう少し彼女の寝顔を見続けていたいと思っていた。
彼女が目覚めたのは、5分ぐらいしてからのことだった。
13 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 23:54:36.60 ID:VrgbnNIw0
「うーん、今何時……」
ゆっくりと意識が覚醒していく。今は何時だろうか、バスはまだ来ていないかな……。
あれ? 頭に当たるこの感触は何だろう……。ベンチじゃない? 恐る恐る目を開けると――。
「おはよう。って言えばいいのかな?」
「え?」
「や、どうも」
上から少し戸惑ったような男の人の声。あ、あれ? 今私、男の人の膝で寝ていた?
「どうかしたかな? 顔が赤くなって……」
「え、ええええ!?」
驚きのあまり頭を勢いよくあげる。それが間違いだった。
「痛い!」
「あだっ!?」
見事顎に頭突きをかましてしまい、男の人は苦悶の表情を浮かべていた。
14 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/20(日) 23:59:37.51 ID:+EVvMsl30
「す、すすすみましぇん!」
「き、君の方こそ大丈夫かな? 頭痛くない?」
顎を抑えながら彼は私を気遣ってくれた。私からすると、彼の方が重体だ。
「ここちらこそぉ! 御顎さん大丈夫ですか!?」
あまりにテンパってしまい、自分でも何を言っているか分からない。後で思い返して恥ずかしくなること必至だ。
「お、俺は大丈夫だよ。ほら、御顎さんもぴんぴんしてるし」
「ほ、本当にゴメンナサイ!!」
「ははは、大丈夫だって……」
そうは言うものの、若干涙目になっているし、強がっているようにしか見えない。
私は彼に謝り倒し、彼はその全てに気にしないで良いよと言ってくれる。全力のキャッチボールを繰り返している内に、2人とも落ち着いて来て、いつものペースに戻ることが出来た。
「え、えっと! 隣にす、座った時に、わ、私が倒れこんできた、ってことですか!?」
といっても、私は極度の緊張しいで恥ずかしがり屋なので、普段から落ち着きがないと言われたりする。
特に初対面の相手だと、もう聞いていられない。
15 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:01:34.52 ID:WGR/FjQ80
「まぁ、そうなるかな。でも起こすのも悪い気がしてさ。凄く気持ちよさそうに眠っていたし」
「す、すみません……。もし乗りたかったバスに乗れなかったら……」
「いや、謝らなくていいんだよ? あんな気持ちの良いお日様の中、眠くならない方が無理があるって」
仕方ない、仕方ない! と彼は笑いながら言ってくれる。それすら私に気を使ってくれてるように感じてしまい、申し訳なくなるけど、いつまでも彼を困らせるわけにもいかない。
「ふぅ……」
よし、落ち着こう。深呼吸して……。
「それにさ、俺別にバスに乗る気はないんだよね」
「へ? そうだったんですか? だ、だったらどうしてベンチに座って……」
「いやさ……。うん、えっと君、名前は?」
顔を掻きながら彼は名前を聞く。どうしたんだろう?
「名前、ですか? 小日向、小日向美穂です」
後で考えると、この時よく素直に名前を教えたものだと思う。もし彼が変質者だったなら、どうなっていたことか。
16 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:05:11.61 ID:WGR/FjQ80
「小日向美穂、か。良い名前だね。君にピッタリの名前だ」
「ええ!?」
名前を褒められたのなんて、いつ以来かだろうか。しかも初対面の相手にだ。
恥ずかしそうにはにかんだ笑顔で、そんなクサい台詞を吐く彼の顔を私はまともに見ることが出来なかった。
「も、もしかして気に障った? 俺本心で言ったんだけど……」
しまった! と言うように彼は慌ててフォローを入れる。
「い、いえ! ありがとうございまする!」
「まする?」
「うぅ、そこは繰り返さないでください!」
「あっ、ごめん」
リンゴの様に赤くなっているであろう顔を見られないように、彼の視線から顔をそむけた。
17 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:07:27.46 ID:WGR/FjQ80
「えっと、小日向さん?」
「な、なんでしょうか?」
「あのさ、実は俺、こういうものなんだ」
彼は胸のポケットから長方形のケースを取り出すと、私に名刺を見せる。
「シンデレラプロダクション プロデューサー――、へ? プ、プロデューサー?」
「そっ、プロデューサー」
「プロデューサーって、あのプロデューサーさん?」
「どのプロデューサーのことを言っているか分からないけど、多分君が思っている通りだよ」
何となくだけど理解は出来た。でもどうしてそんな人がここに……。
「で、起き抜けに凄い話をするけど……、小日向さん」
「アイドルに興味が有ったり、しない?」
アイドルに興味が有ったりしない? あれ? これって……。
『昨日女子生徒にアイドルにならないかと声をかける……』
「先生が言ってた人?」
18 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:09:46.71 ID:WGR/FjQ80
「へ?」
「そ、その! せ、先生が、言ってたんです。アイドルにならないかって、こ、声をかける事件が有ったから気を付けるように、と……。ええ!?」
「な、何!?」
言ってから気付く。この名刺がもし偽物だったら? 本当に変質者だったら?
私は無意識のうちに彼から距離をとってしまう。
「あー、マジか。道理で皆俺を避けるわけだ。あのさ、小日向さん。こんなんでも俺、一応ちゃんとしたプロデューサーなんだよね。実績も何もなくてさ、信用に値しないかもしれないけど」
真剣な眼差しで私を見ながら彼は言う。おもむろに携帯を取り出し、何かを検索し始めると、私に画面を見せた。
「シンデレラプロジェクトスタート?」
トップにでかでかと書かれている一文を、素直に音読する。そのままスクロールしていくと、魔法使いと可愛い服を着た少女の絵。シンデレラと魔女かな?
「うちのホームページだよ。これで信用出来るかは分からないけど、ちゃんとした事務所ってことを分かって欲しいんだ」
彼の顔と携帯画面を交互に見る。はっきり言って怪しいことこの上ない話だ。
だけど私は、何でだろうか、彼の言っていることに嘘はない、嘘を吐いている目じゃない。そう感じていた。
19 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:19:23.87 ID:3Xd4X3ze0
「は、はい。ちゃんとした事務所ってことは分かりました。あれ? ってことは……」
私今、アイドルに、スカウトされている?
「どうかな。小日向さん、アイドルに興味ないか」
「えええええええ!?」
「のわっ!!」
急に大声を出した私に驚いて、彼は大袈裟にのけぞる。
「こ、小日向さん?」
「わ、わ、わ、わたっ」
「私が、アイドルぅ!?」
「とりあえず、落ち着こうか小日向さん。ほら、深呼吸深呼吸」
「お、落ち着いていられましぇんよぉ! だ、だだってぇ! あ、あ、あ、アイドルですよ!? む、無茶苦茶です! そ、そんな髪形を変える感覚で言われても、こ、ここ困ります!!」
「まぁ無茶苦茶な話かもしれないね。正直俺も、実感が湧いてないし」
私が落ち着いたのは、バスがやってきた後のことだった。ベンチに座っておきながら乗らない私たちを、運転手さんはしかめっ面で見ていた。
20 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:26:11.53 ID:m5gr+6SD0
「落ち着いたかな?」
「は、はい。すみません。ご迷惑をおかけして」
「仕方ないさ。急に言われたら君じゃなくとも驚くよ」
「えっと、聞いていいですか?」
彼がアイドルを探していること、私がスカウトされたということまでは理解出来た。
だけどこれだけはどうしても解せなかった。
「どうして……私なんですか? 私なんかより、もっと素敵な人、たくさんいるはずです」
アイドルにスカウトされる人って言うのは、もっと可愛らしかったり、もっと美人だったりするはず。言ってくれれば、学校の可愛い子を紹介だってする。アイドルに興味がある子だっているだろう。
なのに彼は、どうして私なんか……。
「……と来たから」
「へ?」
「ティンと来たんだ! 君ならトップアイドルになれる。そう確信したんだ!」
「えええ!? わ、私がトッピュアイドル!?」
「そうだよ! トップアイドルさ! 誰からも愛され、人々に夢を与える。そんな素敵なアイドルに君ならなれる、そう思っている! だから」
「俺は君をプロデュースしたい。誰よりも魅力的な女の子にしたいんだ」
21 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:31:20.97 ID:m5gr+6SD0
彼の言葉に、納得するに値する根拠なんてものは、どこにもなかった。
第一テレビに出ているだけでも十分凄いのに、その上トップアイドルなんてエリート中のエリート、ほんの一握りしかいない。
確かに、私だって女の子だ。テレビの向こう側で輝いている彼女たちに憧れたことだってある。
でもそれは、私には縁のない話だから、と割り切っていたから憧れることが出来たんだと思う。
だけど今、彼はそんな現実味のない夢物語に、私と一緒に描いていこうと言っている。
普通の女の子だった私を、普通じゃない世界へと誘っているんだ。
「――さん」
アイドルになる、つまりそれは熊本から出ることを意味している。家族と離れ、友達とも別れて、知り合いのいない東京で1人戦うということ。
「私にはやっぱり……」
私の名前は小日向美穂、17歳。12月16日生まれのO型、何のとりえもない普通の女の子。
恥ずかしがり屋で、緊張しいで不器用で気弱で。
歌って踊るアイドルたちの姿をテレビの前で見ている方が似合っているのに。
アイドルになったとしても、きっと彼を失望させてしまうだろう。ネガティブな感情が私の中でぐるぐると巡る。
ゴメンナサイ――。そう言ってしまえば何も考えなくていい。
だから私は……。
22 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 00:34:38.07 ID:m5gr+6SD0
「小日向さん、俺を信じて欲しい」
貴方を信じる?
「そして俺が信じている、君自身を信じて欲しいんだ」
「私を……、信じる?」
「そう。君なら出来る、俺が導いてみせる。夢のステージへ」
夢のステージ。カメラに映る彼女たちは、とても素敵に輝いていて――。
私も、彼女たちのように輝けるのかな? 自分に自信を持てるようになるのかな?
「だから小日向さん、俺と一緒に頑張ってくれますか?」
私は……。
「はい!」
力強く、そう答えた。
暖かな木漏れ日の中、生まれた決意。これが私と、彼のファーストコンタクトだった。
25 : 2話 普通の女の子、最後の3日間 ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 16:47:31.08 ID:CC66keqQ0
――
ティンときたその直感を信じろ。一体何のことか分からなかったけど、彼女に出会ったときそれを身を持って体験した。
体に電撃が走る、と言えばいいのだろうか。彼女が言ったように、もっと可愛い子はいた。綺麗な子もいた。
だけど今まで声をかけた女の子以上に、俺は彼女をプロデュースしたいと思った。
顎に頭突きを食らったことなど、些末なことだ。
臭いセリフを吐くと、運命の出会いとでも答えるだろう。きっとおじさんが俺をバイト先から連れ去ったのも、彼女に出
会うためだ。そう考えてすらいた。
彼女との出会いは、ノルマとかそんなものを忘れてしまうぐらいだった。
「えっと、プ、プロデューサー、で良いんです、よね?」
「あ、うん。小日向さん、ありがとう。俺を信じてくれて」
ようやく乗れたバスはがたがたと揺れている。車窓から見る景色も懐かしくて、学生時代のことを思い起こさせる。
高校の時の俺は、こんなことになるなんて予想だにしていなかっただろう。
「……」
隣の席に座る彼女はまだ慣れていないのか、恥ずかしそうにこちらを見ており、目が合うと逸らされてしまう。
悪意はないだろうが、少し傷つく。
26 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 16:51:24.25 ID:l8lX0WEF0
「そうと決まれば、親御さんに説明しないとね。小日向さん、ご両親は何時ごろに揃う?」
「えっと、お父さんの仕事が17時ごろに終わるから……。家に着くころには帰っているかと思います」
「さてと、気合を入れてかからないとな。なんせ目に入れても痛くないぐらい可愛い娘さんを預かるんだ。覚悟を決めなきゃね」
「か、可愛いって……。恥ずかしいです」
まるで結婚報告に行くみたいだな、なんてくだらないことを考える。もしそれを彼女に言ってしまえば、顔から血を出してしまうぐらい照れてしまいそうだ。
小日向さんのお嫁さん姿か……。
「プロデューサー? 顔、真っ赤ですよ?」
どうやら俺も顔に出ていたようだ。小日向さんは笑いながら指摘する。
「き、気にしないでくれ!」
「ふふふっ、プロデューサーさんも一緒なんですね」
「むぅ」
ふんわりとした柔らかな微笑。いつの日か彼女の笑顔が、日本中を幸せにする。そう思うと、俄然やる気が出てきた。
27 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 16:55:35.87 ID:fZBvJDmy0
「えっと、私の家ここです」
バスから降りて、少し歩くと小日向と書かれた表札を見つけた。どうやら彼女の家はここらしい。
――懐かしいな。そう心の中で呟く。
「君の家、ここだったんだ」
「へ? プロデューサーさん知っていたんですか?」
彼女は不思議そうに俺を見る。
「いや、そう言えば小日向さんには話してなかったかな。俺さ、この町出身なんだよね」
「ええ! そうだったんですか? 意外です……」
「そっ、だからこの町でスカウトしていたんだ。俺の実家、ここから10分ぐらい歩いたら有るよ」
「でも小日向さんの家ってここだったんだ。結構大きい家じゃんか、だからどんな人が住んでいるんだろうってずっと気になってたんだ。なるほど、小日向さんが住んでいるのなら納得だな」
「そ、そんなこと言われても……。照れちゃいます」
つくづく、縁と言うのは不思議なものだ。家が近いとはいえ普通に生きていれば、こんな形で彼女と交わることもなかっただろうに。
28 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 16:58:38.01 ID:fZBvJDmy0
「俺もさ、子供ころは大きくなったらこんな家に住んでやる! って意気込んでたっけか。いや、懐かしい懐かしい」
「ふふっ、でもお父さんローンを無茶して組んだらしくて、毎日ひぃひぃ言ってますよ。プロデューサー、ちょっと待ってくださいね」
「あっ、うん」
小日向さんはそう言って、家の中へ入っていく――。
「ちょっと待った」
「へ?」
俺が呼び止めると、彼女はキョトンとした表情で俺を見ていた。彼女に近づいて、頭に付いたままのそれを取る。
「きゃっ」
「良し、取れた。さっきのさっきまでこれの存在を忘れていたよ」
「え、えっと……。羽ですか?」
「うん、見事なまでに白い羽。小日向さんが寝ていた時に付いたんだけど、教えるタイミングを逃しちゃってさ。それに、自然なもんだから取るのを忘れちゃってて。何の鳥だろうね、ハトかな?」
29 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:04:48.87 ID:8ZvqKFDn0
「そ、そうだったんですか。ってことは、い、今の今まで、ずっと付いていたんですよね? う~、何でバスに乗る前に教えてくれなかったんですかぁ」
「ははは、ごめんごめん」
「はぁ、絶対皆笑ってましたよ……」
しょんぼりとする小日向さんをよそに、俺は羽をかばんの中に入れた。
「あれ? それ、持って帰るんですか?」
「あー、うん。記念品ってとこかな」
なんせ彼女との最初の思い出なのだ。なんとなくだけど、取っておきたいと思えた。
使い道を聞かれると困るが、スケジュール帳のしおりなんかにちょうどいいかも知れない。
「え、えっと。き、気を取り直して。呼んできますね?」
今度は呼び止めず、家に入る彼女を見守る。数分程外で待っていると呼びに来た。
「プロデューサーさん、入って大丈夫ですよ」
「よし! 行くか」
ネクタイをビシッと決め、顔を叩いて気合を入れる。さぁ、戦いの始まりだ。
30 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:12:17.25 ID:8ZvqKFDn0
「失礼します!」
「……」
ドアを開けると、険しそうな表情をした男性。父親だろうか?
「お父さん、この人がプロデューサー。私をスカウトしたの」
「シンデレラプロダクションの――です。本日は小日向美穂さんを是非ともわが社のアイドルとしてスカウトしたく、参じました」
「……こちらへどうぞ」
抑揚無く言われ、少し怖くなる。でもここで怖じ気つくわけにいかない。
数分後。
「いやー、君がこの町出身だったなんてね! 驚いたよ」
「は、ははは……」
「母さん! 彼にもお酌お酌! 美穂、プロデューサー君のお椀が空になってるじゃないか。入れてあげなさい」
「はいはい、待ってくださいねっと。失礼しますね」
「プロデューサー、お、大盛りが良いですか!?」
「じゃ、じゃあありがたく貰っておこうかな、うん」
31 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:15:05.91 ID:3Xd4X3ze0
結論から言うと、俺は小日向家に歓迎された。最初こそどこの馬の骨か分からない男の登場に、
ご両親は良い顔をしていなかったと思う。
だけど俺が小日向さんをトップアイドルにしたいこと、責任を持って最後まで面倒を見ること、
何より小日向さん自身がアイドルを目指したいと自分の言葉で伝えると、少しずつ表情は緩んでいった。
ただ、受け入れられた最大の理由は、俺がこの町出身だったということだろう。嫌な沈黙が続く中、
小日向さんがご両親に俺が近所の出身だということを言ってくれた。
するとどうだろう。ご両親は少し驚いた表情を見せるも、次第にローカルな話題へと移行していった。
どこの学校出身か、どこの美容院に行っていたか、美味しいだご汁のお店はどこか。とにかく話題は尽きない。
特に小日向さんと同じ高校出身と言う話は大いに盛り上がった。どうやらご両親も母校は同じだったようだ。
結果、思っていた以上にスムーズに話は進んでいった。素性も分からないような人間よりも、同郷の人間に預ける方が良いということだった。
「美穂がこうやって自分で何かを始めたいって強く言ったのは、初めてでした」
とは御袋さんの談。その表情は、嬉しそうにも寂しそうにも見えた。
「以上で用件はすべて終わりですね。それでは、失礼いたします」
「待ちたまえ! 折角なんだ、食べていきなさい」
「え? ですが」
「構わん構わん! ささっ、座りたまえ!」
難しい契約の話もそこそこに終わらせて、お暇しようとするも親父さんに捕まっていまい、
小日向家で晩御飯を頂いて今に至る、と言うわけだ。
32 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:18:12.20 ID:3Xd4X3ze0
「ねぇプロデューサー君、どうして美穂をスカウトしたの?」
熊本名物の代表格である馬刺しをつついていると、御袋さんが聞いてきた。
「彼女ならきっとトップアイドルになれる、そう思ったんです」
「ふーん、そうなんだぁ」
御袋さんはなぜかニヤニヤしながら俺のコップにお酒を注いでくれる。何か変なことを言っただろうか?
トップアイドルになれると言うのはお世辞じゃなくて、本心からそう思っている。
確かにもっと探せば、より良い原石はいるかもしれない。
だけど、輝かせたいと、魅力を日本中に伝えたいと本当に思えたのは、彼女が初めてだった。
そしてきっと、今後彼女以上の女の子は現れることは無いだろう。そう断言しても良い。
「そうだぞ! 君の眼は正しいじょ! うちの美穂は世界一可愛い!! キュートしゅぎる!」
「わっ!」
酔っぱらって俺の肩に手をやる親父さん。ゴメンナサイ、お酒臭いです。
33 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:25:06.67 ID:3Xd4X3ze0
「お、お父さん! ゴメンナサイ、プロデューサー。お父さん、絡み酒しちゃうタイプで。強くないのに……。ほら、お父さん。プロデューサーが困ってるでしょ?」
小日向さんは俺から親父さんを引き離そうとするが、親父さんはそのまま眠ってしまう。
これじゃあ失礼しようにも出来ないな。
「あ、あのー。お父さん?」
「わらひは君のとうはんではない!」
「うわぁ!」
恐る恐る声をかけてみると、突然叫びだし、また眠ってしまう。『お父さん』というワードに反応してしまったのだろうか。
「お父さん、寝るなら布団で寝ないと!」
「まぁまぁ、お父さん、寂しいのよ。お酒でも飲まないとやっていけないぐらいにね」
御袋さんも遠くを見るかのような、寂しそうな目をして言う。
「え?」
それもそうだ。一緒にご飯を食べて感じたけど、ご両親は小日向さんのことを何より愛している。
だから、本当は家を出て行って欲しくないのだろう。
でも彼らは、彼女の夢を選んでくれた。俺たちの活動を認めてくれた。
ならばそれに全力で答えるのが、プロデューサーだ。
34 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:26:59.14 ID:3Xd4X3ze0
「プロデューサー君。お願いだけど、時々で良いから、美穂の顔を見せてくれないかしら?」
「忙しくなるのは分かっているけど、やっぱり私たちも寂しいのよ」
「無茶言っているのは分かっている、でもそうでもしないと、お父さんも辛いと思うの」
「はい。約束します」
間の抜けた寝顔を見せる親父さんを一瞥して、俺は答えた。心なしか、小日向さんも少し安心した顔をしている。
やっぱり彼女も覚悟していたとはいえ、親から離れるということが、不安だったのだろう。
「ありがとう。それより、プロデューサー君」
「はい、なんでしょうか?」
「君、美穂がタイプなの?」
「ぶっふ!」
「お、おおおお母さん!? プ、プロデューサーさん! 大丈夫ですか!? お茶入れますね!」
「美穂、それお酒よ?」
「ま、間違えました!」
突然御袋さんがそんなことを言うものだから、想いっきり咽てしまう。もし口に何か含んでいたなら大惨事だっただろう。
35 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:30:11.33 ID:3Xd4X3ze0
「い、いきなり変なこと言わないでくださいよ!」
「あら、ごめんなさい。でもその反応は、図星かしら?」
「え、えっと小日向さん。今の気にしなくていいからね、ね?」
「は、ははい! そ、そですよねぇ! 私が好みなわけないじゃないでしゅか! もうお母さんったらもう!」
ニヤニヤと笑う御袋さんに、顔を真っ赤にしている男女2人。
「あ、あはは」
「う~」
互いに顔を見るのが恥ずかしくなり、そっぽを向いてしまった。これじゃあまるで初心な中学生カップルだ。
いや、彼らの方がまだ堂々としているか。
「そうだ、プロデューサー君はどうするの?」
「えっと、実家がこのあたりなんで、家に帰ります。また明日、学校の方にも説明しなくちゃいけませんし」
事務所の方にも連絡しないといけないし、小日向さんの新しい家や学校の入学手続きもしないといけない。
アイドル候補生を見つけるだけで仕事が終わるわけじゃない。むしろその後の方が大変だ。
36 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:36:11.21 ID:3Xd4X3ze0
「そう? 泊まっていけばいいのに。美穂の部屋で」
「ぶっ!」
「お、お母さん!?」
「冗談よ、冗談」
だからそう言うこと言わないでください。
「は、ははは……。すみません、今日は晩御飯ありがとうございました」
「こちらこそ。プロデューサー君、美穂のこと、よろしくお願いしますね」
「はい! 任せてください。それでは失礼し」
「プ、プロデューサー!」
ドアノブに手をかけ、出ようとしたところで、小日向さんに呼び止められる。
相変わらず恥ずかしそうにこっちを見ているけど、深く呼吸をした後、覚悟を決めたように口を開く。
「私、頑張りますから! だから、一緒にトップアイドリュ目指しましょう! うー、噛んだぁ」
「ああ、頑張ろうな!」
彼女はやる気だ。俺はプロデューサーとして、ファン第一号として、彼女の夢を叶えてやりたい。
37 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:40:21.61 ID:3Xd4X3ze0
――
「うーん、どうしよう」
プロデューサーが帰った後、私は机に置かれた紙と睨めっこしていた。
プロフィール作成、それが私のアイドルとしての初めての仕事らしい。出身地から生年月日、……恥ずかしいけどスリーサイズ。そこまでは別に悩む要素もないため、すらすらと書けた。
だけど問題はこの3つ。
「趣味と意気込み、アピールポイントかぁ……」
私にはこれといった趣味がない。クラブや習い事をしていたというわけでもなく、読書とか料理も趣味かと言われると違う気がする。
私は本当にどこにでもいる普通の女の子だ。ただ普通の女の子でも、1つや2つ趣味があるだろうから、
それすらもパッと出てこない私は、逆に普通じゃないのかもしれない。
「奇をてらった方が良いのかなぁ」
例えば宝くじを買うのが趣味とか。夢を追うアイドル、それはそれで良いかも。
「ないなぁ……」
そこまで考えて、私は今まで宝くじを買ったことがないことに気付いた。嘘を書いてたって仕方ない。
38 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:42:56.59 ID:3Xd4X3ze0
「うーん、困ったなぁ」
あれこれ悩んでみたものの、結局私は翌日の日曜日になっても思いつかず、1日を終わらせてしまった。
プロデューサーの話によると、明後日には熊本を出て活動を開始していくらしい。
本当に急な話だなぁと、他人事のように思う。
「1日、無駄にしちゃったかな」
0時を過ぎたあたりで、ちゃんと友達と思い出を作っておくべきだったと後悔してしまった。
そう言えば、彼女たちは私がアイドルになるということすら知らないんだよね。
「私、本当にアイドルになれるのかな」
プロデューサーを信じていないわけじゃない。お父さんもお母さんも彼を信じているし、私が一番彼のことを分かっているつもりだ。
トップアイドルになれる。そんなファンタジーも不思議と実現するんじゃないかな? と思っていた。
だけど今私は自分の持つ誰にも負けない魅力はなんなのか、それすらも分からないでいる。
「寝ちゃおう」
このまま起きていても、思いつかないだろう。なら明日、じっくり考えよう。
39 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:47:38.49 ID:jvMp+QHM0
月曜日。朝起きるとプロデューサーからメールが来ていた。どうやら学校には話が付いたようだ。
「……」
今ならまだ間に合う。怖くなりました、自分には出来ません。そう言えてしまえばどれだけ楽なことか。
でも逃げるのは嫌だった。変わるって決めたんだから……。
「そうだ。みんなに聞いてみよう」
私自身が分からないなら、友達に聞いてしまえばいいんだ。
きっと私が知らない、私の魅力を知っている人もいるかもしれない。
「みーほちゃん!」
「ひゃい!? な、何!?」
「あー、ごめんごめん。驚かせちゃった?」
学校に着くといきなり、無邪気な笑みを浮かべる友達に肩を叩かれた。
「そうそう、聞いたよ? アイドルになるんだってね! 学校中その話題で持ちきりだよ?」
「え? もう知ってるの!?」
「何でも昨日部活中の子がさ、偶然聞いちゃったんだって。そこからはもう凄いスピードで広まったわけですよ」
40 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:48:54.89 ID:Va8gMOpo0
学校に行くまでの道のりで、バスの中で、私はジロジロと見られている感覚に陥っていたけど、
どうやらそういう事みたい。情報の伝達の速さに、只々驚くばかりだ。
「ってことは美穂ちゃん東京に行くのかぁ、寂しくなるね」
「うん。自分でもまだ、あんまり実感がない、かな」
アイドルにスカウトされたのがほんの2日前のこと。私の住んでいる世界は、急激に変わり始めようとしていた。
「あっ、忘れてた。これ、実行委員会のファイル」
鞄の中からファイルを取出し、友達に渡す。今となれば、この高校生活最後のクリスマスパーティーも、
私は参加出来ないのだ。なんと言うか、皮肉な話。
「ありがとう美穂ちゃん! でも困ったな、美穂ちゃんに埋め合わせできる前に東京に行っちゃうのかぁ」
そうだ、彼女に聞いてみよう。
「えっと、じゃあ1つお願いしていい?」
「お願い? 何なりとどうぞ!」
41 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:51:32.17 ID:Va8gMOpo0
「今こんなの作っているんだけど、自分の魅力って分からなくて……」
プロフィール表を机の上に置くと、友達はそれを物珍しそうに手に取って、蛍光灯の光を浴びせてみる。
そんなことしても、何も浮かんでこないと思うけどな。
「シンデレラプロダクション……。うわっ、本格的だねー。どこの事務所か知らないけどさ」
「新しく出来たばっかりだから仕方ないよ。で、今趣味と意気込みと自己PRで悩んでて。意気込みは自分で考えなきゃいけないんだけど、自分がアピールできるところって、パッと出てこなくて」
「成程、私の魅力って何? ってとこね。そうだねぇ、美穂ちゃんのアピールポイントは……」
友達は私の顔とプロフィール表を交互に見ながら、少し考えるそぶりを見せる。
やっぱり私の魅力って、そうないのかな……。
「どうかな……」
「やっぱ笑顔、じゃない?」
「笑顔?」
得意げに言う彼女の3文字をそのまま返してしまう。
42 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 17:53:22.30 ID:Va8gMOpo0
「そっ。まぁぶっちゃけちゃうと、美穂ちゃんのいいところなんて数えきれないほど有りますよ」
「誰にでも優しいし、恥ずかしがり屋だけどいざって時にはしっかりするし、とにかく可愛いし!」
「その中でも、私は美穂ちゃんの笑顔が一番好きかな」
「か、可愛い……」
「今真っ赤になっている美穂ちゃんもすっごく可愛い! よっ、日本一!」
友達が大声で囃し立てるものだから、予鈴が鳴っても私の周りにはぞろぞろと人が集まってくる。
「小日向さんの良いところ? そうだね、やっぱり癒し系ってとこじゃない?」
「いや、ここは敢えて脱ぐと凄いんですって書くべきだよ」
「お前は何を言っているんだ」
その後先生がやって来るまで、私の良いとこ探し会議は続いた。
「ふふっ」
破られたレジュメには、みんなの考える私の魅力が裏っ側まで羅列されている。
自分でも思っていた以上に多くて、なんか嬉しい。
43 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:03:07.60 ID:hmA1Na8q0
お昼休みの時間。私の席は窓際の日の当たる場所。ご飯を食べた後はやっぱり眠くなってしまう。
プロデューサーの言葉を借りるなら、こんないい場所で寝ない方がおかしいんだ。
あっ、これってある意味趣味になるのかな……。
「美穂ちゃん?」
「ん? なぁに?」
「あ、眠かった? ごめんね話しかけて」
「ううん、少し気持ちよくて。すぅ」
「あらま、寝ちゃったか」
「すぅ、すぅ……」
予鈴の音で目覚める。プロフィール表を見ると、趣味の欄に『ひなたぼっこ』と丸っこい字で書かれていた。
44 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:05:05.20 ID:hmA1Na8q0
「知っている人は知っていると思いますが、小日向さんが東京でアイドルとして活動するために、転校することになりました。小日向さん、前に来てくれる?」
「は、はい!」
授業後のSHRで、私は皆の前に立っていた。
「え、えーっと……」
クラスの人数34人と1人の先生。私はその人数だけでも、心臓がバクバクとしていた。
「す、凄く急なんですけど、私アイドルに、なっちゃいました! あ、あの! 私、絶対みんなのこと忘れましぇん! だから、応援してください!」
何回噛んだか覚えていない。これがドラマの撮影だったなら、監督に怒られたと思う。
「美穂ちゃん頑張れー!」
「応援しているからね!」
「こらこら、泣かないでよね。先生まで泣いちゃうじゃない」
割れるような拍手の中、クラスメイトの皆は私に温かい言葉をかけてくれる。
それがとても嬉しくて、私は涙を流していたのだろう。先生がハンカチで私の目元を拭いてくれた。
45 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:08:17.38 ID:hmA1Na8q0
「それじゃあ今日は美穂ちゃんの門出を祝って! パーッとやっちゃいましょう!」
友達の合図で大いに盛り上がる皆。私は彼らに流されていくように、色んな所へ行った。
ボーリングをして、プリクラを取って、買い物をして。最後の思い出を作るかのように、私たちは今を全力で楽しんだ。
「あー、楽しかった! ねぇ美穂ちゃん! またこっちに帰ってくるよね?」
解散してバス停へ向かう途中、友達が尋ねる。
「うん、月に一回ぐらいだと思うけど、お母さんたちに顔を見せなさいって。だからその時、また遊べるかな」
「そっか、だよね。その時また遊ぼうね!」
屈託のない笑顔で彼女は言う。この笑顔も、私が与えたのなら、素敵なことだと思う。
「うん。ありがとう」
「じゃあ私はここで、美穂ちゃん。バイバイ」
「うん、バイバイ」
帰ってプロフィール表を作ろう。今ならきっと、一番の私をアピールできると思う。
46 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:09:03.92 ID:hmA1Na8q0
アイドル名 小日向美穂
ふりがな こひなたみほ
年齢 17
身長 155cm 体重42kg
B-W-H 82-59-86
誕生日 12月17日
星座 射手座
血液型 O型 利き手 左
出身地 熊本県
趣味 ひなたぼっこ
意気込み ファンの皆様に愛されるアイドルになります!
自己PR みんなを笑顔にするのが好きです! 私の笑顔で、幸せな気持ちになってくれたらうれしいです!
47 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:14:37.06 ID:hmA1Na8q0
「こんな感じかな?」
プロフィール表を書き上げて、ほっと一息。あれだけ悩んでいたのに、きっかけ1つでこんなに楽にできるものとは思わなかった。
「明後日、かぁ」
明後日の朝、私は熊本を旅立つ。東京に何が待っているか分からない。良いことばかりじゃないかもしれない。
それでも私は、頑張るしかないんだ。
「美穂、入っていいか?」
明日は準備をしないといけない。早く寝ようとすると、お父さんがドアの向こうからノックした。
「う、うん。良いよ」
「じゃあ入るよ」
お父さんが私の部屋に入るのなんて、久し振りかもしれない。いつもは恥ずかしがって入れようとしなかったけど、今日だけは特別なんだ。
「美穂、プロデューサー君は確かにいい男だ、私が保証しよう。だけど、どうしても乗り越えることの出来ないことがお前たちを待っているかもしれない。辛くなったら、いつでも帰ってこいよ」
「お父さん……」
「アルバムをさ、見ていたんだ。あんなに小さくて泣き虫だった美穂が、アイドルになりたいって言えるまで強くなった。親として嬉しくも、寂しくもあるな」
48 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:16:49.92 ID:hmA1Na8q0
「そういう事、言わないでよ……。私まで寂しくなるよ」
「ああ、悪かった」
いつもと違ってしんみりとした父親に、私まで寂寥感に苛まれてしまう。
「だがな、美穂。これだけは覚えておいてくれ。私たちは、何があってもお前たちの味方だ。どんな時でも、お前たちを応援しているよ」
「ありがとう、お父さん」
「美穂、そろそろ寝なさい。明日の準備があるのだろ?」
「うん、お休み」
「お休み」
今生の別れと言うわけじゃない。その気になれば戻れる距離だし、嬉しい時も辛い時も電話をするだろう。それでも、寂しい物は寂しい。
私はまだ17歳、結婚できる年齢だとか、十分大人だと言われても、まだまだ子供だ。
だけど私はこれから待っている未来に心を震わせていた。勿論不安もある、だけどそれ以上に期待が大きいのだ。
どんな人に会うのかな?
アイドルとしてやっていけるかな?
色々な感情がない交ぜになったまま、私はベットに潜り込んで携帯を見る。
携帯に張られているプリクラには、恥ずかしそうに下を向く私と、クラスメイト達の笑顔。皆私を応援してくれるんだ。
そうだよね、私は1人じゃない。
49 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:17:55.11 ID:hmA1Na8q0
翌日、私は朝から準備に追われていた。必要な物を業者に送ってもらい、荷物をまとめる。
「ふぅ、終わったぁ」
17年間の思い出が詰まっていた私の部屋は、すっかり綺麗になってしまった。全ての作業が終わり、時計を見ると17時。
どうしようかなと考えていると、母親が私の部屋に入ってきた。
「美穂、終わった?」
「あっ、うん。どうしたの、お母さん」
「お父さんがね、どこかに食べに行かないかって。美穂が食べたいところどこでも連れて行ってくれるってさ」
「私の食べたいもの?」
「そう、思いっきり贅沢しちゃいなさい!」
私の食べたいもの……。回らないお寿司? ステーキ? 熊本ラーメン? どれも違う気がする。
別に特別じゃなくても良いよね?
「ううん。私はやっぱり、お母さんのご飯が食べたいかな?」
「ええ? そんなので良いの?」
50 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:20:59.92 ID:hmA1Na8q0
予想外の答えが帰って来たのか、お母さんは面食らった顔をしている。
「うん。特別な物ってそのままもう会えないみたいで……。ダメかな?」
「そっか。美穂がそういうのなら、そうしましょうか。今日は腕によりをかけて作っちゃうわよ!」
「ありがとう、お母さん」
アイドル前夜、私は家族と過ごした。献立も豪華な物じゃない、極々普通の晩御飯だ。特別なものなど、何一つない。
「「「ご馳走様でした」」」
暖かな食事も終わる。明日からは1人で全部済ませなくちゃいけない。
守ってくれる人はいるけど、それでも自分の行動全てに責任を持たないと。
「それじゃあ……、美穂これあげる」
「お母さんこれは?」
「お料理の本よ。忙しいからって外食ばかりしちゃだめよ? 少しは自分で作れるようにしないとね」
お母さんが愛読していたお料理本だ。数冊束になっていて、持つとちょっと重かった。
51 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:22:48.97 ID:hmA1Na8q0
「ありがとう、お母さん。自炊頑張ってみるね」
「あー、美穂。ちょっと耳貸しなさい」
「?」
言われるままにお母さんに耳を傾ける。お母さんはお父さんに聞こえないように声のトーンを落として、
「これで練習して、プロデューサー君に美味しいお弁当作ってらっしゃい。ポイント高いわよ?」
「お、おかあさん!?」
とてつもない爆弾を投げかけてくれました。
「ふふっ、冗談よ」
「そ、そそういう冗談はやめてよぉ、もう!」
「? 美穂、どうかしたのか?」
「い、いや! なんでもないよお父さん!」
今の会話をお父さんに聞かれていたらどうなっていたのだろう。
プロデューサーの身に何か起こるかもしれないので、黙っておく。
52 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:32:02.69 ID:hmA1Na8q0
「さて、美穂。これを持って行きなさい」
「これは、通帳?」
緑色の郵便通帳とカード……、口座?
「ああ、今まで渡していなかったが、自分で管理していかないとな。無駄遣いはするんじゃないぞ?」
「あ、うん……」
真剣な目をするお父さん。一体いくら入っているのだろうかと、恐る恐る通帳の中身を確認する。
「え?」
私は思わず言葉を失う。そこに書かれていた数字は、100万円。こんなに軽いのに、目が飛び出るほどの価値があるなんて。
「お、お父さん! これ……」
「何かと入用だろう? 大学入学用に取っておいたのだが、事態が事態だからな」
「それでも! 100万円は多すぎるよ。受け取れないよ……」
53 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:36:49.96 ID:hmA1Na8q0
うちも決して裕福とは言えない。家のローンもまだあるし、毎日毎日お母さんは家計簿に頭を捻らせている。
それなのに、100万円を私に託そうとしている。
「良いんだ、美穂。私たちは、お前に夢を叶えて貰いたい。娘が自分の夢を叶えることが、私たち親の夢なんだから。100万円ぐらい、投資してやるさ」
「お父さん……」
「それに、東京は物価が高いからな。言っておくが、無駄遣いするんじゃないぞ?」
「娘が親を心配しないの! なくしちゃダメよ?」
余裕もないはずなのに、お父さんとお母さんはそれを億尾にも出さずニッコリと笑う。
――ずるいよ、そんなの。受け取るしかないよ。
「ありがとう、お父さん。いつかきっと、返すから」
夢は1人で見るものじゃない。応援してくれる人がいて、初めて見ることが出来るんだ。
「ねぇ、お父さん。お母さん、お願いがあるんだけど……」
熊本最後の夜、私はお父さんとお母さんと川の字になって眠った。突然の提案に、2人とも恥ずかしそうにしていたけど、布団に入ると幼い頃のように私の耳元で子守唄を歌ってってくれた。
こうやって甘えることが出来るのも、最後かもしれない。
「私、頑張るから」
寝静まった2人を起こさないように呟いた。
54 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:39:22.85 ID:hmA1Na8q0
「美穂ちゃん、向こうでも頑張ってね!」
朝も早いというのに、空港には友達たちが集まっていた。学校は大丈夫なのか? と聞いてみたら、先生が『課外授業です』と言って笑っていた。
みんなとこれ以上思い出を紡いでいくことが出来ないのは残念だけど、彼女達と過ごした時間はきっと忘れないだろう。
ううん、忘れたくない。
「えーと、クラス一同から、寄せ書きの贈呈です!」
可愛らしいクマさんの絵が描かれた色紙に、先生とクラスメイト1人1人のメッセージがギッシリと書かれていた。
――頑張れ!
――向こうに行っても忘れないでね!
――絶対CD買います!
――実は好きでした!!
短いものから3行以上使った長いもの、中に大胆な告白も。色とりどりのペンで書かれたメッセージが、私の心を揺さぶる。
「いい友達を持ったな、美穂」
「うん。お父さん、お母さん、みんな。今まで、ありがとうございました! 私、頑張ります!」
パチパチパチと拍手が起きる。でもここは空港なので、他のお客さんもたくさんいるわけで……。
55 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 22:40:24.67 ID:hmA1Na8q0
「あのー、盛り上がってるとこ悪いんですけど、そこに集まられたら他のお客さんが乗れないので、少し動いてくれますか?」
「え? あっ、その……」
見ると両親とクラスメイト以外にも、全く知らない人たちが集まってきていた。えっと、やじ馬さん?
「しし、失礼します!」
恥ずかしくなって顔を隠すように、飛行機へと走る。パシャリって音がしたけど、もしかしたら写メられた?
「う、うぅ。最初からズッコケちゃったよ……」
座席に座ってため息を1つ。本当にこんな私でも、アイドルとして輝けるのかな、プロデューサー?
『俺の信じている君自身を信じて欲しい』
そうだよね、自分自身を信じなきゃね。
轟々と鈍く響く音を立てて、飛行機は動き出す。窓の遠く向こうでは、みんなが手を振っている。
私は彼女たちに答えるように手を振り返す。
何度も何度も、見えなくなっても私は手を振り続けた。
「大丈夫、私は出来るんだ!」
バイバイ、みんな。私、トップアイドルになって見せます!
56 : 3話 美穂/都会へ行く ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:05:40.99 ID:hmA1Na8q0
「えっと、ここで待っていればいいのかな?」
大きな鉄の塊に揺られること1時間半。私は東京羽田空港に着いていた。意外とすぐについて、ちょっとビックリ。
これならいつでも熊本に帰ることが出来る。
手持無沙汰になった私は時計を確認する。プロデューサーが迎えに来るまで、まだ少しだけ時間がある。
少しこの辺りをブラブラしてみよう。
「うわぁ、東京って凄いなぁ」
まるで早送りをしているかのように、人々は行き来する。この中に飛び込んで行ったら、そのまま流されてしまいそう。
「キャッ!」
そんなことを考えながら歩いていたからかな、私は何もないのにつまずいてしまい、すってんとこけてしまう。
「いたた……、頭打っちゃった」
ヒリヒリとする額を抑える。たんこぶは出来ていなくて一安心。
「お客様、大丈夫でしょうか?」
立ち上がろうとすると、手を差し伸べられていることに気が付いた。
57 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:09:21.77 ID:hmA1Na8q0
キャビンアテンダントの人かな、凄く綺麗な人だ。やっぱり都会の女の人って、みんな美人――。
「お客様?」
「あっ、はい! え、えっと、ごめんなさい! だ、大丈夫ですす!」
心配そうにこちらを覗き込むCAさんの顔があまりにも近かったものだから、不覚にもドキってしてしまった。
も、勿論そ、そういう性癖はない……、はず……。
「そ、その! ありがとうございました」
「どういたしまして」
軽く会釈するとCAさんは歩いていった。仕事の邪魔、しちゃったかな。
「でも今の人、本当に綺麗だったなぁ。私と大違いだよ」
青くスラッとした制服を着ているからか、歩いているだけでも凛々しく見える。それに比べて私は……。自信を無くしちゃいそうだ。
あの人もステージに立てば、きっと素敵なアイドルになれるはず。プロデューサーさんも、ああいう人をスカウトすればいいのに。
58 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:10:15.92 ID:hmA1Na8q0
「そんなことないさ。小日向さんには小日向さんの良さがある」
「へ?」
「待たせたね、小日向さん」
「え? プロデューサーさん?」
私の名前を呼ぶ声に振り返ると、そこにはプロデューサーさんが。
「少し早く来ちゃってね。ブラついていたら小日向さんが転んでいるのを見つけてさ」
「み、見てました?」
「あー、うん。バッチリと」
バツの悪そうに私から目を逸らす。
「わ、忘れてくださぁい!」
「うわっ!」
ポカポカと彼の胸を叩く私。自分の顔を見ることは出来ないけど、きっと涙目になっているんだと思う。
「小日向さん、俺としては凄く嬉しいんだけど、人の目があるといいますか……」
「へ?」
ああ、どうして私は自分から目立つようなマネをしてしまうんだろう。ちらほらと私たちを見て笑う声が聞こえてくる。
あっ、今誰か写メった!
59 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:13:54.87 ID:hmA1Na8q0
「う~、どうしてこうなっちゃうかな……」
「あはは、名前が売れれば、これの比じゃないぞ?」
「そ、それなら! 売れなくていいです!」
「それは困るかな。ご両親と約束しちゃったし……」
「そ、そうですよね! ほ、程々に売れます!!」
「それも困るかな、うん」
トップアイドルになるという決意はどこへやら。プロデューサーは面白そうに私を見ているけど、私は結構いっぱいいっぱいだ。
「早速だけど動こうか!」
「は、はいぃ! ま、参りましょう!」
「おーい、そっちは逆方向だよー!」
嗚呼、穴が有ったら入りたい――。ホームセンターでスコップでも買おうか、真剣に悩んじゃいました。
60 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:23:25.01 ID:hmA1Na8q0
――
「えーと、プ、プロデューサー! 今からどちらに向かうんですか!?」
「まず一旦小日向さんの新居を案内しておかないとね。引っ越し作業は終わっているみたいだから、手荷物を置いて事務所に向かうかな。そこで色々とすることが有るんだ」
「す、すること、ですか?」
自分も確認するように、口に出す。
まず社長と事務員さんを紹介しなくちゃいけない。緊張しいな彼女だけど、この2人なら大丈夫だろう。
次に衣装合わせ。これは男の俺じゃなくて、事務員の千川ちひろさんが担当する。
最後にあいさつ回り。昨日まで本当に普通の女の子だった彼女の知名度は当然0だ。だからここでお世話になる皆様へと、小日向さんの顔と名前を売らなくちゃいけない。
作曲家の先生、レッスンを見てくださるトレーナー、宣材を撮ってくださるスタジオのスタッフ。
すべきことは山積みだ。全部終わるころには、2人ともクタクタになっているだろう。
「うん。今日からバリバリ活動していくんだけど、その前に」
「な、なんでしょうか?」
この問題を解決しなくちゃいけないな。
61 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:25:30.19 ID:hmA1Na8q0
「ねぇ、小日向さん」
「は、はい!」
「やっぱり、まだ慣れない?」
「え? 慣れない?」
俺の質問の意図をつかめなかったのか、キョトンとした顔を見せる。
その反応も可愛らしいと思えるのは、彼女の才なのか、俺が入れ込み過ぎているからなのか。
「まっ、無理はないかな。良く知らないような男と2人っきりで車に乗っているんだし」
「あっ、そ、そうですね」
「うっ、そう素で返されたらくるものがあるな」
だけどまぁ、仕方ないことかもしれない。
熊本から出たばかりの少女が、全く知らない東京で、ほんの4日前に出会ったばかりの男と2人っきりのドライブ。
彼女じゃなくても身構えてしまうだろう。
62 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:27:44.68 ID:hmA1Na8q0
それに彼女はかなりの緊張しいだ。恐らくこうやって父親以外の男性と2人っきりになるという経験も少なかったのだろう。
さっきの空港でもそうだった。俺の存在を意識していないときはプロデューサーと普通に呼べるのに、いざ俺を目の前にすると上手く呼べない。
彼女らしくて微笑ましく思えるけど、アイドルとしては落第点だろう。寧ろ強引に自分を売り込める子の方が大成するはずだ。
だけど俺は、彼女をトップアイドルにすると誓ったんだ。雪の上を歩くようにゆっくりでも良い、小日向さんが安心して活動できるように、俺は走り回らないと。
「そうだなぁ。目的地に着くまで結構時間があるし、それまでさ、互いのことをもっと知るってのはどうかな?」
「た、互いのことをもっと知る?」
「そっ。アイドルとプロデューサーってさ、いわば二人三脚で頑張って行かなくちゃいけない。そのためにも、俺は小日向さんのことを知りたいし、俺のことを君に知って欲しい」
「どうかな? 勿論、やましいことなんか聞かないよ? 好きな食べ物だったり、好きなことだったり、他愛のないことをね」
よくよく考えると、俺自身彼女のことをほとんど知らなかった。それで良くプロデュースするなんて言えたものだ。
まあ、これからたくさん知って行けばいいか。
「わ、分かりました! それじゃあ、えーと……」
難しい問題を解くように、少し真剣な表情を浮かべる小日向さん。そこまで深く考えなくていいのに。
「じゃあ俺から聞くね。小日向さんの好きな食べ物は?」
「え、えっと! 私の好きな食べ物は……」
63 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:32:52.64 ID:hmA1Na8q0
「へぇ、そうなんだ。ちょっと意外だったかも」
「そ、そうですか? 友達にもよく言われるんです。それじゃあ私の番ですね」
「さっ、なんでも聞いてくれ!」
「好きな動物を教えてください!」
「動物? そうだな、昔犬を飼っていたっけか」
ラジオから流れる新人アイドル(実はパーソナリティーの1人は小日向さんと同い年だったりする)のラジオをバックに、俺と小日向さんは会話のラリーを続けていた。
最初こそはぎこちなく、恥ずかしそうに答えていた彼女も、俺と話すことに慣れてきたのか、
少しずつスムーズに言葉を紡げるようになっていく。
好きな科目、好きな番組、好きな動物。決して特別なことなどしていないし、気の利いたことも言えない。
だけど俺たちは徐々に距離が近づいている、そう感じていた。
「そうなんですか。私はクマが好きなんです」
「クマが? これまた意外なのが飛んできたな。猫とかが好きだと思っていたけど」
日向ぼっこが大好きな猫は、彼女そっくりだ。美穂にゃんか……。
『は、は、恥ずかしいけど頑張りますにゃん!』
方針としては有りかもしれない。
64 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:36:41.67 ID:hmA1Na8q0
「猫も好きですけど、クマが一番です。赤ちゃんのクマってすっごく可愛いんですよ。ギューってしたいぐらいです!」
「そういや、その服もクマの絵が描かれてるね」
「はい。友達が誕生日にくれたんです」
幸せそうな表情で答える小日向さん。クマと聞くと、どうしても獰猛な動物の代表として出てしまうのだが、
それを口にするのも可哀想なので黙っておく。
そう言えば昔、ヤクザゲーかと思ったらマタギをしていたゲームが有ったっけか。
「そうだな、いつかクマの赤ちゃんと共演できる日が来ればいいね」
「はい! わ、私、頑張りますね! あっ、これ見てください! クラスメイトの皆がくれたんですけど、この絵が可愛いんですよ」
「ははっ、今運転しているから、また後で見せてもらうよ」
「あっ、ごめんなさい……」
手ごたえは十分に感じることが出来た。小日向さんも俺に対して、遠慮がなくなってきている。
そうこうしている内に、新居が近づいてきた。楽しい時間と言うものは、本当に早く過ぎていく。
65 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:37:51.98 ID:hmA1Na8q0
「そろそろ着くから。最後に一つ。小日向さんの好きなことって何かな?」
「私の好きなこと、ですか?」
「そっ、好きなこと」
「私の好きなことは……、笑わないですか?」
伏し目がちに俺を見ると、小声で答える。何か変わった趣向でも持っているのだろうか。
「ん? 笑わないよ。言ってごらん」
「本当ですか? じゃ、じゃあ言いますよ。私、日向ぼっこが好きなんです」
「日向ぼっこ?」
「はい。や、やっぱり、可笑しいですか? うぅ、変な趣味って思われちゃったかな……」
見る見るうちに顔が真っ赤になっていく。
そう言えば、彼女と初めて出会った日も、木漏れ日暖かなバス停で、無防備に寝ていたっけか。
あの寝顔に、俺はティンと来たんだ。
もしも彼女が日向ぼっこをしていなかったら、俺は他の誰かをプロデュースしていたのだろうか。
そんなこと考えても仕方ないか。
66 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:39:31.68 ID:hmA1Na8q0
「変だとは思わないよ。日向ぼっこ、気持ちいいもんね」
「は、はい! 気持ちいいです! そ、その、暖かなお日様の中でのんびりすると、嫌なことも忘れられちゃうんです」
「あっ、わ、私のお勧めはやっぱりあのバス停ですね! 木の間から漏れる陽光が、、眠りの世界へ優しく誘ってくれるんです。こ、今度プロデューサーもどうですか?」
「ッ、あはは!」
「ええ!? わ、笑わないって言ったのに! 酷いです!」
「ご、ごめんごめん……。小日向さんがここまで盛り上がるなんて思わなかったからさ。堪えるのは無理だったよ」
「も、もう! プ、プロデューサーなんか知りません!」
「あ、あはは……。ごめんなさい」
その後小日向さんが顔を真っ赤にして止めてくれるまで、俺はひたすら謝り続けた。
しかし小日向さんがここまで語ってくれるとは驚きだった。日向ぼっこ、恐るべし。
しかし日向ぼっこ、か。彼女のために仕事を取って……、ってそもそも日向ぼっこだけの番組って需要あるのか?
「申し訳ございませんでした!」
「あ、あの。わ、私そこまで怒ってないですし、ってそもそも怒ってなんかないです。なんか、ごめんなさい……」
担当アイドルに謝らせる新人プロデューサー。社長が見ていたら、減給ものだな。
67 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:40:39.88 ID:hmA1Na8q0
――
「さぁ、着いたよ。ここが小日向さんの新しい家だよ」
「は、はい! す、素敵なおうちですね」
「まだ中を見ていないだろ? 高校生のひとり暮らしってことで、あんまり豪華なところではないけどね。」
プロデューサーから荷物を預かり、ドアの鍵を開ける。
「し、失礼します!」
「プッ……! 小日向さん、ここ君の家なんだから、失礼しますは違うよ」
「そ、それもそうですね! えっと、ただいま!」
他の人の部屋を見たことがないから、比べるのもおかしな話だと思うけど、私の部屋は1人暮らしをするには広い方だと思った。
いや、まだ荷物を空けてないからそう見えるだけかな。部屋には梱包された段ボールの山が1か所に纏められている。
「あっ、ここ。お日様が当たるんですね」
「そうだな。日当たりも良く、事務所や学校へもバスがあるから、立地はいい方だと思うぞ」
ベランダに出ると、暖かな陽だまり。洗濯物も良く乾きそうだ。ここに布団を置いたら、気持ちよく眠れる自信がある。
少し遠くを見てみると、緑色のバスが止まっているのが見えた。残念ながら向こうには、ベンチも屋根もないみたいだ。
68 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:45:06.18 ID:hmA1Na8q0
「さてと、ここでゆっくりしていたいのも山々なんだけど、小日向さん。事務所に行こうか」
「あっ、はい!」
いつまでもベランダで暖まっているわけにもいかないみたい。名残惜しいけど、これからいつでも出来るんだから我慢しておく。
キャリーバックを置いて、貴重品とポーチだけを持って部屋を出る。えっと、忘れ物ないよね?
「じゃあ行こうか」
「はい。えっと、……行って来ます!」
返事を返してくれる人はもういない。それはとても寂しいことだけど、私たちは繋がっている。笑顔で私を見守ってくれている。
たとえどんな遠くに行っても、この絆だけは切れることは無いんだから。
69 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:46:40.49 ID:hmA1Na8q0
「さぁ、ここが今日から君の所属する事務所、シンデレラプロだ」
「あのー、社長さんと事務員さんってどのような方ですか?」
「あ、気になる? どちらも優しいくて良い人だよ、小日向さんの活動を、最大限サポートしてくれるよ」
そう言ってもらえて、一安心。もしヤクザさんみたいな人が出てきたら、私は泣いて熊本へと逃げ帰っていたと思う。
「ふぅ、良し!」
緊張で心臓はバクバクと鳴っている。正直言うと、やっぱりまだ怖い。
だけど同時に、新たな出会いを楽しみにしている私もいる。まだ見ぬ2人に不安と期待を抱いて、事務所の扉を開けた。
「ただ今戻りました!」
「し、失礼します!」
事務所の中へ一歩踏み出す。靴1つ分ぐらいの小さな一歩だったけど、私にとっては月に降り立った一歩よりも、大きな一歩だ。
「ほう、彼女が……」
「あら、プロデューサーさん。それに、美穂ちゃんですね。ようこそ、シンデレラプロへ!」
「は、はい! こ、こ、小日向美穂です! き、今日からお世話になります! よろしくお願いいたします!」
なんと言ったかは覚えていない。その時私の頭の中は真っ白だったから。
嫌われないかな?
変な子と思われないかな?
色々心配していたけど、口に出すと消えてしまった。
70 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:49:21.49 ID:hmA1Na8q0
「うむ、元気があっていい子だ! 君を信じて良かったよ、プロデューサー君」
「そうですね、社長。2人とも、もっとこっちに来ませんか? 今お飲み物入れますね。プロデューサーさんはコーヒーですよね? 美穂ちゃんはコーヒーと紅茶、どちらが良いですか?」
「えーっと、じゃあ紅茶でお願いします」
「分かりました! じゃあ美穂ちゃん、少し座って待っていてくださいね」
事務員さんは人懐っこい笑顔で私を座らせると、棚からティーセットを取出し、慣れた手つきでお茶を煎れる。
「はい、どうぞ」
「すみません、わざわざ。いただきます」
「あ、ありがとうございます。えっと、いただきます」
プロデューサーさんがカップに口をつけるのを確認して、私も真似るようにカップを口に近づける。
ふんわりと甘い香りが鼻を通っていく。何の香りだろう。
「美味しい……」
私はお茶のことに詳しいわけじゃないけど、この紅茶が美味しいということだけは分かる。
元々の美味しさもあると思うけど、やっぱり煎れてくれる人の技量が高いのかな。私が今まで飲んだ紅茶の中で、一番美味しい。
「ふふっ、ありがとうございますね」
事務員さんは相変わらずニコニコと笑っていて、それに釣られて私も頬が緩んでしまう。
71 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:51:13.86 ID:hmA1Na8q0
良く見ると胸に手書きの名札が。えっと、ちひろ?
「あっ、自己紹介が遅れましたね。私、この事務所で事務員をしている千川ちひろです」
「そして私がこの事務所の社長の、――だ。分からないことが有れば、なんでも聞いてくれ」
ちひろさんと社長か。うん、プロデューサーさんが言っていた通り、優しそうな人で良かった。
だけど1つ、ちょっとした疑問が。
「え、えっと、1つ聞いていいでしょうか?」
「うむ、何でも聞きなさい」
「私以外のアイドルさんって、いないんですか?」
そう、今この事務所には私を合わせて4人しかいない。もしかしたら今仕事中の先輩がいるかもしれない。
だけど事務所内を見渡してみると、とてもそんな形跡はない。それどころか、本当に芸能事務所か尋ねたくなるぐらいだ。
「もしかしてプロデューサーさん、説明してなっかったんですか?」
「うっ、そう言えば出来たばかりとしか言っていませんでしたね……」
ちひろさんの質問に、プロデューサーさんは苦い顔をする。えーと、まさかこれって……。
72 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:54:53.12 ID:hmA1Na8q0
「す、すみません。こ、これってつまり……」
「君の考えている通りだよ。わが社の所属アイドルは、」
その続きは聞きたくない!! 普段信仰しない神様に祈ってみる。
だけど、現実はなんと残酷なことか。社長の言葉は、私の一縷の望みを破壊してしまった。
「……小日向君、君一人だ」
「えっと、その……。大丈夫! 小日向さんならいけるって!」
「そ、そうですよ! ほら、美穂ちゃんだけだから、仕事を独占ですよ!!」
仕事独占かぁ。それはとても嬉しい話……。
「え、ええええええ!?」
分かってはいたけど、お約束のように悲鳴を上げる。
お父さん、お母さん、クラスの皆。私のアイドルライフは、前途多難です。
73 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:55:55.07 ID:hmA1Na8q0
「その、すまん! ちゃんと説明していなくて……」
「い、良いんです! プ、プ、プロデューサーさんが悪いって訳じゃありませんし……、それに確認しなかった私も悪いんですから!」
「いや、これは俺が悪い!」
「そんな! 私が悪いです!」
1人では出来ないこと、みんなとならば出来ること。いつだったかそんな歌があったっけ。
だけど今私が置かれている状況は、まさに一人ぼっち。流石にこの展開は予想もしていなかった。
自分たち以外に人がいてもお構いなしに、私とプロデューサーは互いに謝罪の応酬を繰り広げる。
私が悪い、俺が悪い。どちらも折れずに平行線。
「あー、2人とも良いかね?」
「「は、はい!」」
そんな私たちの不毛なやり取りを、社長さんが鶴の一声で終わらせる。優しそうな人だと思ったけど、
やっぱり社長と言うだけあって貫禄が凄い。
「コホン。この事務所は新しく設立したばかりの事務所でね。言ってしまえば0からのスタートを切るということなんだ」
「わ、私が第一号ってこと、ですか!?」
74 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:57:54.98 ID:hmA1Na8q0
「うむ、この事務所として最初に売り出すアイドルは、他でもない君だよ」
言ってしまえば、それは個人事務所と同じこと。この事務所も、社長さんもちひろさんもプロデューサーも、私一人のためだけに動いてくれる。
それは、なんと贅沢な話だろう。
「責任重大、と思っているのかね?」
「え?」
まるで私の心を覗いているかのような社長の言葉。こんな状況に立たされて責任を感じるななんて、無理な話だ。
「確かに、この事務所の存続は君にかかっているだろう。嘘をいくら言ったところで、その事実は変わらない。だが」
社長は優しい目で私を見て続ける。
「彼が信じた子だ。大丈夫、君ならトップアイドルになれる。輝くステージで新たな時代を切り開くことが出来る。私も確信しているよ」
「で、でも私は……」
きっと最後のチャンスだ。ごめんなさい、そんなの無理です――。
どうしてだろう。そう言うことも出来たはずなのに、私は口にしたくなかった。
弱音を吐かないように、口を強く噤む。
「小日向さん、俺は君となら出来る。――そう信じている」
「プロデューサー……」
75 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/21(月) 23:59:06.42 ID:hmA1Na8q0
初めて出会った時から、そう自信満々に答えるプロデューサー。本当に、どこからそんな自信が来るんだろう。
「私もそう思いますよ。大丈夫ですよ、美穂ちゃん!」
「この事務所の歴史をさ、作って行かないか? シンデレラプロを大きくするんだ。そうすれば後輩たちも出来る」
「それに、アイドルはこの事務所だけじゃないさ。群雄割拠のこの時代、いくつもの事務所があるし、色々なアイドルたちもいる。君と同世代の子から、小学生まで幅広くね。ライバルも仲間もいる、君は1人じゃないよ」
1人じゃない――。私には応援してくれる皆がいる。夢を託してくれた両親がいる。そして何より、
こんな私を信じてくれる人たちがいる。それだけで十分だ。
大丈夫、私は変われるはず。
「おっ、良い目をしているね。気合は十分ってところかな?」
「はい! わ、私ここで頑張ります! トップアイドルになります!!」
「良く言った! 目指せトップアイドル!」
きっとうまくいく。どうしてかと聞かれても答えられないけど、なんとかなるんだ。
そう思えたのは、ちょっとした進歩なのかな。
76 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/22(火) 00:04:09.86 ID:xv/jrWvY0
「それじゃあ美穂ちゃん、今から衣装合わせしましょうか」
「え? 衣装合わせですか?」
ちひろさんはいつの間にか数着の衣装を持ってきていた。今からこれを着るのかな?
「それでは今から着替えますので、社長とプロデューサーさんはしばらく出ててくださいね! さてと、美穂ちゃんは脱ぎ脱ぎしましょうね!」
「え? きゃあ!」
プロデューサーと社長を強引に外に追いやると、ちひろさんは私の服を脱がせ始めた。
素肌に触れる彼女の手は不思議と暖かく、心地よい……、って何を考えているの私!?
「それじゃあまずはこの服を着ましょうか」
「あ、あの! 服ぐらい自分で着れます!」
そうでも言っておかないと、ちひろさんに着せ替え人形みたく遊ばれてしまっていただろう。
流石にこの状態は寒いので、受け取った服を着てみる。
77 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/22(火) 00:05:57.62 ID:xv/jrWvY0
「まぁ! とても似合ってますよ」
「そ、そうですか?」
「鏡を見てみましょう! ほら!」
明るい口調の彼女に促されるまま、大きな姿見を見る。
「こ、これが私?」
「はい! 社長とプロデューサーさんも呼んできますね」
鏡には、不安そうな顔をして、とてもじゃないけど外で歩くには恥ずかしそうな、
だけど可愛らしいピンク基調の服を着た私が映っている。
「ほう、なかなか様になっているじゃないか」
「そ、そうですね……」
うんうんと頷いている社長の隣で、何故かプロデューサーは恥ずかしそうにこちらを見ている。
「あ、あのー。プ、プロデューサー? ひょっとして、に、似合ってませんか?」
「い、いやそう言うんじゃなくて」
そうは言うけど、妙に歯切れが悪い。どうかしたのかな……。
78 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/22(火) 00:09:02.76 ID:xv/jrWvY0
「美穂ちゃんが可愛いから、見惚れてるんですよ!」
「ええ!?」
「なっ! ちひろさん! 変なこと言わないでください!」
「か、可愛いですか……?」
どうやら図星だったようで、プロデューサーの顔もみるみる赤くなっていく。
彼は私から目を逸らそうとするも、ちらちらとこっちを見ている。却ってそっちの方が恥ずかしいです。
「でもプロデューサーさんも良いと思いませんか? 美穂ちゃんにピッタリですよね」
「そ、そうですけど……」
「ならば良しってことで! さぁ、お2人は出てってくださいね! 今から着替えますから」
「ま、まだ有るんですか?」
「こっちが良いかなぁ?」
「き、聞いていますか!?」
男性陣を追い出し、ちひろさんは鼻歌を歌いながら、服を選んでいる。私の言葉も耳に入っていないみたいだ。
ちひろさんプレゼンツの小日向美穂改造計画は、プロデューサ-が次に入っている予定を思い出すまで続いた。
79 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/22(火) 00:11:12.89 ID:xv/jrWvY0
「はぁ、疲れたぁ……」
あの後、時間がギリギリになっていることに気付いたプロデューサーは、私を連れて今後お世話になる方々へのあいさつ回りに向かった。
ついさっきまでテレビ局やスタジオを回っており、家に着いたのは22時過ぎだ。
夜も遅く危険なため、プロデューサーに送って貰えたんだけど、プロデューサーはこの後もまだ仕事があるみたいだ。
「アイドルって大変だなぁ……」
シャワーも浴びずにそのままベッドに吸い込まれていく。まだ本格的に活動が始まっていないのに、この疲労感。
その上明日からは学校もある。学業と仕事の両立については特に言われなかったけど、
それは言わなくても分かるよね? って意味だと思う。
アイドル活動のせいで学生の本分である勉学がおろそかになっちゃ、本末転倒だもんね。
「今日はお疲れ様でした。お仕事頑張ってください、と」
今もどこかで汗を流しているであろうプロデューサーにメールを送る。
絵文字もないようなシンプルなメールだけど、私の気持ちが伝わってくれたらうれしいな。
「シャワー、浴びなきゃ……。すぅ」
立ち上がろうとするも、柔らかく暖かな布団の誘惑には勝てず、私はそのまま意識を失っていく。
こうして私の東京デビューは、あっちにこっちにドタバタしながらも幕を閉じた。
83 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 00:24:07.59 ID:HK3OE0J80
「って昨日シャワー浴びてないんだった!」
朝起きてすぐに、昨日そのまま寝ていたことを思い出し、慌ててシャワーを浴びる。勿論風邪をひかないように念入りに体を拭く。活動を初めて、いきなり体調を崩すようじゃダメだもんね。
「行って来ます!」
自炊をしなさいと言われてもいきなりは無理だった。買いだめしていた菓子パンで朝ご飯を済まして、
私は新しい学校へと向かう。
今度はどんな出会いがあるのだろう?
学校行きのバスに揺られていると、プロデューサーからの返信が来ていることに気付く。受信時刻は深夜2時。
それまで頑張っていたのかな?
『ありがとうな、小日向さんも大変だと思うけど、一緒に頑張ろうな』
「あっ、可愛いかも」
私のために選んでくれたのか、文末には可愛らしいクマさんの絵文字。それを見て私はホッコリする。
84 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 00:31:19.02 ID:HK3OE0J80
「えへへ」
携帯電話を見て頬を緩ませる女の子。周囲の人は、恋人からのメールを見ているとでも思うのかな。
「あっ、降ります!」
メールをずっと見ていたからか、バスが学校についていたことに気付かなかった。
気付いた時にはもう遅い、バスは次の停車駅へと向かっていく。
幸い次の停車駅が歩いて2分程度の場所だったから、なんとか遅刻せずに済んだ。
「え、えっと! 小日向美穂です! そ、その! よろしくお願いします!」
新しいクラスは3年2組。あと3カ月ほどで卒業だというのに、急にやって来た転校生にクラスの皆は不思議なものを見るような目で見ていた。
私と言うとやはり癖はそう抜けず、緊張と恥ずかしさのあまり碌に自己紹介が出来なかった。
馴染めなかったらどうしようという私の心配とは裏腹に、転校生の宿命と言うべきか、
休み時間私はクラスの皆に取り囲まれた。
85 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 00:33:03.78 ID:HK3OE0J80
「ねえ小日向さんってアイドルなんでしょ?」
「え、ええ? ど、どうして知っているんですか!?」
「ふっふっふ、都会の情報力舐めちゃいけないよ? ってのは冗談で、昨日先生から聞いていたんだ。明日から転校生が来る、しかもその子はアイドルになるため上京してきた子だってね」
「そっ。だからみんな食い入るように見ていたんだよ。アイドルって言うからどんな可愛い子が来るんだろうって。学校中その話題で持ちきりだったよ?」
「しかしこの学校もすごいね。まさかアイドル2人目とは」
え? 2人目?
「わ、私のほかにもアイドルさんがいるんですか?」
「あっ、先生から聞いてない? まぁ結構忙しいみたいだから、あまり学校に来れてないけどね。今日は来てるんじゃないかな」
「ど、どんな子ですか!?」
「隣のクラスなんだけどさ、多分小日向さんも知っている子だよ。最近CDデビューも果たしたし。おっ、噂をすれば何とやらってね」
目くばせする方向には、ちょっと癖っ毛な黒髪をなびかせながら、駆け足で私の席に向かってくる女の子。
あれ? この子、どこかで見たことあるような……。
86 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 00:35:24.70 ID:HK3OE0J80
「ねぇ、貴女が小日向さん?」
「は、はい。そうです……」
「? 私の顔に何かついている?」
「し、島村卯月……、ちゃん?」
「ピンポン♪ 新人アイドルの島村卯月です! と言っても、実は芸歴1年ぐらいあるから新人でもないんだけどね。私も名前が売れてきたって事かな?」
島村卯月――。芸能界に入ったばっかりの私でも、彼女の名前は知っている。最近CDデビューを果たした新人アイドルで、私にとっては先輩にあたる人だ。
そう言えば昨日車の中で聴いていたラジオも、彼女がパ-ソナリティーだったっけ。
そんな凄い人が、私と同じ学校、しかも隣のクラスだなんて。何と言う偶然だろう。
「うん、話に聞いていたけど凄く可愛いなぁ。ねえ、美穂ちゃんって呼んでいい?」
「え、ええ?」
「美穂ちゃんは熊本から来たんだっけ? 私あんまり知らないんだけど、熊本ってどんなところ?」
「え、えっと……ば、馬刺しが美味しいです」
「馬刺し? うーん、お父さんは好きだけど私はあまり食べてことないかなぁ。今度分けて貰おうっと。他には他には?」

87 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 00:41:08.84 ID:HK3OE0J80
「そうだ! 熊本弁ってどんなのかな? ばってんとか?」
「え、あの……。その……」
戸惑う私をよそに、島村さんは話を続ける。
「うーづーき、落ち着きんしゃいな」
「あっ、ゴメン。同じ学校にアイドルの子が来るって言うもんだから、少し興奮しちゃって……」
私の顔に困惑の表情が浮かんでいたのだろうか、島村さんはバツの悪そうな顔を浮かべる。
「こらこら。嬉しいのは分かるけど、卯月のペースで話し過ぎなのよ」
「あ、あははは……。気に障っちゃった?」
「い、いえ! 大丈夫です、問題ありません! え、えっと熊本は、ラーメンもあります。熊本ラーメンは凄く美味しいです!」
折角話題を振ってもらったのに、英文をそのまま訳したような事しか言えない自分がそこにいた。
こういう時、歌うように言葉を紡げる人が羨ましくなる。
次振られた時に同じ踵を踏まないよう、熊本について勉強しておいた方がいいかも。よくよく考えると、今まで住んでいた町のことをほとんど知らないでいた。
88 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 00:42:05.99 ID:HK3OE0J80
「熊本ラーメンか。そういうのもあるんだ。今度学食のおばちゃんに作って貰おうかな」
「いくらあんたの注文でもそれは無理だっつ-の!」
「あだっ! 頭を叩くなんて酷いよー!」
涙目の島村さんを中心に、ドッと笑いが起きる。
「ホント酷いと思わない? 私一応アイドルだっていうのに、この仕打ち。芸人じゃないのにさ。美穂ちゃんからも言ってあげてよ! 卯月ちゃんをもっと労わろうって!」
「え、えっと……、でも楽しそう、かな」
「そんなー! あだっ! だから叩かないでって! スリッパは勘弁!」
「ふ、ふふふ!」
目の前で繰り広げられるコントのような光景に、思わず笑いが生まれてしまう。
「美穂ちゃんも笑ってないで助けてよー!」
「あはは、ごめんなさい、可笑しくて……」
89 : >>83~ 4話 フォレスト・ガンプのチョコレートボックス ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 00:58:23.75 ID:XZXluIZA0
「はぁ、芸能人と言うのは辛いものだなぁ。でも、美穂ちゃんの笑顔が見れたからよしとしますか!」
「え?」
島村さんは眩いばかりの笑顔を私に向ける。こんな素敵で楽しい笑顔が出来る人っていたんだ。
「美穂ちゃんさ、凄く良い笑顔をしていたよ。疲れなんか吹き飛んじゃうような、癒し系ってやつかな?」
「あんたにはない要素よね」
「だからそういうこと言わないでよ、もう! あっ、話を戻すね。アイドルになったばっかりで凄く不安かもしれないけど、その笑顔が有ればみんなを虜に出来るよ! 私が保証してあげる!」
「島村さん……」
「あー、ダメだよ。島村さんなんて。服屋の名前みたいで結構気にしてるんだからね。卯月ちゃんって呼んでくれるかな?」
「は、はい! えっと」
「ハイじゃなくてうん! 敬語とか使っちゃダメ!」
「でも、しま卯月ちゃんの方がデビューが早いから」
91 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:04:05.61 ID:XZXluIZA0
訂正
「そんなの、たかだか12ヶ月程度だよ? カレンダー12枚めくっただけじゃん。それに、私も同世代のアイドル友達欲しかったし! 今組んでいる2人って年下コンビだからさ。お姉さんは辛いのですよ」
「凛ちゃんだっけ? 黒髪の子の方がアンタより数倍大人びてるけどね」
「もう! これでも頑張ってるの! だから、タメ口で良いよ。クラス隣なんだしさ」
「う、うん。分かった、卯月ちゃん」
「美穂ちゃん、私たち友達だからね。アドレス交換しようよ」
「あっ、うん。ちょっと待って」
卯月ちゃんとアドレスを交換すると、私も私もと行列が出来ていた。途中でチャイムが鳴ってしまったため、
後ろの人まで回らなかったけど、この学校の皆も私を受け入れてくれた。卯月ちゃんと言う心強い仲間が出来た。
携帯電話のアドレス帳には、新しい名前がたくさん。まだ顔は憶えれていないけど、これから憶えて行かないと。
「そうだ、みんなにもメールしなきゃ」
不意に熊本の皆の顔が浮かんでくる。みんな元気しているかな?
昨日別れたばかりなのに、もう数ヶ月会っていないかのような錯覚さえ感じていた。
92 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:07:54.30 ID:XZXluIZA0
「私は元気にやってるよ、っと」
新たなクラスの皆と卯月ちゃんと撮った写真を添付して、送信。
『卯月ちゃんじゃん! 今度帰ってきた時はサインお願いね!』
送ってすぐに返事が返ってくる。どんなに離れていても、熊本の皆との思い出は色褪せないし、
これからも紡いでいける。でも今は、こっちの生活に慣れないと。
「うん、頑張ろう!」
東京での生活も、何とかなりそうだ。
93 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:09:30.27 ID:XZXluIZA0
「へぇ、島村卯月が同じ学校だったんだな」
学校が終わると私はバスに乗って事務所へと向かった。今日の予定は、人生初のレッスンだ。
プロデューサーの車に乗ってレッスン場へ向かう。
「はい。凄く可愛い子で、笑顔が素敵なんです」
「あの笑顔は人気があるからなぁ。お、そろそろかな。小日向さん、テレビつけて御覧」
「? はい」
プロデューサーに言われるままテレビをつける。映し出された小さな液晶の中には、3人の女の子。
その中の1人を、私は知っている。
「う、卯月ちゃん!」
テレビに映る卯月ちゃんは、あの眩しい笑顔を見せてステージに立つ。バックの2人は卯月ちゃんの言っていた年下のユニットメンバーかな。
卯月ちゃんよりも大人びている黒髪の少女と、子供っぽさが抜けきっていない元気そうな子。
この2人も、私より先にデビューしたってことだよね。
「~♪」
「わぁ……」
テレビから流れてくる可愛らしい歌声、見惚れてしまうようなパフォーマンス。私は彼女たちに心を奪われてしまった。
これが本当に数か月前にデビューしたばかりの子たちなんだろうか?
彼女は本当に、クラスの皆に弄り倒されていた卯月ちゃんなんだろうか?
もしこれを生で見ていたのなら、溢れんばかりのパワーに圧倒されていたと思う。
96 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:25:28.78 ID:GubJlyN50
「どうだい、凄いよな。彼女たちも小日向さんと同じように、数か月前にデビューしたばかりなんだ」
「New Generation Girls、略してNG2。デビュー以来飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍している、アイドル界の超新星だ。まだまだ完成度は荒削りだけど、3人の持つパワーがファンを魅了し続けている。今最も勢いのあるユニットだね」
「やっぱり卯月ちゃん、凄いんだ」
それに比べて私は、とネガティブな感情が生まれそうになる。私一人だけだったなら、
きっと心が折れていたかもしれない。
でも――
「凄いさ。ここに立つまでどれだけ努力したか、想像もつかないな。だけどさ、小日向さんも負けちゃいない。君には君の良さがある。だから、これから目いっぱいレッスンして、歌を出して、追い付いてやるんだ。いや、追い越してやろう!」
「は、はい!」
でも私は1人じゃない。卯月ちゃんに負けないぐらい、素敵な仲間がいるんだから。
「そうそう、NG2だけど、実はもう1つ、あだ名が有るんだとさ。と言っても、彼女たちのモットーみたいなもんだけどね」
「そうなんですか?」
「トライエイト。本当はそう言う名前になるんだったとか」
「どういう意味です?」
トライ……挑戦だよね? エイトは8?
106 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:52:18.79 ID:R8BCImKC0
>>98 訂正
「アイドルアカデミー大賞とアイドルアルティメイトって知ってる?」
「は、はい! それは私でも知ってます」
アイドル駆け出しの私でも、それは知っている。ただどう違うかと聞かれると、答えに困ってしまうけど。
「簡単に説明すると、アイドルアカデミー大賞――IAは5つの部門賞と、対象の6つが有るんだ。部門賞と言うけど、簡単に言うと地域ごとでの活躍を評価される、いわばローカル賞ってとこかな。大賞はそれと別に、色々と条件が有るらしいけど、詳しくは知らないんだ。ノミネートされるためにも、CDの売り上げランキング20位以内など結構厳しいんだ」
「アイドルアルティメイト――IUもニュアンスとしては似ているけど、こっちは予選を勝ち進んでいく、トーナメントみたいな感じかな。昔は世界一のアイドルを決める大会だなんて言われていて、予選や本選で敗退すれば、敗者の汚名だけが残って引退するアイドルも少なくなかったとか。最近はIAに押され気味だけど、こちらも由緒ある番組だ」
99 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:43:16.75 ID:CXYzUeKC0
「ああ、これはどうなんだろうと思うけど……。3人のカラーが、朝、昼、夜ってなっているんだってさ」
「朝昼夜?」
「そもそも1日を3等分したところで、朝昼夜になるってのも変な話だけどね。服とか本人のキャラクターがそれを表しているんだとさ」
本人のキャラクターか。卯月ちゃんは……、
「朝かな? 卯月ちゃんは」
「正解。言われなきゃわかんないけどさ。ちなみに、昼は本田未央、夜は渋谷凛ってとこかな。俺も実際に会ったわけじゃないけど、番組とかのインタビューを見る限り、納得はできたかな」
「トライエイトか……」
「彼女たちは欲張りにも、全部狙おうとしている。かつて伝説と呼ばれたアイドルもいたけど、彼女が活動していた時期はIUだけだったからね。8つとも制覇するとなると、それはもうこの世界に未来永劫名前が刻まれる。銅像が建つレベルだよ」
いつか彼女たちとも戦わなくちゃいけない日が来るのだろう。私は、本当に行けるのだろうか――。
「ううん、行ける!」
何度だって言ってやる。私は1人じゃない。
100 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:44:28.79 ID:CXYzUeKC0
レッスンスタジオに着いた私は、更衣室でジャージに着替えて、トレーナーさんの指示に従って体を動かす。
「ワンツーワンツー!」
「はぁ、はぁ……」
「はい、そこまで!」
「ぜぇ、ぜぇ……」
「うーん、動きが悪いわけじゃなんだけど、体力が足りてないですね」
「そうですね。実際には歌いながらやっているわけですし、もっとハードですよね」
――分かってはいた。事務所の皆は優しくて、学校の皆も私を受け入れてくれて、アイドルの友達も出来た。
滑り出しこそは順風満帆に見えたけど、当然厳しいことも辛いこともあるって理解していた。
だけど心のどこかで、体育の延長だと甘い考えを抱いていたのかな、ダンスレッスンがここまで大変な物とは、思ってもいなかった。
きっとボーカルレッスンとビジュアルレッスンも同じぐらい、下手するとこれ以上に厳しいかもしれない。
「お疲れさん、はいスポドリ。あっ、一気飲みはするなよ? 却って疲れるからな」
「あ、ありがとうございますぅ……、ふぅ」
息も切れ切れな私に、プロデューサーはスポーツドリンクを渡す。言われた通り、キャップを空けて少しだけ飲む。
うん、美味しい。
101 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:46:21.82 ID:CXYzUeKC0
「ふぅ、少しだけ回復しました」
「あんま無茶するなよ? と言っても、多少無茶をしてほしいというジレンマがあるんだけどな」
プロデューサーの言いたいことも分かる。無茶してでも頑張らないと、私は彼女たちと戦うことすら出来ないんだ。
「さてと、レッスンのプログラムを変えないと。小日向さんに今足りないものは、ズバリ体力」
「まぁ最初からダンスレッスンについてこれる子なんてそうそういないんですが、小日向さんの場合は特に顕著で、体育以外で体を動かしたことがほとんどないみたいですし、まずは体力づくりを中心にしていきましょう」
これまでしてきた運動らしい運動と言うと、家の周りを散歩するぐらいだ。
こんなことならもっと体育に積極的に参加しておくべきだったな、と少し後悔。
「ですので!」
「ですので?」
「近くに公園があるんですけど、そこを1周。それから始めます」
近くの公園ってあの公園のことかな? ここに来る途中見えたけど、結構広かった気がする。
「皇居ランってやつですか」
102 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:47:10.30 ID:CXYzUeKC0
「皇居?」
「あー、小日向さんは知らないのかな。皇居外苑」
「えっと、名前ぐらいは」
たまにニュースとかで見たことが有る。ジョギングをしている人が多かった記憶があるけど、
そこを走ってくるのかな。
「確かこの後は予定がなかったはずですよね、プロデューサー」
「ええ、そうですね。学校帰りと言うこともあって、複数のレッスンを受ける時間もなかったんで。それに今日は初日なので、ゆっくりと慣れていこうと考えていましたから」
「ちょうどいいです。小日向さん。時間をかけても、途中でウォーキングを混ぜても構いません。とにかく皇居外苑を1周走って来てください。それで今日のレッスンは終わりです」
「わ、分かりました!」
「よし、行ってこい!」
プロデューサーに背中を押されるように、私は外へ――。
103 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:48:44.30 ID:CXYzUeKC0
「いい返事ですね。ですが、プロデューサー。走るのは彼女だけじゃありませんよ」
「へ? 俺?」
ハトが豆鉄砲を食らったような間の抜けた顔のプロデューサーを、トレーナーさんは冷ややかな目線で見ていた。
「当然です。何担当アイドルだけに走らせようとしているんですか! あなたも一緒に走ってきてください! 終わったら連絡くださいね」
「え、マジですか? 俺今スーツなんですけど」
「マジです。大マジです。ジャージ貸しますから着替えてくださいね。はい、行ってらっしゃい!」
トレーナーさんに背中を蹴飛ばされるかのように、御揃いのジャージに着替えさせられたプロデューサーと私は、皇居外苑へと向かう。
「俺途中で倒れたりしないかな……」
「あはは……」
走る前から浮かない顔のプロデューサー。彼も運動は苦手なのかもしれない。少し親近感が湧いた。
105 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:50:24.88 ID:CXYzUeKC0
――
「お、おーい……。小日向さぁん、生きてるかぁ?」
「な、何でしょうかぁ、プロデューサー……、はぁ、はぁ」
皇居外苑1周5km。20歳を超えた身には中々キツイものがあった。運動不足なのは小日向さんだけじゃなくて、俺もだった。
これは明日筋肉痛コースだろうな……。
途中歩きつつ、子供に追い抜かされつつもなんとか5kmを走り終えた俺たちは、まさに満身創痍と言う言葉がしっくりきた。
立つこともままならず、木の下で2人して寝ころんでいるのだった。
「そう言えば、終われば連絡くださいって言ってたな、あの人。えーと、トレーナーさんトレーナさんっと」
「あ、トレーナーさんですか。今、走り終えました。へ? これを毎日しなさい? そ、そんな殺生な! ちょ、切れてしまった……」
「い、今毎日って言いましたか?」
「そ、そうみたいです、はい。毎日30分、走りなさいと」
ああ、なんと言うことだろう。1日の1/48はジョギングに費やされることが決定してしまったのだった。
107 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:53:45.99 ID:3pUpAZcC0
「が、頑張って体力をつけきゃあ!」
「小日向さん!?」
小日向さんは立ち上がろうとするも、まだ足に疲れが残っているのか、膝から崩れ落ちる。
「え、えへへ……。まだ足元がおぼつかない、のかな」
「大丈夫? 怪我してない!?」
「だ、大丈夫です。こんなに走ったのって、初めてですから。プロデューサー、も、もう少しだけこうやって寝ころんでいませんか?」
そう言って小日向さんはゆっくりと目を閉じる。日向ぼっこならぬ、夕日ぼっこってとこだろうか。
まだ紅く色づいていない葉が風に揺られて、小日向さんの顔に落ちるも、気づいていないようだ。羽と言い、何かと落ちてくるな。
「そうだな。実を言うと俺も結構来ているんだ。だからゆっくり……」
「すぅ、んにゅう」
「していてね、小日向さん」
木々の合間から見え隠れする夕日に照らされて眠る彼女は、それはもう可愛くて可愛くて。
このまま時間が止まればいいのに、そう思えるほどだった。
「やっぱ俺、入れ込み過ぎかな……」
108 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:56:55.85 ID:3pUpAZcC0
勿論担当するアイドルが世界一可愛いと信じていないと、この業界を歩いていけないだろう。
それでもだ。初めてのアイドルに入れ込み過ぎてないだろうか?
「距離感がうまく掴めないな」
遠からず近からず。プロデューサーとアイドルの距離は、男女の友達同士と同じと言うわけにもいかない。
「すぅ……」
俺の悩みをよそに、小日向さんは可愛らしい寝息を立てて夢の中。隣で寝転がると、俺まで眠ってしまいそうだ。
「そうもいかないんだけどさ」
俺たちに止まっている時間なんかない。だけど今は、こうやってゆっくりしていても誰も怒らないはず。
「プロデューサーさん、流石ですぅ……」
「どんな夢を見ているんだろう」
流石とまで言われる夢の中の俺はどんな奴なんだろう。出来ることなら、現実の俺よりもしっかりしていて欲しいものだ。
夢の中ぐらい、彼女に不自由をさせたくない。
「俺もしっかりしなきゃなぁ」
起きている彼女に認められるプロデューサーになる。当面の目標はそれにしておこう。
109 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/23(水) 01:57:35.71 ID:3pUpAZcC0
「ん、んん? 私、寝てたのかな……」
「おはようさん。いや、おそようって言った方が正しいのかな」
「い、今何時ですか?」
「あー、7時まわっちゃったかな」
「す、すすみません! 私寝すぎちゃって……」
「気にしなくていいよ。良いものも見れたし」
「い、良い物? な、なんですかそれ?」
「教えなーい」
「き、気になっちゃうじゃないですかぁ!」
「あはは、ごめんごめん。そうだ、小日向さん。晩御飯食べて帰らないか? 初レッスンお疲れ様ってことで、好きなものご馳走するよ。もちろん、俺の財布が許す限りね。東京グルメを案内するよ」
「そ、そうですか? じゃ、じゃあ! 前テレビでやっていたんですけど……」
なんとか誤魔化せたかな。携帯で時間を確認するふりをして、画像ファイルを見る。
幸せそうな寝顔を見せるお姫様がそこには写っていた。
113 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 14:27:40.37 ID:3OVXkzW40
書いていきます。卯月と美穂の同世代設定ですが、この話の開始時が秋なので、卯月は18歳になっています。卯月のプロフィールは1年ほど前にデビューしていたから17歳、現在18歳ということでご容赦ください。
114 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 14:28:31.38 ID:3OVXkzW40
「はぁ、はぁ……」
「ふぅ、疲れた……。小日向さん大丈夫?」
「え、ええ。5分だけ休ましてください」
「そうだな、その後レッスン場へ向かうか」
「は、はい!」
初レッスンの日から2週間、私たちは1日たりとも休まず皇居外苑を走っていた。
走り始めた頃は、1周した後にはもうヘトヘトで、次のレッスンに行くような体力は残っていなかったけど、
徐々に体力がついてきたのか、息が切れることも少なくなってきた。
むしろジョギングを楽しむ余裕が出来てきたと思う。暖かな日差しの中、風を切って走る。実に気持ちいい。
「ふぅ……、やっぱりここは落ち着くなぁ」
走り終わった後、芝生に寝転がる。心地よい疲れの中、私は木漏れ日を体いっぱいに浴びていた。
「光合成をしているみたいだ」
なんてプロデューサーは茶化すけど、成程あながち間違っていないかもしれない。麗らかな光の中で、疲れを癒す私の姿は花のようにも見えるのだろう。
出来るなら、可愛らしい花が良いな。
115 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 14:30:50.78 ID:3OVXkzW40
「さてと、時間だ。いつまでもゆっくりしたい気持ちは分かるけど、今日もレッスンを頑張ろう。特に今日のレッスンは、1週間学んだことをどれだけ活かせているかもチェックするテストでもあるな」
「テスト、ですか」
「そっ。そろそろレッスンだけじゃ飽きてて来ただろ?」
「い、いえ! そんなことないですよ」
とは言うものの、彼の言うように新しいステップへと踏み出したい、と考えている私がいるのも事実。
まだまだ早いと思うし、出過ぎた真似をと言われても仕方ないと自覚しているけど、それだけ活力が有り余っているんだ。
今の私は、結構ハイな気分だ。
「で今日のテストの結果では、CDデビューを早めることになる、そう考えておいてくれ」
「ええ!? シ、CDデビューですか?」
「ああ、突貫工事みたいに感じるかもしれないが、小日向さんは良くやってくれている。だからここらで、お茶の間に出てやろうってわけ」
いつか来るだろうと身構えていたCDデビュー。1か月先か2か月先か、はたまた1年後かと考えていたから、まさか所属して2週間でそんな大きな話がやってくるとは思ってもなかった。
やっぱり芸能界はスピードが違う。すると決めたら即実行、それがこの世界で生きていく秘訣なんだと思う。
116 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 14:36:48.21 ID:b1SlOW8T0
「で、でも早くないですか?」
「まっ、そうかもしれないな。だけど実際には振り付けや歌詞を覚えて、何より発表の場を自分の手で掴まないといけないから、結構時間がかかるんだよな。新曲を発表して、ランキングに入るのが4週間後ってとこだな」
「自分の手で掴む、ですか?」
「ああ、社長からも説明はあったと思うけど、オーディションに参加して勝つことで、楽曲を披露する場を作ることが出来るんだ。ファンを増やすには、何よりも露出が一番だからね」
「オーディション……」
小学校の頃の学芸会であったっけ。恥ずかしがり屋な私はいつも、木の役Bだったり、村人Dだったり喋らない役ばっかり選んでいた。
だからこういうオーディションと言う物自体、人生初体験だ。
「今日のレッスンはそのオーディションの練習、と思ってくれればいいさ。ダンス、歌唱、ビジュアルを複合的に見る事になるな」
プロデューサーはさらに続ける。
「まぁ実際のところ、一口にオーディションって言っても色々あるんだけどね。バラエティ番組なら審査員との面接があるし、ドラマや映画の場合演技力が試されるんだけど」
「今俺たちが目指しているのは、新人アイドルの登竜門。音楽番組『ファーストホイッスル』。聞いたことないかな」
ファーストホイッスル? 最初の笛?
117 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 14:40:20.45 ID:b1SlOW8T0
「えっと、熊本では映っていなかったと思います」
「あー、そうなのか。関東では人気の番組なんだけどなぁ。で、そこの番組でピックアップされたアイドルの多くは大きな成功を収めているんだ。君の友達の卯月ちゃんもこの番組で華々しくデビューしたんだ」
「卯月ちゃんも、ですか?」
「そう。彼女の今の活躍も、この番組で取り上げられたってのが大きいかな。とはいえ、当然競争倍率は激しい。初参加で合格できるほど甘いオーディションでもないのも事実。卯月ちゃん達だって何回か落ちているはずだ」
「そんな!」
信じられなかった。TVで見た彼女たちのパフォーマンスは、今の私がどうあがいても勝てるものじゃなかったのに、それでも落とされてしまうなんて。
「意外かい? でも彼女たちも最初は素人に毛が生えた程度だったんだよ? ここでの挫折が彼女たちの糧になったんだろうな、ファーストホイッスルに出演するために、彼女たちは合宿までしたって言うし、今の彼女たちが有るのは、この番組のおかげって言っても過言じゃないかな」
挫折を味わっても、周りとの実力差を思い知らされても、逃げずに夢を見続けることが出来る子だけが、輝くステージに立つことを許されるんだ。
華やかな世界の裏は、いつも厳しく泥臭い。
「それに、前に行ったトライエイト。――その8つ目がこれだ。正確には1つ目と言った方がいいかもしれないけどね」
「トライエイト……」
つまりそれは、卯月ちゃん達が目標の1つを達成したということを意味している。
118 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 14:53:20.74 ID:/H7YTZ6L0
「確かに、IAとIUが年に1回だけに対して、ファーストホイッスルは週単位だ。まぁ野球中継や他番組の特番との兼ね合いでだったりで放送されない日もあるけど、それでもチャンスは多い」
「これだけ聞くと簡単な話かもしれないけど、実際のところは相当ハードだ。1年間通して1度も合格できない人だってざらにいる」
「まずはハローホイッスルに出場すること。それが俺たちの目標だよ」
「そんなに大変なオーディションなんですか……」
「ああ、詳しくは俺も把握し切れてないんだけど、そん所そこらのオーディションとは一線を画しているな。見学は自由だから、一度どんなものか見てこようとは思うけどね」
「そのオーディションの予行演習が」
「そっ、今日のテスト。オーディション内容は非常にシンプルなものだからね。アイドルの3要素、ダンス、歌唱、ビジュアル。それをトレーナーさんに見て貰って、OKサインを貰うことが合格条件だ」
「足りないようなら、まだまだ基礎が出来てないってこと。CDデビューは遠くなるって考えておいて」
「分かりました。私、頑張ります!」
「よしっ、じゃあレッスン場に戻るか。何、いつも通りにやればいいさ。平常心平常心」
そう言って笑うプロデューサー。平常心、か――。
ダンスより歌唱力よりビジュアルよりも、私に一番足りないものだと思う。
「ううん、大丈夫!」
今日まで毎日頑張って来たんだから!
119 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 14:56:36.01 ID:/H7YTZ6L0
「エン、エ、エントリーナンバーい、1番! こ、小日向美穂でしゅ! よ、よろ、よろしく! おねっ、お、お、お願いします!!」
「小日向さん、肩の力抜いて、ね?」
「は、はいぃ!」
たった4人。目の前にいるのは、私もよく知っている人ばかりなのに、私が立っているのはレッスン場の木の床なのに、見られていると考えただけで、私はもう頭の中が真っ白になった。
心臓の鼓動は張り裂けそうなぐらいバクバクして、足はガクガクと震えている。第3者が見ると脅されているようにも見えたかもしれない。
「いつものレッスン通りにすれば大丈夫ですよ。だからほら、平常心です!」
ちひろさんにまで心配されてしまう。ああ、緊張しいな自分が恨めしい。
「は、はい! へ、へい、平常心……」
うう、ダメだぁ。いつも通りであろうとすればするほど、私の緊張は高まっていくだけだ。
「プロ、プロデューサー……」
情けない声を上げる私を、プロデューサーはじっと見据えている。そのまま時間が過ぎ去ってしまえばいいのに――。そう思っていると、彼は柔らかい笑みを浮かべた。
「小日向さん、俺たちを審査員と思っちゃだめだよ。そうだな……、クマのぬいぐるみとでも思ってくれ」
「ク、クマのぬいぐるみ……?」
120 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:06:10.09 ID:/H7YTZ6L0
「そっ、なら少しは緊張がほぐれないかな」
みんなをクマのぬいぐるみと思う? 私は目を閉じて、4人の姿をクマのぬいぐるみに置き換えてみる。
えーっと、社長はちょっと太めのおじさんパンダかな。ちひろさんは可愛らしい女の子のクマで、トレーナーさんはなんとなく厳しい目をしたクマ。
プロデューサーは……、ちょっとだけ格好良いクマ。本当に、ちょっとだけ。
ゆっくりと目を開ける。そこには4匹のクマのぬいぐるみがいた。どうしてだろう、ほんの少しだけ、緊張は解れていった。
「大丈夫かな?」
「うん、行ける」
自分に言い聞かせるように、私は小さく呟く。一歩前に出て、クマデュ-サーに目で合図。
「よし、行くか! ポチッとな」
ラジカセのスイッチが入り、アップテンポな曲が流れてくる。今日まで何度も聴いた曲だ。振り付けも、歌詞もちゃんと覚えている。アピールするタイミングもバッチリだ。そしてなによりも、
「キラメキラリ 一度リセット そしたら私のターン♪」
私は今、こうやって歌って踊っていることを楽しんでいる。
「フレーフレー頑張れ 最高♪」
もしもこれが観客一杯のドームの中だったなら? 輝くサイリウム、割れんばかりの歓声。
それはとっても、気持ちが良いんだろうな。
121 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:08:04.31 ID:/H7YTZ6L0
「え、えーっと……。ど、どうでしょうか?」
曲が終わり、恐る恐る問いかける。気が付くとクマのぬいぐるみは、元の皆に戻っていた。
「そうですね……」
トレーナーさんは腕を組んで考えるそぶりを見せる。私たちは息をのんで続きの言葉を待った。
「合格点を上げてもよろしいかと」
「ええ!? 本当ですか!?」
「やったね、小日向さん!」
プロデューサーはまるで自分のことのように、大きなガッツポーズを見せる。社長とちひろさんも拍手をしてくれていた。何だか、照れちゃうな。
「小日向さん! ほらっ!」
「え?」
満面の笑顔のプロデューサーは右手を私に向ける。パー?
「チョ、チョキ?」
122 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:09:59.39 ID:/H7YTZ6L0
「いや、ハイタッチしようと思ったんだよね」
予想していたものと違う行動をとってしまったからか、プロデューサーは決まりの悪い表情で私の右手を見ている。
「へ? そ、そうですよね! な、何やってたんだろ私……」
「ははは、じゃあ気を取り直して……、ハイター」
「コホン、盛り上がってるところ悪いですけど、少しいいですか?」
「ーッチってあれ?」
空振り。なんとなく、気まずく感じた。見るとプロデューサーも恥ずかしそうにしている。
トレーナーさんは私たちを見渡して口を開いた。
「確かに技術に関しては、曲を出しても良いレベルに達していると思います。ですが、小日向さんの致命的な弱点はまだまだ克服出来そうにないですね」
「私の致命的な弱点、ですか?」
「みなさん十二分に理解していると思いますけど、彼女は極度のあがり症です。彼女の魅力の一つと言ってしまえば反論できませんが、それが通用するほどこの業界は甘くありません」
123 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:18:45.66 ID:/H7YTZ6L0
厳しい口調を崩さずに続ける。確かにそうだ。いくら練習しても、私のこの性格だけはどうにもならなかった。
観客が自分と親しい間柄の人間ばかりでも、私は緊張してしまい、なかなか一歩を踏み出せなかったんだから。
「とりわけ今目指しているハローホイッスルのオーディションは、大物Pを筆頭にそうそうたるメンバーが審査をします。ベテランの方でもこのオーディションだけは受けたくないと言うぐらいのものなんです。合格したアイドル達も2度と受けたくないと口をそろえて言うでしょう」
「小日向さんは今のままじゃ間違いなく、異質すぎる場の空気に飲み込まれてしまいます。この場の数十倍、いや百倍も緊張してしまうでしょう。折角高いポテンシャルを持っているのに、活かせないのは勿体ない。ですので」
「えっと、舞台度胸をつける必要があるってことですか?」
「イグザクトリー。オーディション自体は何回でも受けることが出来るとはいえ、経験不足のまま上げるわけにもいきません。ですのでレッスンの回数よりも、営業活動を中心に活動すればどうでしょうか?」
我が意を得たりといった顔で答える。つまりそれって、イベントに参加するって事かな?
「うむ、今のランクだとデパートの屋上でのイベントが関の山かもしれんが、ちょうど良い機会だ。小日向君も本番慣れすることが出来るし、君も今後行うだろうライブの進行を学ぶべきだ」
デパートの屋上と言われても、いまいちピンとこなかった。私の家の近くにあったデパートの屋上には、200円で動くパンダの乗り物があったことぐらいしか覚えていない。
勿論ほかにも何かしら有ったはずだ。アイドルが活動していたかもしれない。だけど私には、揺れ動くパンダの背中に乗っていた記憶しかなかった。
そもそも熊本まで来てデパートの屋上というのも奇特な話だと感じたけど、名前を売るためには、あっちこっち地道に活動していかなくちゃいけないのだろう。
まるで白鳥だ。水面を優雅に泳いでいるように見えても、その下で必死にバタ足している。
テレビに出て活躍している人たちも、涙なしでは語れない苦労話があるんだろうな。
124 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:21:39.31 ID:tfxWAd3D0
訂正 ハローホイッスル→ファーストホイッスル
「厳しいことを言いましたが、逆に言えばファーストホイッスルを乗り越えることが出来れば、活動は軌道に乗ったともいえるでしょう。小日向さん、質問はありますか?」
「えっと、実は私あまり知らないんです。一応プロデューサーからこんな番組だっていうのは聞いているんですけど、熊本では放送していませんでしたし」
「そうですね。確か今日の夜、再放送があったはずです。どんな番組かはそれを見てもらうとして、オーディションについて説明しますね」
再放送か。覚えておこう。
「は、はい。お願いします」
トレーナーさんの話をまとめるとこうだ。
私たちが目指しているファーストホイッスルは、現状の音楽業界を憂う1人の大物プロデューサーによって企画された番組で、スポンサーも殆どつかず、プロデューサーと数人の有志が私財を投げ打って放送しているとのことだ。
つまりスポンサーによる援助がない代わり、外部から一切の干渉を受けないと言う、ある意味聖域とも呼べる番組だ。いくらなんでもそんな無茶なと思ったけど、例のプロデューサーに賛同した有志の方々の名前を聞いて納得した。
これだけのビックネームが後ろ盾にいるなら、何をやっても許されるはず。
そしてこの番組の最大の特徴は、出場者を毎回オーディションで決めているということ。プロデューサーが言うには、普通番組に出演するには事務所の営業力が必要で、うちの様な弱小事務所はつけ入る隙がないらしい。
ゴリ押しと呼ばれるものは、事務所の必死なプロモーションの賜物だそうだ。
125 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:34:07.30 ID:IcBRxbpM0
「さっきも言いましたが、この番組はスポンサーをほとんど取っていません。ゆえに、実力のないアイドルをゴリ押しするなんて真似は絶対に出来ないんです」
「いくら大手の事務所でも、彼らに楯突くことは業界から追放されることを意味していますからね」
成程、権力の正しい使い方ってこういうことを言うのだろうか。悪用されないことを微力ながら願っておく。
「え、えっと……。逆に言えば、参加者全員に平等にチャンスがあるということですよね?」
「その通りです。どんな無名事務所出身でも、彼らの目に留まることが出来れば、出演可能になります。過去の放送を見ても、決して珍しい事例ではありません」
「最近では、NG2の3人がそれに当たるでしょう。彼女たちが所属している事務所も、こことそこまで大きさが変わらないはずです」
「そうなんだ……」
そう言えば、私は卯月ちゃんたちのことを余り知らない。テレビに映っているところや、学校での彼女を知っているけど、その笑顔の裏では大変な思いをして来たに違いない。
そんな素振り一切見せずに笑っている彼女を、心から尊敬する。
「まぐれやお情けで合格できない分、真に実力だけが評価されますから、小日向さんにとっても大きな自信につながるはずです。それに他の番組も注目しています、ファーストホイッスルに出たということは、立派な履歴書になるんです」
「うむ、そのためにも早速プロデュース方針を固めてくれたまえ」
「そうですね。営業中心にプロデュースしていきましょう。小日向さん、また忙しくなると思うけど、ついて来てくれるかな?」
126 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:35:04.55 ID:IcBRxbpM0
「は、はい!」
「頑張ってね、美穂ちゃん!」
これから挑もうとしている難関に対する不安はもちろんある。だけどそれよりも、私はCDデビューが決まったことが嬉しかった。
どんな曲が来るんだろう? 可愛い歌かな? きっと鏡を見ると、不思議とニヤついている私の顔があったんだろうな。
「えへへ……」
「嬉しそうだね、小日向さん」
「ふぇ? い、いやこれは……」
「あはは、喜んでて良いんだよ? 俺も小日向さんのCDデビューが決まって嬉しいし。確かに課題は多いけど、これから潰していければいいさ」
「も、もう笑わないでくださいよー!」
私だけじゃない、ここにいるみんな嬉しいんだ。社長も表情は緩く、ちひろさんは普段の3割増しぐらいの笑顔で私を祝ってくれる。トレーナーさんも心なしか嬉しそうだ。
127 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:38:35.30 ID:IcBRxbpM0
「はぁ、今日も疲れたなぁ」
今日のカリキュラムをすべて終わらせて、家に着いた私はそのままベッドへダイブする。ふかふかの布団が心地よく、そのまま眠ってしまいそうになるけど、何とか体を起こしてお風呂に入る。
「ふぅ……」
少し熱いぐらいの湯船に入ると、疲れが流されていくような気がした。なんとなく、お婆ちゃんみたいなこと言ってるな私。
「ふふふーん♪」
喉の調子を整えるようにハミング。狭い浴室ではエコーがかかって、いつもより上手に歌えている気がする。飽くまで気がする、だけど。それでもモヤモヤと立ち込める湯気が幻想的なムードを出していて、私は気持ちよく歌えていた。
幸い隣に人はいないらしく、今のところ苦情は来ていない。だから誰にも聞かれてはいないはず。
「そう言えば、ファーストホイッスルの再放送をやっているって言ってたっけ。確認しておかなきゃ」
タオルで体を拭いているときに思い出し、ドライヤーで髪を乾かして、テレビをつける。
「あれ? 卯月ちゃん?」
なんという偶然だろう。今日の放送は、卯月ちゃんたちNG2の3人だった。シックなスーツを身に纏った大物プロデューサーに案内されてソファーに座る。
どことなく動きがぎこちなく、3人とも緊張しているように見えた。
128 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/24(木) 15:40:58.30 ID:IcBRxbpM0
それもそうか。なんせ司会は番組を知らなかった私でも知っているレベルの超大物だ。若々しく見えるけど、それでも結構なお歳を召していたと思う。後でウィキペディアでも見てみよう。
「やっぱり凄いなぁ」
ここにやって来るまでのオーディションに4回も落ちたこと、強化合宿で海に行ったこと、これからの活動のこと。CMを挟んでレッスン中の様子が映されたり、学校での素の彼女たちが紹介される。
「あっ、私の教室だ」
卯月ちゃんの学生生活ということで、私の通っている学校が映っている。クラスの皆もカメラにこっそり映ろうとしているのが、なんだか微笑ましい。
『~♪』
番組の終わりは、3人による特別ステージ。オーディエンスは大いに沸き上がり、テレビ越しに見ている私も、そこに交じっているような気分になった。
「私も頑張らないと」
歌い終わった3人はやり切った顔をしていて、眩しいぐらいに輝いていた。エンディングテーマと共に次回ピックアップされるアイドルが映される。
えっと、この番組は9月の再放送……。
「本当に少し前だったんだ」
9月の頃の私は、こんな世界に来るなんて毛ほども思っていなかった。大学に行って、どこかに就職して、結婚して。言ってしまえば極々普通の生活がずっと続く、そう信じていたのに。
あの時委員会に代理で参加しなかったら?
あの時バスに間に合っていたら?
あの時寝過ごしてしまわなかったら?
『人間万事塞翁が馬』って、こういうことを言うのかな。ううん、たらればの話をしても仕方ないよね。それでも、こう思うのは許されるはず。
『人生は、チョコレートの箱みたいなもの。開けてみるまで中に何が入っているか分からない』
明日食べるチョコレートは甘いのか、苦いのか。分かっていたらワクワクなんてないよね。
131 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 11:57:30.79 ID:giGauOep0
――
「あら、プロデューサーさん! お早いですね」
「ええ、ですがちひろさんには負けますよ。一体何時に来ているんですか?」
そもそも彼女は家に帰っているのだろうか? 朝は誰よりも早く事務所の鍵を開けて、夜は一番最後に出て鍵を閉める。毎日そんな生活が続いているんだ。
「それは、乙女の秘密ですよ!」
「さいですか」
いや、それ以前に彼女は謎が多すぎる。知っているのは名前と物凄く有能ということだけで、年齢も出身もここに来た経緯もよく知らない。
俺よりも年下なのか年下なのかすら、はっきりしていないぐらいだ。恐らく年上だと思うが、間違っていたら申し訳ない。
大体俺がここに来たときは、アイドルもプロデューサーもいない出来立て事務所だった。社長はどこから彼女を引っ張ってきたんだろう?
一度社長に聞いてみたけど、適当にはぐらかされた記憶が有る。ただその時の社長の目が、何となく悲しそうに見えたからそれ以上は聞かなかったが。
一体彼女は何者なんだろうか? その笑顔の下に、何を隠しているのだろうか? 気になる。
132 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 11:58:54.21 ID:giGauOep0
「さて、後は小日向さんを……」
「あれ? プロデューサーさんお忘れですか? 美穂ちゃんは実家帰省中ですよ」
「あっ、そういやそうでした。ちゃんとスケジュール帳にも書いていたのに、何で間違えたかな?」
昨日の夜の便で熊本に帰ったんだっけか。今頃ご家族やクラスメイト達と楽しんでいるところだろう。
昨日まで殆ど休みなしで頑張って来たんだ、少しぐらいの休養は必要だ。
「ふふっ、プロデューサーさんにとって、美穂ちゃんはいて当たり前の存在でしたか? はい、コーヒー」
「ありがとうございます。ちひろさん、それどういう意味です? いただきます」
事務所での1日の始まりは、ちひろさんお手製のコーヒーの香りを楽しむ事から始まる。小日向さんは紅茶派らしいけど、俺は程よく苦いちひろブレンドを気に入っていた。
下がりゆく気温が冬の訪れを知らす朝、暖かいコーヒーはいつも以上に美味しく感じる。
傍らにはニコニコと笑う可愛らしい事務員、ああ、なんと素敵な職場だろうか――。
「そのままの意味ですよ。彼女がここに来てから、プロデューサーさんは四六時中美穂ちゃんのことばかり考えていたじゃないですか。流石にオムライスにケチャップで小日向と書き始めた時はビックリしましたよ」
「ぶふっ!」
「おはよう、今日も早」
笑顔で爆弾を投下さえしなければ、の話だが。
133 : >>131 5話ステージ オブ ドリームス ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:06:14.29 ID:giGauOep0
「プロデューサーさん、大丈夫ですか!?」
手際よく布巾を持ってくる元凶たる事務員。焦っているように見えても、それすら本心か怪しいもんだ。
「ち、ちひろさん……。あなた狙ってやったでしょ?」
「な、なんのことでしょうか~? っと拭かないと……」
「今日と言う今日はいくらちひろさんで、も……」
「……」
目の前には、コーヒーまみれのナイスミドル。元々色黒なお方だったのに、余計黒くなってしまった。
「えっと、コーヒーも滴る良い男?」
「さ、さぁて! 仕事に戻らないと……」
今日の予定はなんだっけなー……。
「……2人とも、そこに直りたまえ」
「「はぁい……」」
134 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:10:34.53 ID:X3ylg2iq0
「はぁ……、ちひろさんが悪いんですよ? あんなこと言われたら誰だって驚くに決まってるじゃないですか」
「本当に面目ないです……」
爽やかな朝のはずが、床を雑巾で拭く羽目になりました。小日向さん、今日も我が事務所は通常営業です。
「というよりも、何でちひろさんがそれを知っているんですか。あの時喫茶店に俺1人で行きましたよ?」
「たまたまなんですよ、たまたま! たまたまプロデューサーさんがいたんです!」
「何回も連呼しないでください」
何でよりによってそのタイミングでやって来たんだこの人は。確かにあの日、俺はオムライスの上にケチャップで小日向と書きかけていた。
かけていたというのは、小日のところまで来て我に返ったからだ。
なんて恥ずかしいことをしているんだ俺は――。勢いよくオムライスを掻き込んでいた俺の顔は、小日向さんに負けないぐらいに赤かったことだろう。
「仕方ないじゃないですか。だって小日向さんのCDデビューをかけたテストの日だったんですよ?」
「仕方ない? それとこれは違う様な」
「違いません。あの日緊張していたのは小日向さんだけじゃない、俺だってそうでした。きっと社長もトレーナーさんも、ちひろさんも同じ気持ちだったはずです」
135 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:14:59.73 ID:X3ylg2iq0
あの場には今までになかった緊張感があった。練習通りにパフォーマンスが出来るか不安だったのは、彼女はもちろん、俺たち全員もだったんだから。
「それは否定しませんけど……」
「ほら。だから頭の中が小日向さんでいっぱいになるのは不可抗力」
「でもオムライスに名前を書くのは」
「ああああ! もう忘れてください!」
「うふふ、忘れようにも強烈過ぎて忘れられませんよ?」
「何でもしますからぁ……」
「今何でもするって言いましたよね? それじゃあ……」
仕方ない話だとは言うものの、確かに俺は小日向さんがいて当たり前、と思っていたのかもしれない。
事実毎日のように彼女に付きっ切りだったんだ。それが日課となっていたぐらいだ。
しかし今はまだ彼女だけだが、いずれ活動が軌道に乗っていくと、所属アイドルも増えていくだろう。
事務所としてはそうなって欲しいが、なんとなく寂しいなと思ってしまう自分もいるわけで。
「シャキッとしろ、俺」
彼女が帰ってきた時にあたふたしないよう、スケジュールはちゃんと組んでおかないとな。
136 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:18:12.42 ID:aTL/Eu4B0
「ふぅ、楽しかったなぁ」
夜空を駆ける飛行機の中、私は心地よい疲れに包まれながら、この2日間のことを思い返していた。
プロデューサーと両親が約束していた通り、私は熊本に一時帰省していた。
一時と言っても2日間だけで、東京に戻ったらまた忙しいアイドル活動が待ってい
る。送られてきたスケジュールを確認すると、予定は11月一杯に埋まっていた。
内容はデパートの上でのイベントや小さな商店のPRイベントなど、決して華やかとは言えない仕事ばかりだけど、
それでも無名と言っていいような存在の私に与えられた数少ないチャンスだ。
しっかりとこなして自信につなげたい。
そして12月の頭には私たちの目標、ファーストホイッスルのオーディションが入っていた。
少し早くないですか? そうプロデューサーに尋ねると、どうやらトレーナーさんがやや強引に組み込んだそうだ。
プロデューサーとしても、結果がどうであれ現在の自分の力量を確認する意味でも参加すべきだと考えていたようで、私のオーディション初挑戦は、驚くほどすんなりと決まっていった。
『それまで営業とレッスン、休みは殆ど有りません。覚悟しておいてくださいね!』
とはトレーナーさんの談。あの時の彼女の笑顔は、どういうわけか恐怖しか感じなかった。
当分の間、帰ってすぐにベッドに飛び込む日々が続くんだろうな。お母さん、私はまだまだ自炊が出来そうにありません。
137 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:23:56.31 ID:4lfaEScL0
『帰ってきたら、これまで以上に忙しくなるが、オンとオフの切り分けは大切だ。節度を守った上で、存分に楽しんできなさい!』
熊本に帰る前、社長は私にそう言ってくれた。熊本から戻ってきたら、今度はいつ実家に帰ることが出来るか分からない。
だからやり残したことの無いように、私は休暇を楽しんだ。
両親と日帰りで温泉に行き、次の日友達と遊びに行ったファームランドでは、パラグライダーに初挑戦。最初は怖かったけど、勇気を出して飛んでみれば気持ちの良いものだった。
クラスの皆や事務所の仲間にお土産も買ったし、当分帰らなくても大丈夫なぐらい満喫できたと思う。
「プロデューサーもいたら、もっと楽しかったのかな?」
よくよく考えたら、東京に来てから毎日のようにプロデューサーたちに会っていた。だから熊本への飛行機の中、隣に座る人が見知らぬおじさんだったのが、少しだけ新鮮に思えた。
いつも隣の運転席には彼が座っていたし、皇居ランだって並走してくれていた。プロデューサーはどんな時も、当たり前のように私のそばにいたんだ。
そしてそれは、これからも。楽しいことも辛いことも、彼と一緒に経験していくんだ。
「それじゃあまるで夫婦みたい」
なんとなくそんなことを思ってしまう。夫婦か――。
138 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:35:23.91 ID:4lfaEScL0
『ただいまー』
『お、お帰りなさい! あ、あなた! お、おふ、お風呂にしますか? それとも御飯ですか? それとも……わ、わた、わわちゃし!?』
『それじゃあ美穂と行こうかな』
『あーれー!』
「な、なんてことを想像しちゃっているんだろう私は……」
「お食事はいかがですか?」
1人恥ずかしさの悶絶していると、CAさんが声をかけてきた。そう言えば小腹がすいたかな。
お土産を食べるわけにもいかないし、何か軽い物を買おう。
「えっと、それじゃあ……。あっ、あなたは?」
「あれ? 憶えていてくれた?」
「は、はい。凄き綺麗な人だなーって思ってましたから」
「ふふっ、ありがとうね」
「い、いえ……。それよりも私のことを憶えていた方がビックリです」
139 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:39:06.99 ID:4lfaEScL0
「こういう仕事だから人にたくさん会うんだけど、貴女みたいに可愛い子は嫌でも憶えちゃうわよ」
「か、可愛い……」
「ほら、そういう赤くなるところとか特にね」
CAさんは悪戯っぽい笑顔で私を茶化す。
「相馬さーん、チーフが呼んでいますよー!」
「あっ、今行きます! ごめんなさいね、仕事中じゃなかったら貴女と喋っていたかったんだけど、チーフ怒ると怖いからさ。それじゃあ、良いお旅を」
相馬さんと呼ばれた彼女はウインクを残して、去っていく。流石CAさんと言うべきか、立ち振る舞いから何から何まで、優雅な人だ。
それでいて、どこか子供っぽくてそのギャップが可愛らしい。
どうしてか分からないけど、相馬さんと仲良くなれそうな、そんな気がした。
「あっ、買うの忘れてた」
小腹はすいているけど、早足でギャレーに消えていく相馬さんを呼び止めるのも悪い気がして、そのまま目を瞑って軽い眠りにつく。
着陸したときにアナウンスがあるから、それを目覚ましにしよう。
「すぅ……」
軽くと言っておきながら、結局他のお客さんが全員出た後、相馬さんに起こされたというのは、恥ずかしからヒミツにしておく。

140 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:40:01.95 ID:4lfaEScL0
「よっ、小日向さん。熊本はどうだった?」
「プ、プロデューサー!」
夜も遅いというのに、人の波が途切れない羽田のロビーで、プロデューサーが私を待っていてくれた。
「そ、その、すみません。私の出迎えでこんな遅い時間まで待っててもらって」
「いやいや、気にすることは無いさ。女の子をこんな遅い時間に1人にさせるわけにいかないしね。プロデューサーとして当然だよ」
「ありがとうございます」
「さてと、帰るかな。あっ、これあげる。小腹すいてるでしょ?」
プロデューサーは鞄の中から板チョコを取り出すと、私の手に置いた。
「え、良いんですか?」
「帰ってちゃんと歯を磨くならね」
「も、もう! ちゃんと磨いていますよ! えっと、いただきます」
141 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 12:47:28.62 ID:4lfaEScL0
「たぁんとお食べ」
「プッ! わ、笑わせないでくださいよ! 割れちゃったじゃないですか」
「あはは、悪い悪い」
お婆ちゃんみたいなことを真顔で言うプロデューサーがなんだかおかしくて、ついつい吹き出してしまう。
力が入り過ぎたのか、板チョコは少しだけ割れてしまう。食べれないわけじゃないけど、なんだか勿体無い。
「もう、プロデューサー。これ、あげます」
「あげますって元々俺のだけどね」
「貰ったんだから私のものです!」
割れた板チョコの片割れをプロデューサーにあげる。うん、美味しい。ちゃんと帰って歯を磨かなきゃ。
「小日向さん。明日からまたきつい日々が続く。しかも今度は営業活動もあるからね。舞台度胸しっかりつけないとな」
「は、はい! 頑張ります!」
十分なぐらい私は休日を楽しんだんだ、明日から気合を入れていかないと!
145 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:43:27.97 ID:pe1Ol84g0
とある日曜日、私とプロデューサーは郊外にあるデパートに来ていた。
来ていた、と言っても買い物じゃなくて、屋上で行われるプチイベントに参加するためだ。
『大きなイベントじゃないけど、舞台度胸をつけるには本番をこなすことが1番だからな』
プロデューサーが言うように、今の私に足りないものは『余裕』だ。授業中先生に当てられただけで緊張しちゃうような私だけど、ずっと甘えたことを言っているわけにいかない。
ならば数をこなして慣れるしかない。スケジュール帳にはイベントの予定がぎっしりと詰まっている。
昨日の夜もちゃんと練習したんだ、事務所の皆の前で歌えたんだし、きっと大丈夫――。
「え、えっと……、その! こ、小日向美穂です!? きょ、今日は土曜日ですね!?」
「なんで疑問形やねん。それと今日は日曜日」
「うぅ~、ごめんなさい」
「さぁ、もっかい!」
「は、はいぃ……」
146 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:44:43.53 ID:pe1Ol84g0
結果から言うと、私の初舞台は散々なものだった。簡易なステージに立った私を待っていたのは、
「み、みみ……、皆しゃん初めましてぇ! こ、こ、こひ! 小日向、美穂です!」
「わぁ、姉ちゃんダレ?」
「ボクもステージに上っていい?」
「え、ええ!?」
彼らからしたら、風変わりな服を着た私の存在は珍しいものなんだろう。
足がガクガク震えている私を嘲笑うかのように、子供たちはステージに上がり込んできた。
「こら! 降りなさい!」
「邪魔しちゃダメでしょ!」
「えー!?」
「掴まてみろよ鬼婆ー!!」
「ぬわんですってええええ!!」
お母さんが降ろそうとするも、子供たちはステージの上を縦横無尽に駆け回る。
147 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:46:33.60 ID:pe1Ol84g0
「プ、プロデューサー!?」
泣きそうな目でプロデューサーに助けを求める。
「小日向さん! ちょっと待ってて! 今行くから」
プロデューサーは子供たちを降ろすため、ステージに上るが……。
「さぁ、降りようね」
「やだよーだ!」
「カンチョー!」
「アーッ!」
「プロデューサー!?」
「いい加減下りなさーい!!」
見る人が見れば、地獄絵図だっただろう。子供たちは楽しみたいという欲望のまま暴れ、保護者の方は頭に角を生やして追いかける。
頼みの綱のプロデューサーも、強烈な一撃を食らったためか、お尻を抑えて蹲っていた。
148 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:49:06.97 ID:pe1Ol84g0
――グダグダ。その不名誉な4文字がこれほど似合う舞台も、そうないだろう。
その後、なんとか子供たちを降ろすことに成功し、ステージは再開されるが、あんまりな出来事が起きすぎてしまい、
テンパりにテンパった私は、練習の時に出来ていた動きが全くできず、無様にもステージでズッコケてしまう。
その結果、
「きゃっ!?」
「ちょ! こひな、たさん?」
「白色だー!」
「やーい! 白色白色ー!」
「え? み、見ないでええええ!」
カメラが有るなら放送事故。本年度のNG大賞を取れる自信が有った。
もしもこのステージが有料だったならば、全額返金した上で迷惑料を払わなないといけない出来になっていただろう。
「いやぁ、大盛り上がりでしたね! 依頼してよかったですよ! 次もお願いしますね!」
「あ、あはははは……、はぁ」
149 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:50:03.42 ID:pe1Ol84g0
ただ幸いと言うべきか、お客さんたちはコントのような時間を大いに楽しんだらしく、主催者からも苦情が入ることは無かった。
下着を見せてしまったのも、まぁ盛り上がったから良かったということにしておく。
そうでもしないと、本気で凹んでしまいそうだ。
「なぁ、小日向さん」
「な、なんでしょうか……」
「俺たち、アイドルとプロデューサーだよな?」
「そ、そうですね」
「お笑い芸人じゃない、よな……」
「「はぁ……」」
「……練習しよっか」
「はい」
そんなこんなで、私の初舞台は記録的大失敗に終わってしまった。そして、冒頭に戻る。
150 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:55:49.74 ID:pe1Ol84g0
「こ、小日向美穂です! 今日はお集まりいただきありがたくございます!」
「はい、もっかい!」
不測の事態が起きすぎたとはいえ、初めから緊張していたのも事実だ。子供たちの暴走がなくても、緊張のあまりどこかミスをしていただろうとプロデューサーは言う。
反省会がてら、私は舞台の撤収を待ってもらい、挨拶の練習をしているというわけだ。
「お姉ちゃんがんばれー!」
「デュフフ、初々しいですなぁ」
物珍しさからか、観客たちは帰らず私の練習を見守っている。
「小日向美穂です! 今日はよろしくお願いします! やった! 言えました!」
「良し! これだけやれば、もう緊張することもないだろう」
「よ、良かったです……」
気が付くと、本番の時以上に人が集まっていた。歌ってもないのに、観客席の皆は拍手の雨を降らせる。
嬉しいような、情けないような。
151 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:57:42.52 ID:pe1Ol84g0
「さてと、これからどうするかな」
「え、えっと! だったらデパートの中見て回りませんか!?」
「ん? そうだな、時間もあるし。ブラブラして帰るか」
「はい!」
ステージの撤収を手伝った後、私たちはデパートの中を目的もなく歩いた。
目についた美味しそうなものを食べたり、事務所の皆にお土産を買ったり、ゲームセンターで遊んだり。
はた目にはデートとして見られていたのかもしれない。でもその時は、気にもしてなかったんだけど。
『フルコンボだドン!』
「す、すごいです!」
「結構このゲーム得意なんだよ。さてと、お次は何を……」
「あっ」
装飾のライトが眩しく点滅しているクレーンゲームに、私は目を奪われた。
乱雑に置かれているぬいぐるみの中にちょこんと、クマのぬいぐるみがあったから。
152 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:58:44.13 ID:pe1Ol84g0
「可愛いですね、こいつ」
「クマのぬいぐるみか。小日向さん、欲しい?」
「え? で、でも取れないと思います」
「どうかな。やってみるね」
そう言ってプロデューサーは100円を入れると、慣れた手つきでクレーンを操作していく。
「よし、狙い通り!」
アームはお目当てのぬいぐるみの上で止まると、そのまま掴んで元の場所に戻っていく。
「ありゃっ」
もう少しで開口部だってところで、他のぬいぐるみに引っかかって落ちてしまう。
「くそー、もう少しだったんだけどなぁ。もういっちょ行くか」
プロデューサーは悔しそうにもう一度100円を入れようとする。
「あ、あの! わ、私がやってみてもいいですか!?」
153 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 21:59:46.14 ID:pe1Ol84g0
「やってみる? それじゃあ100円入れるね。やり方は大丈夫かな?」
「は、はい。何回か挑戦したことありますし。で、でもアドバイスいただけたら嬉しいです」
「それじゃあ俺がそこって言ったら止まってね」
「分かりました!」
何回か挑戦したことが有るだけで、成功したことは一度もない。だけどプロデューサーもいるし、上手くいくかな。
「そこっ」
「え、ええ?」
「あらま、行きすぎちゃったな」
プロデューサーの合図に上手く反応が出来ず、アームはぬいぐるみを大幅に通り過ぎて行った。
仕方なしに続けるも、上手くつかむことが出来ず、開口部の上で虚しく開くだけだった。
「はぁ、やっぱりダメなのかな」
「もう一回やる?」
「あっ、はい。お願いします」
100円を入れて再挑戦。結局クマのぬいぐるみが私の手に渡ったのは、プロデューサーが2回目の両替を終わらせた後だった。
154 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:02:57.60 ID:pe1Ol84g0
「え、えっと……、その……無駄遣いさせちゃいましたよね?」
「あ、あー。気にしなくて良いよ。忙しいから特に使い道なんかなかったし、そのぬいぐるみが2100円のものと考えたら良いさ。気に入ってるみたいだし、ファン1号からのプレゼントだと思っていて」
「は、はい! 大切にします!」
ギュッと抱きしめたぬいぐるみの柔らかな感触に、説明しようのない心地よさを感じた。
それはこの子がフワフワだからか、彼からの初めてのプレゼントだからか。
「そ、そうだ! あれ、一緒に撮りませんか?」
ゲームセンターと言えばこれもある。プリクラだ。
「プリクラ? 小日向さんと?」
「い、嫌ですか?」
「そうじゃないよ! で、でもなぁ……」
「何ですか?」
「あ、うん。何でもないよ! さて、どれにしようか。俺こういうの詳しくないからさ、小日向さんが選んでよ」
そうは言うものの、プロデューサーはあまり乗り気じゃないようにも見えた。私と写るの嫌なのかな……。
155 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:03:40.42 ID:pe1Ol84g0
「そうですね……、あっ、これとか可愛いですよ!」
「じゃあそれにしようか」
私とプロデューサーはプリクラ内に入る。中はあまり広くなく、否応なしにくっつかなくちゃいけない。
『ポーズをとってね!』
「えっと、どうしよう」
「ねぇ小日向さん」
『3』
「な、何でしょうか?」
「これ、完璧デートだよね……」
『2』
「ふぇ?」
「え? 気付いてなかった?」
『1』
「えええええええ!?」
「のわっ!」
『はい、チーズ!』
出来上がったプリクラには、恥ずかしそうに真っ赤な顔をした2人と、私に抱きつぶされるクマのぬいぐるみ。
色々あって恥ずかしい1日だったけど、楽しかったな。
156 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:05:31.59 ID:pe1Ol84g0
――
デパートの上の悲劇から数日、俺たちは順調に仕事をこなしていた。いや、本当に順調かどうかはさておき、小日向さん自身のスキルアップに繋がって来たと思う。
最初は自己紹介も満足にできなかった彼女だけど、今ではステージやイベントを楽しめるぐらいには余裕が出来てきた。
学校生活も慣れたようで、移動中に度々学校での出来事を嬉しそうに話して来る。
尤も、その半分ぐらいは卯月ちゃんだったりするのだが。
悲しい哉、アイドルなんてものは、オンでもオフでも話題を集め続ける宿命なのだ。
「いよいよ明日ですね」
「ええ、そうですね。あっ、ありがとうございます」
ちひろさんのコーヒーを飲みながら、カレンダーに大きく書かれた文を読み上げる。
「ファーストホイッスルオーディション。やっぱり早いものですね。なんだかんだ言いながらも2ヶ月ですかね? 俺が社長に強引に連れてこられて、熊本で小日向さんに出会って、彼女をプロデュースすることになって」
まさに光陰矢のごとし。1日1日を無意味に過ごしてきたわけじゃないけど、それでもあの時こうしていたら、
ちゃんとしていれば、と後悔は残る。
「たらればに縋っても仕方ないんですけどね」
157 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:09:51.13 ID:pe1Ol84g0
年寄り臭いことを呟く。過去なんて変えようがないんだ、後悔するぐらいならまっすぐ進まなければ。
なんのために目が前についているのか? なんのために足は前に向かっているのか? 熱血教師みたいなことを考えた自分が少し恥ずかしい。
「私たちは前に行くしかないんですよ。大丈夫です、プロデューサーさんと美穂ちゃんなら、きっと上手くいきますよ!」
「そうなれば嬉しいですね」
「なりますよ。これまで頑張って来たんですから」
上手くいく、か。明日のオーディション、正直受かるなんて思っちゃいない。それはちひろさんだってそうだろう。だから上手くいく、とニュアンスをぼかしたんだ。
当然最初から諦めているわけじゃないし、記念受験だなんて言いたくない。
小日向さんには全力を出してもらわないと困るし、あの場の空気をしっかりとその身に覚えて欲しい。
明日のオーディションの参加目的は、現状把握の意味合いが一番強いのだ。
「そういえば」
ちひろさんは不意に何か思い出したように尋ねる。
「プロデューサーさんはオーディションを見学したんですよね? 私行ったことがないから分からないんですけど、どんな感じでしたか?」
158 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:12:22.29 ID:pe1Ol84g0
「先週の話ですね。トレーナーさんの言うように、ベテランでも2度と受けたくないとぼやくのも納得しましたよ。あの空気はただ事じゃない」
実は参加申請の際に、オーディションを見学させてもらえた。
俺はその時の光景を忘れてはいない。いや、忘れることが出来ない。
それほどまでに、強烈な印象を与えたんだ。
会場に入ると、俺以外にも多数の芸能関係者が、用意された閲覧席に座っていた。気分はまるで審査員だ。
「確かにこれはキツイな」
関係者はアイドル事務所の人間だけじゃない。連日ワイドショーを盛り上げる芸能記者だっているし、
おこぼれを貰いたい他の番組の制作スタッフも観客として並んで座っている。
舞台の上から見ると、壮観な光景だろう。加えて――。
「見学に来られた皆様、こんにちわ。『ファーストホイッスル』プロデューサーのタケダです。5分後より公開オーディションを始めますが、その際にいくつか注意点がございます。皆様大人ですので、間違いはないと思いますが念のため説明しておきます」
審査委員長を務める大物プロデューサーと、彼を支持する業界の大御所たち。彼らの手の届く距離で、アイドルたちはパフォーマンスをしなければならない。
とてもじゃないが、俺はあの場に立ちたいと思えなかった。
プロデューサーによる注意喚起が終わると、参加するアイドルたちが入場してくる。今回の参加アイドルは50組。
アイドル1人1人のパフォーマンスを、彼らはひたすら審査し続けるのだ。かなり大変なことだろう。
159 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:19:49.27 ID:pe1Ol84g0
3分と言う短い時間の中で、厳正な審査を行わなければならない上に、50人続くのだ。
途中休憩を挟むにしても、彼らの集中力は相当削られていくはず。
課題となる演目は自由なため、同じ曲と踊りを見続けるだなんてことは無いのがまだ救いだろうか。
「……俺が耐えれるかな」
誰にも聞かれないように、こっそりと呟く。と言うのも、来週のオーディションの参加者の順番を決める抽選会が、終わった後に行われるのだ。
一応途中退席も認められているが、小日向さんが戦っていくアイドルたちのレベルを見極めるためにも、途中で抜けるわけにいかない。
ビデオ撮影でも出来れば後でゆっくりと見れたんだろうが、禁止されているため、自分の瞳で確認しなければ。
「まずは参加者の確認から。名前を呼ばれたら代表者が返事をしてください。それでは、エントリーナンバー1番、服部瞳子さん」
「はい」
プロデューサーは淡々とした口調で参加者の名前を読み上げている。この時点から審査は始まっているのだろう。
俺の位置からは見えないけど、審査員たちは返事をしたアイドルたちの顔をしっかりと見ているはずだ。
不慣れなのか、返事の後に怯えたように震えるアイドルが数人いるのが、何よりの証拠だ。

160 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:27:14.99 ID:pe1Ol84g0
「全員揃っていますね。それではこれより、審査を始めます。合格者の上限は決まっていません。皆様のパフォーマンスの完成度次第では、全員出場と言うこともあります」
「当然逆もまた然り。私たちが求める水準に達していないと判断すれば、残念ですが皆様揃って落選という結果になります」
実にこの番組らしい言葉だ。一切の妥協を許さない方針を取っているため、見せれるレベルじゃなければ舞台に上げない。放送スケジュールが合っても、出せないものは出せないのだ。
普通の番組じゃ有りえない話だが、しがらみも何もなく、全て自分たちの責任で運営しているファーストホイッスルでは可能なのだろう。
「脅すようなことを言いましたが、私たちとしては皆様が未来の音楽業界を引っ張っていく存在だと信じています。気張らず、自分の出せる最高のパフォーマンスを私たちにお見せください」
気張らずなんて言っても、この場で自分を保つなんてそうそう出来るものじゃない。
アイドルたちの顔を見ると、初めてのオーディションなのか既に半泣きになっている子、リピーターだろうかさっさと始めてくれと言わんばかりに闘志を燃やす子、と様々な表情が浮かんでいる。
彼女たち1人1人にここに至るまでの物語が有るんだ。だけど血を吐くような努力をして来ても、
このステージに上がることが出来るアイドルは、ほんの一握り。
小日向さんは、輝けるのだろうか――。
「俺が信じなきゃダメだな」
後ろ向きな思考をシャットダウン。そして、オーディションは始まった。
161 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:30:20.79 ID:pe1Ol84g0
「それではオーディションを始めます。エントリーナンバー1番からよろしくお願いします」
「はい!」
タケダ氏の合図で、1番のアイドルが前に出る。えっと、確か服部さんだっけか? 何回か参加しているのか、緊張はほとんど感じなかった。
「ふぅ、今日こそは行ける!」
「?」
どこからか、そんな声が聞こえた。
大人しそうな彼女からは想像のつかない軽快な音楽が流れだすと、服部さんはパフォーマンスを始める。
トップバッターと言うことでプレッシャーもあるかもしれないが、そんなものはどこ吹く風、彼女はキレのあるダンスで審査員にアピールをする。
「ありがとうございました」
「はい。それではエントリーナンバー2、よろしくお願いします」
162 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:32:07.66 ID:pe1Ol84g0
「ふぅ、認識が甘かったな……」
25人終わったところで、10分の休憩が入る。自販機の暖かいコーヒーを飲みながら、俺はオーディションのことを思い返していた。
新人ばかりが参加するオーディションだなんて、良く言ったものだ。
プレッシャーのあまり満足なパフォーマンスが出来なかった子もいたが、新人とは思えないようなクオリティを持つアイドルも少なくなかった。
この番組でなければ、当の昔に出演しているだろう。
特に1番の服部さんは気迫が違った。こう言ってしまうのもなんだが、彼女のパフォーマンスは鬼気迫るものがあったぐらいだ。
執念に憑りつかれていると言ってしまえばいいのだろうか? 彼女の後に踊った子が少し可哀想になったぐらいだ。
「まさに戦場、だな」
この会場の中で、小日向さんは埋もれてしまわない様に、パフォーマンスを見せなければならない。きっと彼女のことだ、順番が後になればなるほど、自信を失っていくだろう。
そればかりは運で決まってしまう。今日の俺の運勢は5位。微妙な運勢だが、是非とも若い番号が欲しいところだ。
「さてと、そろそろ戻るかな」
空になったカップをゴミ箱に投げ入れて、会場へと戻る。後25人、きちんと見て帰らないと。
163 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:34:56.60 ID:pe1Ol84g0
「さて、以上で全員のパフォーマンスが終わりました。結果発表は10分後、この場所で行いますので遅れないよう気を付けてください。それでは本日は皆様、お疲れ様でした」
タケダ氏は簡単に挨拶をすると、審査員たちを率いて部屋を出て行く。これからの10分間は、彼女たちにとっては永遠に感じるのだろうか。
参加アイドルたちも緊張が解けたのか、軒並みホッとした顔をしている。中にはその場にヘタレ込んでしまう子までいた。
「ふぅ、疲れるもんだな……」
さて、俺はどうしたものか――。
「おや?」
「プロデューサーさん、どうでしたか?」
「そうですね……、今までで一番だったと思います」
「本当?」
「はい! だから今回こそは、上手くいきます」
「そうなれば良いわね」
会場を出ると、何やら聞き覚えのある声が。
こっそりと聞き耳を立てると、エントリーナンバー1番の服部さんと、担当プロデューサーが会話していた。
164 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:37:40.96 ID:linE/gGI0
「だから……、もう少し頑張ってみませんか?」
「……そう言ってくれるのは嬉しい。だけど、もう限界だと思うの」
「そんな! 俺のプロデュースが悪いのなら、もっといいプロデューサーを探します! 瞳子さんの魅力を引き出せるような人に引き継ぎます」
「ううん、そういうのじゃないの。ただ、夢を見続けるのになんか疲れちゃって。社長さんも言っていたでしょ? 1年で芽が出なければそれまでだって」
「この1年間、私たちはファーストホイッスルへの出場を賭けて頑張ってきた。どこの誰よりも、合格へと執念を燃やしてきた自信は有るわ」
「なら……」
「でも、それだけじゃダメだったのよ。親にね、何時までアイドルの真似事しているんだって言われちゃったの。私もいい歳だから、身を固めなさいって」
「だから、今日と来週でおしまい。それがダメだったなら、私は夢を諦める」
「ごめんなさいね、折角私を選んでくれたのに、結果を出せなくて。行きましょう、そろそろ結果発表だし」
「……すみません」
浮かない顔をした服部さんたちは、近くにいた俺に気付かずに会場へと入っていく。
「……他人事じゃないよな」
1年で芽が出なければそれまで。
厳しいことを、と思うかもしれないが、うちの業界では半ば常識となっている文句だ。
165 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:42:13.20 ID:linE/gGI0
今テレビに出ているアイドルたちの多くは、熾烈な生存競争に勝ち残り、1年以内に結果を出してきている。サイクルの速い業界と言われるのも、こういった裏事情があるのだろう。
確かに俺たちはまだ始まったばかりかも知れない。だけど、着々とタイムリミットは迫ってきていることを痛感させられる。
「俺も戻るか」
誰もが夢を見ることが出来るわけじゃない。見続けるのだって、辛いんだ。
悲しいけれど、それが芸能界。俺たちが駆け上ろうとしている茨の道だ。
「まだまだだよな。俺も」
ふぅと一息ついて、席に座る。少しして、審査員たちが会場に入ってきた。
どうやら、審査結果が出たようだ。先ほどまで騒がしかった会場が、真空状態のように静かになる。
「大変長らくお待たせしました。それでは、今週放送のハローホイッスル出演者を発表いたします」
バラエティ番組ならここでドラムロールが流れるんだろうな。
「……」
タケダ氏はアイドルたちの顔を一瞥してから、重々しい口を開いた。
166 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:47:10.73 ID:linE/gGI0
「エントリーナンバー22番、エントリーナンバー39番。以上の2組が、今回のオーディション合格者です」
「やった! お姉ちゃん受かっちゃったね!」
「ほ、本当なんだよね? プロデューサー?」
「やったにゃー! プロデューサーちゃん、みくやったにゃん!」
合格したユニットだろうか、脇目も振らずに大声を出して喜んでいる。
その一方で、悔しさに涙を流すアイドルたち。明と暗が一瞬にして別れてしまった。
「コホン。喜ぶのも構いませんが、それは後にしてと。さて、今回のオーディションはここ数回で最もレベルの高かったものだと感じました」
「新人アイドルたちのレベルが上がっていくことは実に喜ばしいことですが、私たちの理想に近いアイドルと言うのは、なかなか現れません」
タケダ氏の理想? とやらが合格の決め手なのだろうか。
随分主観的な気もするが、名だたる彼らが言うぐらいだから、きっと音楽業界にプラスとなる影響を与えることなんだろう。
「しかし幸運なことに、今回は2組、私たちの理想とする音楽を紡いでくれるであろうアイドルが誕生しました。今回残念な結果となってしまった方も、是非ともまた挑戦してください。その時には、私たちの理想の音楽を紡いでくれることを心より期待しております」
そう言い残して、タケダ氏たちは出て行く。それと入れ替わるように、局のスタッフが駆け足で入って来た。
167 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:48:34.72 ID:linE/gGI0
「えー、これより来週のオーディションの抽選会を始めます! 参加申請をされた方は、5階会議室までお越しください!」
「5階か。エレベーターは込みそうだし、階段で行くか」
小日向さんと走っていたため、階段を上ってもしんどくない。
「お集まりの皆様、これより抽選会を始めます!」
さっきの会場で見た人もいれば、抽選会から参加する人もいるようだ。ざっと数えてみると72人。さっきよりも多いな。
「……」
やはりと言うべきか、服部さんのプロデューサーも参加している。
彼らの話が本当ならば、次のオーディションは背水の陣と言うこと。今日以上に仕上げてくるに違いないだろうし、なによりあれだけ執着心を見せていた彼女だ。
後のアイドルたちにとって、大きなプレッシャーになるに違いない。
だから彼らより前の数字が出ることを祈っておかないと。
「多くの参加希望頂きありがとうございます。参加申請の際にお渡しした番号札の順番で、クジを引くようお願いいたします」
そう言えばそんなのがあったっけ。確認すると、番号は40番。これまた中途半端に後ろの方だ。
168 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 22:51:22.50 ID:linE/gGI0
「40番の方、クジをお引きください」
「あっ、はい!」
係員に誘導され、ガラガラの前に立つ。商店街のくじ引きみたいだなぁ。とのんきなことを考えていると、
係員の目が早くしてくれって言っているように見えたので、ガラガラを回す。
そう言えばこれの正式名称って何だったっけか?
2、3回回して、小さな玉が出てくる。書かれている数字は……。
「7、72……」
「シンデレラプロさん、72番です」
この時ばかりは、本当に彼女に申し訳ないことをしたと思った。なんてくじ運の悪さだ。
自分以外の全員が終わった後で、パフォーマンスを行わないといけない。唯でさえ時間がかかって集中力が切れてしまうと言うのに、悪いことは立て続けに起こるもので。
「○△プロさん、71番です」
「うげっ、マジかよ」
泣きっ面に蜂。不幸にも、直前の71番は、服部さんたちのプロダクションだった。
169 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 23:00:36.57 ID:4am+QG6p0
「えーと、大丈夫ですよ! ほ、ほら! こういう順番性のオーディションって、最初の人が基準になるから、後の方が良いって言うじゃないですか。後だしジャンケンですよ、後だしジャンケン!」
俺の話を聞いていたちひろさんは、努めて明るく振る舞おうとしている。
難しいところだが、彼女の言うとおり、くじ引きと違って最初にするよりも、後の方が有利なのかもしれない。
だが一番最後となると、プレッシャーが半端ない。1人3分、25人ぐらいで休憩を一回挟むとしても、だいたい3時間半も拘丸されることになる。
今日でも結構疲れたのに、72人となると想像もしたくない。
「うむ、確かにハードなオーディションだ。前でも後でも、違うプレッシャーがかかるからね」
「社長!」
何時の間にやら社長が俺達の会話に参加していた。
「だが、この試練を乗り越えなければ彼女はアイドルとして輝くことは出来ない。ファーストホイッスルはゴールじゃない、通過点なんだ」
「はい。それは重々承知しています」
ゴールじゃなくて通過点か。まぁあのオーディションで満足してしまうようじゃ、これ以上上に行けないか。
今ひとたび、意識を改めないと。
170 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 23:01:37.16 ID:4am+QG6p0
「こんにちわ! 遅れてすみません。日直の仕事があって……」
「ああ、こんにちわ。時間はまだ大丈夫だから、そこまで慌てなくてもいいよ」
そうこうしている内に、小日向さんもやって来た。今日の予定はレッスンだ。
ここの所イベント尽くしだったし、そろそろオーディションに向けての最終調整といかなければ。
「あ、あのプロデューサー?」
「ん?」
「どうしたんですか? 難しい顔をして」
「あっ、ちょっと考え事をね。心配させてごめんね」
危ない危ない、顔に出ていたようだ。
「えっと、今日もよろしくお願いしますね」
「ああ、頑張ろうな」
今は彼女の未来のためにも、頑張らないと。
171 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/25(金) 23:16:23.95 ID:a4bnJc5x0
ここまでにしておきます。書き溜めがそろそろ尽きるので前ほどの更新頻度は保てないと思いますが、完結は必ずさせますのでよろしくお願いいたします。
服部さんに関してもオリジナルな設定が付きますので、ご了承いただけたらと思います。
176 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:12:13.16 ID:vIrwZa5y0
――
朝起きて、ご飯を食べて、歯を磨いて。いつも通りの朝を過ごす。
『今日の天気は一日中晴れでしょう』
「晴れ、か」
いつも見ている朝のニュース番組。可愛らしいお天気お姉さんは晴れと予報した。
なんとなくだけど、今日は幸先がいいように感じた。
「そろそろ来るかな」
着替えを済まし、荷物をまとめる。貴重品良し、ハンカチ良し、衣装良し。
荷物の確認が終わったタイミングで、ピンポンとチャイムが鳴る。
「あ、はい! 今行きます」
冷たいドアノブを回し、ドアを開けると見知った顔。というよりも、私の半身のような人。
「おはよう、小日向さん。準備できた?」
「おはようございます! だ、大丈夫です」
いつもと同じようで、違う一日。今日は初めてのオーディションだ。
177 : >>176~6話 儚き花道 ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:14:32.52 ID:TfIUvaqr0
「こ、ここがオーディションか、会場、で、ですか?」
「はは、入る前から緊張してどうするの」
「き、き、緊張するなって方が、む、無理です!」
プロデューサーは笑っているけど、私はとても笑えそうになかった。
なんせ私にとって、人生初めてのオーディションがこんな大きな舞台なんだ。
こんなことになるのなら、学芸会で積極的になればよかったのにな。
木の役に甘んじ続けてきた自分を今更になって恨む。
「まぁ適度な緊張は必要だよね。特に今回は72人の大トリを務めるんだ。するなってのも、無茶振りみたいなものか」
「う~」
順番ばっかりはどうしようもないことだ。運が悪かったと受け入れるしかない。
『ごめん小日向さん! 俺のくじ運が悪いばっかりに、一番最後になってしまった!』
『ええ!? え、えっと何人中、ですか?』
『……72』
『へ?』
『72人中、72番なんだ』
『えええええ!?』
178 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:16:24.35 ID:9NEMz1Ms0
あの時は流石に泣きそうになった。よりによって、私の様な新参者が一番最後とは。
ううん、ネガティブになっちゃダメだ。前だけを見て行かなくちゃ。
それに、一番最後なんだから、後の人のパフォーマンスを見てビクビクする必要もない。
「やるしかないんですよね」
「遅かれ早かれここに挑むつもりだったんだ。今の自分がどの程度通用するか、試してきて欲しい」
「はい!」
「よし、行くか!」
プロデューサーと拳を付き合わせ、会場へと入る。
オーディション自体は13時からだけど、集合は10時だ。
何でも参加者同士の交流の場でもあるとのことで、本番までの間、一緒に柔軟をしたり昼食をとったりして、
情報交換に努めて欲しいと言う主催者の配慮らしい。
そう言えば。恥ずかしながら私の同業者の友達は、卯月ちゃんしかいないのだ。
ここで同じ喜びや悩みを共有する仲間を見つけるのも、悪くないかもしれない。
179 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:18:01.04 ID:9NEMz1Ms0
「さてと、10時きっかしに説明があるから、遅れないようにな」
「はい」
時計を見るとまだ10分程度ある。今のうちにお手洗いを済ませておこう。
「皆様、おはようございます。ハローホイッスル総合プロデューサーの、タケダです」
10時になり、説明が始まる。
タケダさんによると、今回のオーディション参加者は、欠席者0の72名。
前にプロデューサーが行ったときには50人だったらしいけど、今回のオーディションは、
クリスマス時期の特番のオーディションらしく、いつもより参加者が多いとのことだった。
確かにクリスマスの特番なら、視聴率も高いだろうし、注目される可能性も上がるだろう。
「オーディションの時間まで、まだ有ります。その間、会場はお好きに使えますので、最終調整のほど、よろしくお願いいたします」
そう言って、タケダさんは会場を出て行く。
180 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:19:24.75 ID:9NEMz1Ms0
「えっと、どうしよう」
見ると周りのアイドルたちは、柔軟を始めていた。
お手洗いに行っている間に、グループがいくつかできていたみたいで、私は取り残されてしまう。
今更混ぜてって言いにくいし……。
「ねぇ、良かったら一緒に柔軟しない?」
「え?」
どうしようかと考えていると、後ろから声をかけられる。
「貴女、ここ始めてっぽいし。あの子たちは前回も組んでいたから、入りにくいのは確かね」
透き通った綺麗な声だ。振り向くと、声に負けず劣らず綺麗な女の人が。この人も、アイドルなのかな?
「え、えっと……」
「自己紹介がまだだったわね。私の名前は服部瞳子。瞳の子で瞳子なの。貴女は?」
「こ、小日向美穂です! う、美しい穂波で美穂です! その、よろ、よろしくお願いいたします!」
181 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:21:30.82 ID:9NEMz1Ms0
「よろしくね、小日向さん。緊張しなくてもいいわよ、ほら深呼吸深呼吸」
「は、はい! スーハー、スーハー。ふぅ」
「落ち着いた? それじゃあ始めましょうか」
服部瞳子と名乗る彼女に対する第一印象は、どことなく憂いを身に帯びている、
失礼な言い方をすれば、未亡人。そんな感じがしていた。
大人っぽいって言えばそれまでなんだけど、なんだろう。
なんとなくだけど、彼女1人だけ、ここにいる皆と何かが違う気がする。
上手く言えないけど、ほのかな違和感を覚えた。
「よいしょ、よいしょっ」
「あら、結構体柔らかいのね」
「そうですか? 褒められたの初めてかもしれないです」
そんな違和感も、一緒にストレッチを始めたころには忘れていた。
教え慣れているのか、瞳子さんのアドバイスはとても参考になった。
もちろんトレーナーさんやプロデューサーの指導を否定するわけじゃないけど、
経験に基づく情報と言うものが、一番役に立つのだ。
182 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:27:27.99 ID:9NEMz1Ms0
卯月ちゃんも先輩と言えば先輩だけど、私と同世代でそこまで芸歴が変わらないし、
本人も教えるのは苦手と言っていたっけ。
だからこう、先輩アイドルが出来たのも初めてのことだった。
いや、これまでクラブに縁が無かった分、先輩と呼べる人自体初めてだ。
「それじゃあ次は私の方、やってくれるかしら」
「は、はい!」
交代。深く息を吐き続ける瞳子さんの背中を押すと、そのまま地面にくっつきそうなぐらいに曲がっていった。
「凄く柔らかいんですね」
「日々の練習の成果よ」
その後一緒に準備運動をして、昼食を取ることになった。
「ちょっと待ってて、プロデューサーを呼んでくるから」
「あっ、それなら私も!」
確か営業先から急なトラブルがあったって言ってたけど、もう終わっているかな。
とりあえずかけてみる。2回ほどのコール音で、プロデューサーは出てくれた。
183 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:28:19.90 ID:9NEMz1Ms0
「えっと、もしもし?」
『あっ、小日向さん。さっきは悪いね、1人にさせちゃって。こっちの用事も終わったから、今から戻るよ』
「あっ、そうじゃないんです。お昼ご飯、一緒に食べませんか?」
『お昼? そうだな、お邪魔しようかな。どこで食べるの?』
「えっと、分からないです。誘われたんで」
『誘われた? ああ、アイドルにね。でもそれじゃあ、俺はお邪魔じゃない?』
「いえ、誘ってくださった方も、プロデューサーを呼ぶって言ってましたし大丈夫だと思います」
むしろ全く知らない相手2人と食べるのは、まだ少し怖いから大歓迎だ。
『そう? まぁ情報交換の場にはちょうどいいか。今会場?』
「はい」
『分かった。すぐに向かう』
プロデューサーが戻ってきたのと、瞳子さんがを担当プロデューサーを引き連れてきたのは、ほぼ同時刻だった。
184 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:30:12.06 ID:XsX61rbU0
「あれ? 彼ら?」
「はい。ってプロデューサー、知っているんですか?」
「い、いやそう言うのじゃないんだけどさ……」
「?」
「あー、気にしなくていいよ。嫌いな人だとか因縁があるとかそういうのじゃないから」
妙に歯切れの悪い答えが返ってきた。
どうやら前のオーディションの時に会ったことが有りそうな反応だけど、対する瞳子さんたちは初対面のようで、
プロデューサーに初めましてと挨拶をする。
「シンデレラプロと言いますと、僕たちの後ですね」
「ええ、どうもくじ運が悪く、一番最後になっちゃいましたね」
「ははは。でも早いうちに終わっても、残りの人たちのパフォーマンスを見ることしか出来ないんですよね。死刑宣告を待つ囚人の気持ちを味わえますよ?」
「そ、それはご勘弁願いたいですね」
185 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:31:46.40 ID:RvstfWhS0
少しだけ大丈夫かなと危惧していたけど、プロデューサー同士で気が合うようで、
なんだかんだ言いながらも仲良くやっているようだ。
さっきの反応が気になるけど、今は触れなくても問題ないかな。
「それじゃあ行きましょうか。この辺で美味しいところ、案内してあげる」
瞳子さんに連れられて、私たちは小さな喫茶店へと足を運ぶ。
「あら、瞳子ちゃん。いらっしゃい」
「マスター、4人なんだけど、空いている?」
「大丈夫だよ。瞳子ちゃんたちなら、混んでても顔パス余裕だよ」
瞳子さんはマスターと顔馴染みらしく、日当たりのよい窓側の席に案内される。
窓から射す陽光は心地よく、お腹いっぱい食べたなら気持ちよく寝ることが出来るだろう。
と言うより、今の状態でも眠れそうだ。
尤も、これからのことを考えたら、ガッツリ食べるのはよろしくない。歌って踊るんだ、程々にしておこう。
「それじゃあ、このオムライスをください」
「あら、お目が高いわね。このオムライスは、マスターの一押しなのよ。ここに来るたび、私も頼んでるの。オムライス2つね」
同じメニューを選んだからか、瞳子さんは嬉しそうに説明する。
186 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:33:13.91 ID:bfJKtpVn0
「それじゃあ僕は、カツカレーで。どうしますか?」
「じゃあ、俺も」
「了解しました。オムレツ2つ、カツカレー2つ入ります!」
若い従業員さんは注文を聞き終えると、軽やかな足取りで厨房に入っていく。
「あれって……」
店内を見渡していると、壁に掛けられていた写真に、瞳子さんとマスターが映っていることに気付いた。
「ああ、あれね。私、ここで働いていたのよ」
「そうだったんですか……」
写真の彼女は、今の彼女と違って、明るい笑みを浮かべていた。
従業員一同と未来のトップアイドルって書かれているから、お客さんが撮ったのかな。
写真を見ただけで、仲の良い雰囲気が伝わり、素敵な職場なんだなと感じた。
「大分から東京に出てからね、雇ってもらってたの。その時に、彼にスカウトされたの」
187 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:37:02.09 ID:63EvW3Xn0
お隣の県出身なんだ。なんだか意外だった。個人的に、北の方出身な感じがしていたから。
どうしてかと聞かれると、彼女の持つ憂いや寂しさと言うものが、何となく北っぽかったからだ。
うん、理由になってすらいない。
「はい。たまたまこの店でお昼を食べようとした時に、接客してくれたのが瞳子さんなんです。あの写真を撮ったのも、僕なんです」
「そうだったわね。彼ったら、注文を聞きに来た私の手を取って、いきなり『アイドルになりませんか!?』って言ったの。流石にあれは面食らったわよ」
「あ、あはは」
服部Pははにかみながら、水を飲み干す。
やっぱりどのアイドルも、きっかけはいつやって来るのか分からないんだ。
その日瞳子さんがシフトに入っていなかったら、こうして彼と出会うこともなかったんだろう。
この世界に入って、つくづく縁と言うものの意外さを思い知らされるようになった。
一期一会――。いい言葉だ。
本来は茶道の言葉らしいけど、私がその言葉を知ったのはとある映画のタイトルから。
英語の授業でみたその作品の、主人公のどこまでもひたむきな生き様は、未だに私の心の中に残っている。
188 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:37:54.56 ID:63EvW3Xn0
「お待たせしました、オムライスです」
オムライス2つは運ばれてくるも、カレーはまだまだ時間がかかるみたいだ。
「えっと、いただいていいですか?」
「どうぞどうぞ。気にする必要なんてないさ」
「じゃ、じゃあ頂きます!」
スプーンを持って、ふんわりとしたオムライスを口に入れる。
「美味しい……」
「言ったとおりでしょ?」
「はい! こんな美味しいオムライス、初めてです!」
お母さんの作ったオムライスも好きだけど、今回はこちらに軍配が上がった。
半熟卵の柔らかな食感がたまらなく、口の中で蕩けるようだ。
もしこれをまかないとして出してくれるなら、アルバイトの面接を受けようかなと思えた。
189 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:47:25.66 ID:XsX61rbU0
「喜んでもらえて、何よりね。私もいただきます」
オムライスを半分ぐらい食べたところで、カツカレーもやって来る。
2人がこれを頼んだのは、縁起を担ぐ意図でもあったのだろうか。
「頂きます。うん、美味しい」
昼食会は和やかに進む。これからオーディションが待っているということを忘れそうになったぐらいだ。
順次ご馳走様を言っていき、最初に来たにもかかわらず、一番最後に食べ終わったのは私だった。
3人を待たせてしまったようで、申し訳ない。
「そろそろ会場に戻りましょうか。最終調整もしておきたいし」
「そうですね。すみませんね、お邪魔しちゃって」
「いえいえ、お気になさらず。それでは、オーディションお互い頑張りましょうね」
「はい! 瞳子さん、頑張りましょう!」
プロデューサーたちは気合十分だ。
私もただオーディションを受けて終わるだけじゃなくて、何かしら得て帰りたいと考えていた。
190 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:50:54.71 ID:XsX61rbU0
「行きましょうか、瞳子さん」
「……そうね、――で―わりにするのよ」
「え?」
今、何って言ったんだろ?
「ううん、何でもないの。頑張りましょうね」
「あ、はい」
会場へと戻る2人の背中を見送る。私たちも行かないと。
「……」
「プロデューサー?」
「あ、ああ。ゴメン。少し考え事をしてて」
「?」
やっぱりプロデューサーの様子もおかしい。何かを隠しているように見えた。
鈍い私でも、それぐらいは分かる。
191 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/27(日) 15:59:05.31 ID:eiADEd+i0
「俺達も戻ろう」
「はい」
だけど私には、彼に何を隠しているか聞く勇気は無かった。
今まで私に嘘なんか吐かなかった彼が、こう隠し事をするのは初めてのことだったから。
「……」
それは多分、彼が嘘を吐くのが苦手だからだと思う。
気付いているのだろうか? 本人は沈黙を選んでいるつもりでも、その表情は雄弁だ。
それが却って私と彼との間に、測り様のない距離を感じることになってしまった。
「天気、怪しくなってきた?」
空を仰ぐと、太陽は隠れて曇って来ている。どうやら予想は外れたのかもしれない。
泣き出しそうな曇天が、なんとなく瞳子さんと重なってしまう。
『……そうね、――で―わりにするのよ」』
別れ際に見せた瞳子さんの思いつめた表情が、何か不吉な出来事を暗示しているかのように思えてしまった。
194 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 00:37:02.56 ID:Bs+Ws+ai0
「あっ、メール着てる。卯月ちゃん?」
集合10分前、携帯電話の電源を切ろうとすると、4件のメールが来ていたことに気付く。
携帯ショップから1通、どこから私のアドレスを知ったのか迷惑メールが2通。
そして最後に、私の友達卯月ちゃんから可愛くデコレートされたメール。
『美穂ちゃん今日ファーストホイッスルのオーディション受けるんだよね! 私からアドバイス出来ることはないけど、美穂ちゃんなら大丈夫だよ! 自分を信じてね!』
自分を信じて、か。そうだよね、みんなが信じる私を信じなくちゃ。
「小日向さん。前も言ったように、緊張するのならみんなクマにしちゃえばいいんだ。見ているのは人じゃない、ぬいぐるみだってね」
プロデューサーはそうアドバイスして、席へと戻る。向かい合う形になっているけど、距離は離れている。
その間に置かれた席に、審査員たちが座るみたいだ。
今までは傍に彼がいたけど、今日は遠いところから私を見守っている。
隣に座るのは仲良くなった瞳子さんだ。
だけどオーディションが始った時、彼女は超えるべきライバルとなる。
私は1人で、この戦いに挑まなくちゃいけないのだ。
195 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 00:38:27.07 ID:Bs+Ws+ai0
「ふぅ……」
深く息を吐いて緊張を和らげる。心臓はまだバクバクしているけど、少しだけマシになった気がした。
だけどそれは、気がしただけで。
「みなさん集まっていますね。まずは参加者の確認から。名前を呼ばれたら代表者が返事をしてください」
「それでは、エントリーナンバー1番、多田李衣菜さん」
「はい」
タケダさんが淡々とした調子で、参加者の名前を挙げていく。
1、2、3……。それが私にとって、時限爆弾のカウントダウンに聞こえて仕方なかった。
「エントリーナンバー71番、服部瞳子さん」
「はい」
「エントリーナンバー72番、小日向美穂さん」
「ひゃ、ひゃい!!」
爆発!
落ち着いたはずの心臓の鼓動は、近づくにつれて早くなり、60番ぐらいからもう頭の中が真っ白だった。

196 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 00:47:23.23 ID:Bs+Ws+ai0
当然と言うべきか、名前を呼ばれて『はい』と2文字答えるだけなのに、私は噛んでしまった。
それでも、一切笑いが起きないのは、この場の持つ異様すぎる空気のせいだろうか。
沈黙が続くぐらいなら、大きく笑い声をあげられた方が気が楽なのに。
「緊張しているんでしょうか?」
タケダさんはお面を被っているかのように、何を考えているか分からない表情で、私に問いかける。
「す、すみません……」
「いえ、責めているわけじゃありません。緊張するということは、決して悪いことではありませんからね。適度な緊張は、パフォーマンスに締まりを与えます」
「は、はい……」
タケダさんは怒っているわけじゃないと思うけど、私だけこう取り上げられると、余計緊張してしまう。
「……!」
遠くに座るプロデューサーも、少し困っているように見えた。
声を出せないので、そんな目をしないでください、と目線で合図しておく。
197 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 00:53:18.82 ID:25yFBgbT0
「全員揃っていますね。それではこれより、審査を始めます」
タケダさんは相も変わらず冷然と進める。
この調子で実は私、サイボーグでした。と言われても納得しちゃいそうだ。
「初めて参加された方に説明しますが、本オーディションは、合格者の上限は決まっていません」
「皆様のパフォーマンスの出来如何によっては、全員合格も全員不合格とも有り得ます」
「ところで、特別番組枠と言うことで合格者上限が多いのでは? と考えた方もおられるかもしれませんが、私どもとしては妥協してステージに上げるということをしたくありません」
「残念ながらその様な特別措置はない。そうお考えください」
これはプロデューサーから聞いていたことだ。
ただ全員不合格はまだしも、全員合格、舞台に上げますよ。だなんてそんな極端な例は有り得ないと思うけど、
思いっきり番組を私物化している彼らならやりかねない気がする。
番組の私物化なんて言うと、ネガティブに感じるけど、彼らは彼らなりの信念でこの番組を作って来たんだ。
情に絆されず、あらゆる誘惑にも負けず。自分たちが認めた高い水準を持つアイドルだけを、
ステージに上げ続けることで、ファーストホイッスルは芸能界最後の砦となっていったのだろう。
198 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:05:04.17 ID:AKZLggD+0
「質問は有りませんか?」
タケダさんは私たちを見渡し尋ねるが、誰1人答えようとしない。
仮に有ったとしても、質問できるような空気じゃないから仕方ないことだろう。
だから私は完全に油断をしていた。
「72番小日向さんでしたか? 何かありますか?」
「へ?」
感情を感じさせない目が、私を射抜く。え、えっと。今タケダさん、私を指したよね?
「わ、わた、私ですか!?」
「はい。別に無理にとは言いませんが」
そうは言っても、何か言わないといけない空気が私を包んでいた。
周囲のアイドルや、観覧席のみんなの視線が私に集まる。
「そ、そうですね……。タ、タケダさんたちの! り、り理想を教えて、くれますか?」
「ほう」
199 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:19:57.73 ID:7Za/wyzT0
とっさに出てきたのが、彼らの理想だった。
スポンサーの力を借りず、私財を投げ打ってまで、彼らがこの番組を続ける理由が、なんとなく気になったからだ。
「……」
「え、えっとその……」
審査員の皆様は能面のように表情を一切変えない。不味いを質問しちゃったのだろうか?
「この番組の有るべき姿は、いわばそれは私たちの理想と言うことになります。私たちは常にそれが伝わるよう、番組を作っていましたが、どうやら努力が足りなかったようですね。それに関しては、私たちの責任です」
顔は眉1つ動いていないけど、少しだけ残念そうに答えた。
「そ、そういう意味では……」
居心地が悪くなって、すぐに訂正する。タケダさん達が悪いんじゃない。
地元じゃ映っていなかったからと研究を怠った私が悪いのだから。
「いえ。事実オーディションに参加された方の中にも、なんとなく参加されているという人も少なくないでしょう」
「それを否定するつもりはありませんが、折角参加して下さるのでしたら、少しでも私たちの理想に共感して下さればと思います」
「ファーストホイッスルの理想はずばり、音楽の原点回帰です」
200 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:36:10.57 ID:wt+CnIhh0
「音楽の原点回帰、ですか」
抽象的な返答に少しだけ困惑するも、なんとなく意味が伝わった。
「はい。かつて私たちは、音楽業界の現状に疑問と憂いを抱き、ファーストホイッスルの前身ともいえる番組を作りました」
「オールドホイッスル、聞いたことが有りますでしょうか? 今の若い方には馴染みが薄いかも知れませんが、そこで私たちは極上の音楽を目指していました」
オールドホイッスル――。私がまだ小学生になる前の番組だったはず。
幼い頃の話であまり記憶にないけど、こっちは熊本でも映っていたと思う。
「老若男女誰からも愛され、口遊めるような音楽。そこには国境も思想も関係ありません。素晴らしい音楽だけが、心に届くのです」
「しかし私たちの努力叶わず、オールドホイッスルは終了しました。後ろ盾となっていた方の失脚もあり、局としても数字の取れない番組をいつまでも残していくわけにもいかなかったのでしょう」
タケダさんはさらに続ける。
「ですが、私たちの理想に共感した若い力が台頭してき、名前を変えて再び始めることが出来ました」
「ファーストホイッスルは、その若い力を中心にピックアップしていっています。これからの音楽業界を牽引する存在を、私たちは求めているのです」
「拝金主義に溺れず、ただ純粋に素晴らしい音楽を届けること。それが私たちの使命であるとともに、皆様に求めていることでもあります」
10年20年、もしかしたら100年以上愛されるような音楽を、彼らは目指している。
そしてその歌を紡ぐに値する存在か、このオーディションで見極めているのだろう。
201 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:45:02.38 ID:50Yp0Th50
「簡単にですが、ご理解いただけましたでしょうか?」
「は、はい。ありがとうございます」
「他に質問はございますでしょうか?」
やっぱりみんな手をあげない。タケダさんもそれ以上追及することは無く、先に進める。
もしかすると私、目をつけられたのかな……。
「ないみたいですね。それでは早速始めましょう。エントリーナンバー1番の方、お願いいたします」
「はい」
ロックな音楽が会場に響き、1番の彼女はパフォーマンスを始める。
それがこの戦いの始まりを告げる、ファンファーレ。
オーディションは始まった、もうどこにも逃げることは出来ない。
202 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:46:28.49 ID:50Yp0Th50
「ふぅ……」
「おっ、いたいた。小日向さん!」
「プロデューサー」
2度目の休憩中、自販機の前でプロデューサーと再会。
長時間拘○されているためか、彼の顔にも明らかな疲労が見えていた。
それは私も同じことだろう。
「ふぅ、慣れないもんだなぁ。前回ならさっきの子で終わってたのに、後1時間チョイあるもんなぁ。小日向さん、体は固くなってない?」
「あっ、大丈夫です。さっき少し体を動かしていましたから」
「そうか、なら大丈夫だな」
プロデューサーは自販機でコーヒーを買うと、私の隣に腰掛ける。いつもぐらいの距離で、少しだけ安心。
「プロデューサーから見て、どの子のパフォーマンスが良かったとかありますか?」
「俺から見て? そうだな……」
コーヒーを美味しそうに飲んでいる彼に聞いてみる。
私からしたら緊張しっぱなしだったため、みんな凄いなと言う小学生レベルの感想しか出なかったけど、
プロデューサーと言う目線から見たら、違って見えるのかもしれない。
203 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:51:58.51 ID:wt+CnIhh0
「俺が審査員なら目をかけるのは、トップバッターのロック娘とか、後42番の子かな」
難しそうな問題を考えるように腕を組んで答える。
「特に最初の子は、小日向さんと同様今回がファーストホイッスル初挑戦と言うことらしいけど、本番慣れしている印象があったかな」
「ロック調の曲で、自分の個性をアピールしていたし。粗削りだけど、今後出てくるだろうな」
彼女の堂々としたアピールは、とても初挑戦とは思えなかった。
場の空気に潰されることなく、自分のカラーを出し続けるのは、とても難しいことだ。
それを彼女は、難なくやってのけたのだ。
それに、トップバッターであれだけ出来ると言うのも、相当なものだと思う。
「で、42番の子はなぁ……」
眉を八の字にして困った表情を見せる彼。それも仕方ないだろう。
いくら緊張して周りが見えなかった私ですら、彼女のパフォーマンスとキャラクターは鮮烈に残っているぐらいだ。
「なんと言っても存在感が他の子と桁違いだ。その上、あれだけのパフォーマンスを見せるとは、単なる色物って訳じゃなさそうかな」
42番、名前は確か諸星きらりと言う芸名のような名前だっけ。
今参加者の誰よりも背が高く、口を開けば独特の喋り方で、どこか可笑しなテンション。
プロデューサーは色物だなんて失礼すぎる表現をしたけど、その言葉が一番しっくりと来たから始末に負えない。

204 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:57:04.17 ID:VuV8MICW0
しかしパフォーマンスは、色物という嫌な評価を覆す出来だった。
ダンスや歌の完成度は言うまでもない。
加えてアピールのタイミングや、右に倣えを強要されそうな場の空気をものともしない、
鋼の様な強心臓は私も見習いたいぐらいだ。
「しかも話によると、彼女のプロデューサーは、以前この番組でデビューした双葉杏の担当だと聞くし、油断ならない相手だな」
同じプロデューサーが担当している双葉杏と言う人がどんな人かまでは分からないけど、
この番組でデビューしたぐらいなんだから、凄く意識の高い人なんだと思う。
「飽くまで新米プロデューサーの一意見だから、参考になるかは微妙だよ? それに、他人を気にしても意味がない」
「俺たちがすべきことは、自分の最良をやり切るんだ。誰かに影響されるんじゃない、自分の芯を持ってね」
コーヒーを飲み終えた彼は立ち上がって背伸びをする。
私もそれに倣って、隣で背を伸ばす。うん、気持ち良い。
「俺のマネ?」
「はい、マネっ子です」
「まっ、こうでもしなくちゃ寝ちゃいそうだしな。さてと、行きますかね」
「はい」
205 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 01:58:21.13 ID:VuV8MICW0
「休憩終了3分前です! そろそろ会場にお戻りくださーい!」
係員さんが休憩の終わりを知らせる。私の番まで後1時間と少し。
それまでの間に、逸る気持ちを抑えないと。
「あれ?」
会場に入る前、どこか浮かない顔をしている瞳子さんのプロデューサーを見つける。
何か有ったのかな?
「小日向さん、調子はどう?」
「え、えっと……、バッチリかどうか分からないですけど、少し落ち着いたかなと思います」
「それなら安心ね。さぁ、あと少しがんばりましょう」
椅子に座ると隣の瞳子さんが声をかけてくる。さっきのことを聞こうかと思ったけど、
あまり触れて欲しくないことかもしれないので、そっとしておく。
それが原因で、瞳子さんにプレッシャーを与えちゃうのは本意じゃない。
「それでは、オーディションを再開します。エントリーナンバー51番の方、よろしくお願い致します」
206 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 02:03:20.98 ID:e2d/qQta0
タケダさんの合図で、オーディションは再開した。
51、52、53……。3分刻みで、出番と言う爆弾は私へと近づいていく。
60番頃から私は、他人のパフォーマンスが気にならなくなっていた。
そう言うと落ち着いてきたかと言われそうだ。
聊か語弊のある言い方だったかな、実際はそれ所じゃなくて、他人のを見ている余裕なんてなかっただけ。
淡々と進んでいき、70番のアイドルも終了する。
次は瞳子さんの番だ。心の中で、こっそり彼女に頑張れとエールを送る。
「エントリーナンバー71番、服部瞳子です」
彼女に合っているゆったりとした曲が流れてくると、瞳子さんは私たちの目の前で舞い踊る。
その姿を見る人は、彼女を何と形容するだろうか?
顔こそは見えないものの、私には瞳子さんが何かに憑りつかれているようにしか見えなかった。
それは私だけじゃなかったと思う。この場にいる全員が、彼女のパフォーマンスに、
どうしようもないまでの『執念』を感じていたんだ。
彼女に対して覚えた違和感は、こういうことだったのか。
207 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 02:05:04.34 ID:kHR5r67A0
タケダさんは飽くまで表情を崩さず、瞳子さんを見続ける。
私があの席にいたなら、きっと泣きそうになっているだろう。
「……ッ!」
瞳子さんのプロデューサーが、苦虫を潰したかのような顔で彼女を見ている。
彼も瞳子さんに伝えたい言葉があるはずだ。
だけどそれは、届かない。
「……ありがとうございました」
「瞳子、さん」
「……」
曲が終わり、瞳子さんは一礼すると席に戻る。私の隣に座った彼女の顔を、私はちゃんと見ることが出来なかった。
怖かったから?
優しくしてくれた瞳子さんのそんな顔を見たくなかったから?
理由は分からないけど、体がそうすることを拒絶していた。
怖い。踊るのが、歌うのが怖い。そう思ったのは、始めてだった。
208 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 02:10:11.63 ID:kHR5r67A0
「次が最後ですね、エントリーナンバー72番。お願いいたします」
「は、はい! こ、小日向美穂です! よろしく、お願いいたします!」
――目を瞑る。聴衆を全てクマにしよう。
――目を開ける。そこには真剣な表情の審査員と、厳かな空間。
200を超える数の瞳は、前から後ろから私を見つめていた。
そして、場の空気に合わないような、明るいイントロが流れてくる。
その後のことは良く覚えていない。
「きゃっ」
「――!」
ただ気が付いた時には、止まらない音楽の中、響くはプロデューサーの声。
私の天と地は、逆転していた。
211 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 21:46:23.85 ID:Bs+Ws+ai0
「……」
「あー、うん。小日向さん、ちょっとちょっと」
「……何でしょうか?」
審査結果を待つ間、プロデューサーが心配そうに私のもとへとやって来た。
「その、何が有ったんだい?」
「何って……」
「確かに緊張はしたと思う。あれだけの人の前で歌い踊るのなんて、初めての経験だったから。今までそのような機会を用意出来なかった俺たちが悪いんだけど、今日のパフォーマンスは……」
「正直言って最悪だった。いつもの君なら、もっと出来ていたはずなのに」
いつもは失敗しても、小日向さんなら出来る、大丈夫! と笑顔で励ましてくれた彼が、
悔しそうに唇を噛みしめている。
初めてのことだった。彼がここまで悲しそうな顔をしたのは。
212 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 21:50:40.97 ID:Bs+Ws+ai0
「怖かったんです」
「怖かった?」
「はい。瞳子さんのパフォーマンスを見て、私は自分を失ってしまいました。言い訳に聞こえますよね? 人のせいにするなんて、私最低ですよね」
自分の技術不足が悪いのに。
飲み込まれてしまった自分が悪いのに。
優しかった彼女に責任を押し付けてしまった。本当に最悪だ。
だけどプロデューサーはそれを責めることなく、あたかも自分が悪かったかのように頭を下げた。
「すまない、小日向さん」
「え? どうして、プロデューサーが頭を下げるんですか?」
「こうなることぐらい、分かっていたのに……!」
この時の唇を強く噛みしめる彼の表情を、私は一生忘れないだろう。
それぐらい、辛そうに見えたのだ。今まで私にそんな素振り、一切見せなかったのに――。
「審査結果発表が始まりますので、出演者の方は会場にお戻りください!」
213 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 21:54:38.85 ID:InrPCXEI0
意味深なことを口走ったものの、最後まで聞くことは出来なかった。
プロデューサーはどうしてか、瞳子さんたちを見た時に、担当アイドルに先輩が出来て喜んだというわけでなく、
しまったと言いたげに複雑な表情を浮かべていた。
プロデューサー。一体貴方達の間に、何があったんですか?
「全員帰って来たね。それでは、審査結果を発表します。今回のオーディション、合格したユニットは……、42番、64番、69番の3組です」
「にょわー! 合格したにぃ!」
「いだだだ! 骨が折れるって!!」
合格したユニットだろうか、所々から嬉しい悲鳴が上がる。
42番は記憶に残っているけど、64番と69番は私自身がそれ所じゃなかったため、あまり憶えていない。
当たり前だけど、私の名前は呼ばれなかった。
72人の中で、一番出来の悪いパフォーマンスを見せてしまったんだ。
名指しで侮辱されても仕方ない。私以外合格、私だけ不合格でも納得しただろう。
「さて、今回のオーディションは72人といつもより大人数で行ったため、皆様に残る疲労も相当なものだと思います」
「学校の先生のようなことを言いますが、家に帰るまでがオーディションです。下手に寄り道せず、予定のない方はゆっくりと休んで明日からの活動を頑張ってください」
「それでは、これにてオーディションを終了致します」
214 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:08:24.33 ID:InrPCXEI0
タケダさんはそう締めくくって、会場を出て行く。
それに倣って、アイドルたちもぞろぞろと立ち上がって、帰る用意を始める。
「あら、貴女は帰らないの?」
「瞳子さん……」
隣に座る瞳子さんも、荷物をまとめて出ようとしていた。
彼女の顔は、つきものが落ちたような、そんな穏やかな顔だ。
数十分前の彼女と同一人物とは思えないぐらい。
「すみません。少しだけ、お話しませんか?」
「私と? プロデューサーを待たせているんじゃないの?」
「大丈夫です。少し遅れるって連絡しますから」
「そうね……、風に当たりましょうか。この部屋は熱気で熱いし、ちょっとぐらい寒いぐらいがちょうど良いわね」
「分かりました」
荷物を持って、瞳子さんについていく。
会場の近くのベンチで2人隣り合って座る。空を見上げると、今にも崩れそうな天気。
やっぱり予報は大外れだった。
215 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:21:48.14 ID:InrPCXEI0
「まずは、お疲れ様。初めてのオーディション、どうだった?」
「えっと、何も考えれませんでした。変な話かもしれませんけど、私じゃない誰かが、私を操っている。そんな感覚でした」
「変でもないわよ。私も似たようなものだったし。ちょうど今年の1月かしらね? この場所で、私も初めてのオーディションに挑んだの」
瞳子さんは懐かしそうに笑うと、今にも泣きだしそうな曇天を仰ぐ。
「私も彼も右も左も分からないペーペーだった。だからでしょうね、新人アイドル対象なんて謳い文句の地獄の1丁目、ハローホイッスルにいきなり挑戦しちゃったのよ」
「ッ! そ、そうだったんですか……」
地獄の1丁目だなんて、仰々しい例えがなんか面白くて、噴き出しそうになってしまう。
うん、あながち間違ってないよね。
その先に2丁目の3丁目もあるのだろうか。
「結果はボロボロ。踊っている途中で靴ひもほどけてこけそうになるし、歌詞を間違えるし。本当に、最悪だったわ」
「その時から、私たちはこのオーディションに合格することに必死になった」
「毎回のように参加して、営業や他番組のオーディションで経験を積んで、あのステージに立ってやるんだってね」
216 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:23:14.94 ID:InrPCXEI0
「いつしかそれが、私の夢になっていたの。屈辱を晴らしてやるだなんて、他の皆からしたら小さな夢かもしれないけど、それでも私にとってはアイドルとしての行動理念になっていた」
夢――。それは誰にでもあるものだ。
私の夢も、他人からしたらちっぽけだなと言われてしまうかもしれない。
だけど夢の大きさは、他人に測れるものじゃない。
「……でもね、疲れちゃったのよ。夢を見続けることに、縛られることにね」
「え?」
「私ね、今日のオーディションがダメだったなら、アイドルを引退するつもりだったの」
「そんな!」
驚く私をよそに、自嘲するように彼女は話し続ける。
「アイドルの期限は1年間。その間に結果が出なければ、そこまでの存在なの。もちろん私たちは頑張って来たわ。自分達は輝ける、特別なんだって。でも、無理だった」
「彼も喫茶店の皆もいつでも応援してくれた。頑張ってください、瞳子さんなら出来ます! 根拠なんてどこにもないのにね、凄く心強かった」
「だけど、どれだけ期待されても、私は出来なかったの。私より後にオーディションを受けた子が合格して、いつの間にか自分は何をしているんだろうと思っちゃって」
217 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:29:41.29 ID:6qexn7kK0
「だから、辞めちゃうんですか?」
「ええ。今日のオーディションは、背水の陣だったのよ。これがダメなら、私は大分へ帰る。プロデューサーと約束していたことなの。一方的にだけどね」
「彼は何度も説得してくれた。凄く嬉しかった。きっと今まで頑張れてこれたのは、彼がいたからなんでしょうね。それが恋心かどうか、分かったもんじゃないけどね
「でも、彼はこんな所でまごついてちゃダメなのよ。私なんかよりも、魅力的な子はいっぱいいた。事務所からも打診されていたはず」
「だけど彼は、最後まで私と共にトップを目指すって言ってくれた。格好悪くても泥臭くても2人で夢を掴もうって決めたのに」
だから彼は、あんな顔をしていたんだ。
だから瞳子さんは、鬼と見紛うほど必死だったんだ。
自分たちはまだ夢が見れるってことを証明したかったんだ。
「結果は、今日もダメだった。1年間挑んで、1度たりとも受からなかった。これ以上続けても辛いだけだから……」
そんなことない、瞳子さんならいけます! 口に出すのは簡単だ。
だけどそれは、彼女を縛り付ける無責任な言葉。
私は彼女の独白を、ただただ黙って聴くことしか出来なかった。
「人の夢って、どうしてこんなに儚いんでしょうね……」
彼女に与えられた花道は、とても儚いもので――。
218 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:31:46.89 ID:/qA7RzT50
「小日向さん、あなたは……こうなっちゃダメよ」
恨み節とも取れる彼女の言葉が、私の中で何度も何度もリフレインする。
リフレイン――。動詞だと止めるって意味なのに、名詞にすると繰り返すだなんて正反対の意味になるのはどうしてだろうか。
どうせなら、すぐにでも止めて欲しかったのに。
その後、瞳子さんのプロデューサーが彼女を迎えにきた。
口調こそは軽かったものの、なんとか明るく振る舞おうと無茶しているのが、私にも分かった。
きっと瞳子さんも気付いていただろう。それぐらい、ごまかし方が下手だった。
2人が去ったベンチで、私は1人項垂れる。
彼女たちはどうなるのだろうか?
瞳子さんは、どうするのだろうか?
今後の自分の身の振り方を考えなくちゃいけないのに、浮かび出てくるのは憂いを帯びた2人の姿。
「雨だ」
ポツポツと降り出した雨は、徐々に強まって滝のように降りしきる。すぐに雨宿りできるところに行けばいいのに、
私はその場から動く気になれなかった。雨に濡れてもお構いなしだ。
「聞きたくなかったよ……」
今、私の頬を伝うのは、雨なのか、それとも――。
219 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:34:38.10 ID:/qA7RzT50
「……風邪ひくよ」
「……」
雨が当たらなくなったなと思うと、プロデューサーが近くのコンビニで買った傘を差してくれた。
急いできたのだろう、値札が付いたままだ。
この場所には私と彼しかいない。世界から隔離されているとまで感じるぐらいの静寂。
耳に入るのは雨音と、雨が傘に当たって弾ける音だけ。
先に口を開いたのはプロデューサーの方だった。
「本当なら、服部さんと引き合わせるべきじゃなかった。こう言っちゃ彼女たちに失礼だけど、彼女の覚悟を知ると、きっと小日向さんは傷つくと思ったんだ」
「……プロデューサーは知っていたんですね」
「偶然だけどな」
「プロデューサー、1つ聞いていいですか?」
「何かな」
傘を差したまま、びしょ濡れになったベンチに座る。
一瞬冷たそうに顔をゆがめるも、すぐに真剣な眼差しになる。この切り替えしは流石と言うべきか。
220 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:36:46.41 ID:/qA7RzT50
「夢って、本当に叶うんでしょうか?」
「叶うさ、俺たちが見続ける限りな」
「そればっかりですね。……人の夢って儚いんですよ?」
憶えたばかりの言葉を使う子供の様に、瞳子さんの言葉を真似る。
「だけど眩しくもある。一瞬のきらめきだとしても、俺達は必死にしがみ付こうとするんだよ。……小日向さんは、どうしたい?」
「私は……」
私は……。その続きは、紡がれなかった。
「……少し、考えてみようか」
「はい、そうします」
雪に変わりそうなぐらい寒いのに、雨は相変わらず傘に弾かれて飛び散る。
私たちは2人して黙り込んだまま、電池の切れたかのようにベンチに座っていた。
帰ろうか、と彼が言ってくれたのは時計の長針が一周したころだった。
雨は止まない。私の心も、雨模様。季節外れの、梅雨が来た。
221 : 7話 Naked Romance ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:46:22.41 ID:/qA7RzT50
――
「先日のオーディションが響いているみたいですね」
音楽に合わせて踊る彼女を見て、トレーナーさんは険しい顔のまま、俺に話しかける。
「ええ、そうですね」
「確かに彼女にとって、良いオーディションじゃなかったと思います。詳細な順位が発表されたわけじゃありませんが、話を聞く限り、参加者の中ではダントツ最下位だったみたいですし」
「ですが、それを差し引いても、ここまでモチベーションが下がるとは。何かあったんですか?」
初めてのオーディションから1週間、俺たちはいつものように活動するはずだった。
はずだったというのは、小日向さんのモチベーションが俺達の予想以上に下がってしまったことで、活動に身が入らなくなったのだ。
レッスンをして、イベントに参加して、リベンジを誓う。
そうなればと願っていたのだが、彼女が受けた傷はそう簡単に癒えやしなかった。
「結果もあると思いますけど、仲良くなった先輩アイドルが引退したことも尾を引いているんです。彼女にとって初めての先輩でしたから、尚更だと思います」
「先輩アイドルですか?」
「ええ。ほんの少しだけの間でしたが、小日向さんも彼女に懐いていましたから]
222 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:52:19.25 ID:cyWxZk1/0
裏切られた、そう思っていても不自然じゃない。今まで純粋なまでに夢に向かって走り続けた彼女に、
夢を諦めると言う現実を突き付けてしまった。しかもそれが、彼女と仲の良くなったアイドルなんだ。
誰が悪いなんてことは無い。責めることも出来ない。それが、芸能界なんだから。
「でもこのままじゃ、あの仕事は……」
「あの仕事?」
「いえ、こっちの話です。少し、イベントの依頼が有りまして」
「そうですか。ですが、今の状況だと、いい結果は出ないかもしれません」
「……ですね」
オーディション後の話だが、服部さんの担当プロデューサーは、所属事務所の新人アイドルをプロデュースし始めたようだ。
結果が思うように出なかったとはいえ、1年近く1人のアイドルを育て続けた経験は嘘を吐かない。
今後彼が俺たちの前に姿を現すこともあるだろう。その時には、小日向さんは先輩になっているんだ。
「はぁ……」
後輩アイドルにはとてもじゃないけど、今のままの姿はお見せできない。
223 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:54:40.12 ID:cyWxZk1/0
服部さんのことだが、プロデューサーによると地元の大分に帰ったらしい。
これからどうするかまでかは聞けなかったが、プロデューサーは彼女を諦めたわけじゃないらしい。
『夢破れたとしても、もう一度夢を見てもいいんですから。彼女がステージに帰ってこれるよう、僕も頑張らないといけませんし』
一番つらいのは彼なはずなのに、そんなことはどこ吹く風。服部さんを諦めるなんて、微塵も考えていなかった。
『それに、僕がプロデュースした子らを見て、戻りたくなるかもしれませんしね。その時は、もう一度夢を見ます』
吹っ切れたのか、そう言って笑う顔は晴れやかだった。
「俺も見習わなくちゃな……」
誰にも聞こえないように、こっそりと呟く。
「休憩終了! それでは、先ほどのセクションからもう一度」
「……はい」
「小日向さん、気のない返事をするぐらいなら、今日はもう良いです。着替えて帰ってください」
「わかりました……」
224 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:56:38.69 ID:cyWxZk1/0
反抗もせず、小日向さんは更衣室へ向かう。
恥ずかしながらも、食らいついていた彼女はどこに行ってしまったんだ!?
「はぁ、これは重症ですね。少しでも、食いついて欲しかったんですが……。結構ショックです」
トレーナーさんは残念そうに言う。先のオーディションでの失敗、夢を見続けることの虚しさと辛さ。
重すぎるダブルパンチから、彼女はまだ立ち上がれそうにない。
「俺たちも早く吹っ切れないとな」
「ええ。このままじゃ彼女、逃げ出してしまうと思いますから。私に出来ることあれば、言ってくださいね」
「その時はお願いします」
本当に、俺はまだまだだ。
担当アイドル1人のやる気すら出せなくて、何が目指せトップアイドルだ。
225 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 22:58:49.87 ID:cyWxZk1/0
「どうしたものか……」
事務所で弁当をかき込みながら呟く。
弱気なことを言うと、どうすればいいか分からなくなっていた。
励まし続ければいいのか?
きっぱりと切ってしまえばいいのか?
こんな時、彼女を導いてやるのがプロデューサーなのに。自分が情けない。
「何か、悩み事かね?」
「ああ、社長」
「最近小日向君が不調続きと聞いていてね。君もそのことで、頭を抱えているのでは?」
「ははは、お見事です」
流石社長、お見通しと言うわけか。
「伊達にこの業界に長くいないさ。初めてのオーディションで立ち直れない傷を負ったアイドルと言うのは、案外いるものだよ」
「その中には、磨きつづければ輝いただろう原石もいた。本当に、勿体無い話だ」
226 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 23:00:16.30 ID:wrFwgcFh0
「ええ、全くです」
最初は誰だって夢を見る。だけど辛い現実や、自分の力不足を嘆くうちに、夢を見ることに疲れてしまう。
叶いもしない夢を見るのは時間の無駄、そう考えると前に進めなくなってしまうのだ。
服部さんが珍しいわけじゃない。むしろこの業界では、新陳代謝の様なもの。
彼女が夢を諦めた時、ほかの場所で新たな夢が生まれただろう。
そうして、この業界は回っている。
「彼女に関してもそうだ。彼女は未来を創ることの出来るアイドルだと信じている」
「だけどなにより、君が彼女を信じなければ、彼女は誰と共に進めばいいか分からなくなる。今はマイナスでも、きっとプラスへと戻ってくれるさ」
「そうですね、少し悩み過ぎていたかもしれません」
「うむ。それとだね、もしも彼女のモチベーションがなかなか上がらないというのなら、1つ大技があるよ」
「大技ですか?」
「そうだ。アイドルのモチベーションを上げるには環境を変えると言うのも1つの手。そうだね、例えば……」
「例えば?」
227 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 23:01:47.36 ID:CO342Vao0
もったいぶるように少しだけ溜める。
「CDデビューを早める、とかね」
「CDデビューを早める、ですか」
「現段階では、オーディションやイベントではカバー曲を中心にしているはずだが、思い切って彼女だけの曲を作ればいい。小日向君とともに成長し、育っていく歌をね」
確かにファーストホイッスルにむけてのレッスンやイベントめぐりで、CDデビューのことはうやむやになっていた。
なるほど新曲か。確かにモチベーションを上げるには一番だろう。
「彼女だってアイドルになったからには、自分だけの歌を歌いたいだろう。彼女の適性に合う曲を作るのは大変だと思うが、時間はあるんだ。最良の選択を頼むよ」
「はい」
新曲か。作曲家の先生に相談して……。
「ん? 電話?」
ブルブルと震え、ポケットの中で携帯が着信を知らせる。
228 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 23:03:25.73 ID:TOf1byaM0
「私に構わず出たまえ」
「すみません、失礼いたします。もしもし?」
『もしもし。えっと、シンデレラプロのプロデューサーさんですか?』
「はい、そうですが……。失礼ですがどちら様でしょうか?」
『あっ、そうですね。自己紹介がまだでしたね。私、音楽プロデューサーのタケダの下で修業している者なんですが』
「タケダさんのお弟子さん、ですか?」
『まぁそう言うところです』
タケダさん自体経歴から何まで謎の多い人物だけど、弟子がいたなんて初耳だ。
声を聴く感じ、俺とそこまで年齢が離れているという感じではない。
しかし弟子か。一体なにを教わっているのだろうか。
229 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 23:09:47.15 ID:lxl7O3Kn0
『彼の下で音楽表現や作曲を学んでいるんです。えっと、自己紹介はこんな感じで……。急な話ですみません。今お時間よろしいでしょうか?』
「へ? まぁ、大丈夫ですが」
『良かった! それでは、今から喫茶店にてお会いできますか? きっとあなたたちにとっても悪い話じゃないと思うんです。小日向さんも連れてこれたらありがたいんですけど』
「彼女は今学校が終わったところですかね。少し時間がかかるかもしれませんが」
『大丈夫です。それでは、お待ちしておりますね』
そう言い終わると、タケダさんの弟子を名乗る男は電話を切った。
一方的に話が進んでしまったが、話してみた感じ、詐欺とかではなさそうだ。
「どうかしたのかね?」
「いや、タケダさんの弟子って人から電話がかかって来まして。社長ご存知でしたか?」
「ふむ、彼か……」
「社長?」
「あっ、いや。気にしないでくれ。もしかしたら詐欺か何かと考えているかもしれないが、安心したまえ。彼のことだ、きっとうまい具合に話を進めてくれるだろう」
230 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/28(月) 23:12:02.85 ID:I9lGBhGc0
どうやら社長も知っている人物のようだ。なら信頼しても大丈夫しそうだな。
「こんにちわ。遅くなりました」
慣れてきて前ほどどもらなくなったのは嬉しいことだけど、小日向さんの浮かない顔は見たくない。
これが何かの切っ掛けになればいいが……。
「グッドタイミング! 小日向さん、今日のレッスンはお休みだよ」
「え?」
「少し予定が出来てね。今から喫茶店に行くよ」
「は、はい」
訝しげに首を傾ける彼女を連れて、待ち合わせ場所へと向かう。
そう言えば、お弟子さんの名前聞いてなかったな。名前も知らない相手を信頼すると言うのも妙な話だけど、
今の俺達は藁にも縋りたい気持ちだった。
どうかこの出会いが現状を打破してくれますように。
237 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:30:56.09 ID:yeaMvKYi0
「あっ、こっちです!」
喫茶店に入った俺たちを、線の細い声が呼びかける。
装飾が眩しいクリスマスツリーの近くの席に、彼は座っていた。
電話で聞いた声は若く感じたけど、会ってみると意外と歳を食っているみたいだ。30前ぐらいだろうか?
「すみません、お忙しい中お呼びしちゃって。あっ、何か頼みますか?」
メニューを開いてこちらに渡す。時期が時期だけに、内装からメニューまでクリスマス一色に染まっている。
俺はいつものようにコーヒーを、小日向さんはミルクティーを注文する。
お弟子さんは俺たちが来る前に飲み終わったのか、テーブルには空のグラスとお皿だけ置かれていた。
「えっと、プロデューサー、こちらの方は?」
「タケダさんのお弟子さんだそうだ」
「初めまして。で良いのかな?」
名も知らぬお弟子さんは、嫌味のない爽やかな笑顔で答える。
238 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:33:38.89 ID:Jy4Yy5L30
「えっと。実はオーディションも見ていたんだけど、気づいてませんよね?」
「へ? あの場にいたんですか?」
「はい。でもまぁ、僕余り目立つタイプじゃないですから。小日向さんも気付いていなかったでしょ?」
「は、はい。そ、そんな余裕ありませんでしたから。その、えっと。申し訳ないです」
「ふふっ、そう固くならなくて結構ですよ。弟子なんて大層なこと言っても、僕が一方的に教えて貰ってるだけですし」
「あのー、そろそろ用件を教えてくれたらありがたいんですけど」
「そうですね、そのためにお呼びしたんですし。さてと、今回お呼びした理由は、こちらを聞いて欲しかったんです」
「iPodですか?」
そう言って彼は使い古されたiPodを取り出す。長い間使っていたのか、表面は若干剥げている。
「えっと、実は僕、作曲活動もしているんです。と言っても、この曲が初めてなんですが」
「作曲?」
「はい。ですが曲を作ったところで、誰かが歌わないと形になりません。僕が歌うわけにもいきませんし、ピッタリな子いないかなって探していたんです」
「そうしたら、小日向さん。貴女に会えました」
239 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:40:15.29 ID:VAeBXtes0
「わ、私、ですか!?」
お弟子さんは驚く小日向さんをよそに続ける。
「そういう事です。先日のオーディションで確信しました。彼女こそ、この曲にふさわしい、命を与えて一緒に成長できると。本当に驚きましたよ」
正直言うと、願ってもなかった展開だ。ちょうど新曲で彼女のやる気を上げようと考えていた時に、お弟子さんの提案。
渡りに船だ。
「で、ですが……、わ、私! この前のオーディションは散々でした」
「確かに、先日のオーディション。小日向さんのパフォーマンスは、お世辞にも良かったと言えません。緊張していた以外にも要因はあったのでしょうが……。それは本人が一番理解していると思います」
「ですが、この曲はそんな彼女にこそ歌ってほしいんです。恥ずかしがりながらも、どこまでもひたむきな小日向さんにこそ、歌う資格があるんです」
お弟子さんは活き活きとした顔で語る。
「すみません、イヤホン一つしかないんで、共有してくれたら有り難いんですが」
「え、えええ!?」
喫茶店に流れるクリスマスソングをかき消すぐらい響いた、小日向さんの悲鳴。
なんだなんだと視線を一身に浴びて、彼女は赤くなる。
お弟子さんはそれを達観したように笑っていた。
240 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:42:39.39 ID:VAeBXtes0
「あのね、順番に聞いたらいいんじゃないの? 小日向さん、先に聞きなよ」
「そ、そうですね! でも……、一緒に聞きませんか?」
「は?」
「えっと、その方が時間も短縮できますし……」
ちょっと言っている意味が分かりません。
「と、とにかく! 聞いてみましょう」
「なんだかなぁ」
一組のイヤホンを2人で共有。なんだこのカップル的な行動は。
こうすることで自然と距離が近くなり、小日向さんはまた赤くなっている。役得、なのか?
「それじゃあ再生しますね。これ、歌詞カードです」
イヤホンから可愛らしいイントロが流れてくる。歌詞カードを見ると、タイトルは『Naked Romance』と書かれている。
Naked……、どういう意味だっけ?
「Naked Romance――。訳するなら、ありのままの恋心ってとこでしょうか」
「ありのままの恋心ですか……」
241 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:45:01.48 ID:VAeBXtes0
「わぁ……」
小日向さんも曲に夢中なのか、リズムを取りながら声にならないため息を吐く。
彼の言うとおり、この曲と小日向さんの親和性は高いだろう。
恥ずかしがり屋だけど、秘めた気持ちに気付いて欲しい、か。聞けば聞くほど、彼女のためにある曲だと思えてきた。
「えーっと、どうでしょうか? 自分で言うのもなんですけど、結構いい感じにできていると思うんですけど」
お弟子さんはそう言うと、恥ずかしそうに笑っていた。
「そうですね。貴方の言うとおり、小日向さんにピッタリの曲だ。小日向さんはどう思う?」
「え、えっと! す、す素敵な曲だなぁと思いました」
「気に入って貰えて何よりです。どうでしょうか? この曲を、彼女の武器にするのは」
「アイドルを創る要素は歌唱、ダンス、ビジュアルの3つのパフォーマンスをするその人自身、時に可愛く、時に格好よく着飾る衣装、そして歌の3つです」
「この歌は、小日向さんを昇華させる、夢を叶える力がある。そう信じています」
自信たっぷりに言うお弟子さんが、とても眩しく見えた。
242 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:45:50.70 ID:VAeBXtes0
「え、えっと……。私……」
「小日向さんは、歌いたいかい? Naked Romanceを、自分のものにしたいかい?」
「……たいです」
「え?」
「したいです! は、恥ずかしい歌詞ですけど! 私歌いたいんです!!」
喫茶店中に彼女の想いが響く。お客さんたちはなんだなんだと見ていたが、
ノリの良さそうな高校生が拍手をし出すと、周囲もそれに釣られて拍手を始めた。
「は、恥ずかしいよ……」
「人気者ですね。小日向さん、そう言ってくれて嬉しいです。どうかこの曲を、君の歌声に乗せて人々の心に届けてくださいね」
「は、はい! わ、私やってみます!」
彼女の眼は、さっきまでのそれと違った。今の彼女なら、アメリカだって走って縦断出来るだろう。
243 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:47:38.84 ID:VAeBXtes0
「あの、プロデューサー。色々とご迷惑をおかけしました。もう私は、逃げたりなんかしませんから」
「瞳子さんがもう一度ステージに上りたいって思えるように、頑張りたいんです」
お弟子さんが帰った後、彼女はそう俺に言った。
「そうか、そうだよな。服部さんも小日向さんの頑張りを見たら、希望を持ってくれるかもしれないしな」
「はい。だから……、私ハローホイッスルに合格したいんです。この曲で、リベンジを果たしたいんです」
「それならば、もっと厳しい毎日が君を待っているよ。それでも、頑張るかい?」
「はい!」
オドオドせずに、はっきりと答える。決意は固いようだ。
「そうか。なら、この仕事を受けよう」
「この仕事ってなんですか?」
「コホン! 12月16日、君の誕生日だけど仕事が入ったんだ」
244 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:51:38.53 ID:VAeBXtes0
「仕事ですか?」
「そう。気になるかい?」
「ええ……、まぁ」
昨日までの府抜けた彼女への罰を与えるように、わざとらしくじらしてみる。CMでも挟んでやろうか。
「それがビックリするよ? なんと、熊本だ」
「熊本? はっ、まさか」
どうやら彼女も感付いたたようだ。12月16日、その日――。
「そう、そのまさか。○○高校クリスマスパーティー、そこで小日向さんとNaked Romanceの初お披露目としよう」
「……! はい!」
驚く素振りを見せるも、すぐに彼女は芯の通った返事をする。
しかし、こんな形でクリスマスパーティーに参加することになるとは。
「人生、ホント何が起こるか分かったもんじゃないな」
「何か言いました?」
「ううん何でもないよ」
245 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/30(水) 23:55:52.10 ID:VAeBXtes0
――
「新曲、クリスマスパーティー……。色々あり過ぎたなぁ」
暖かなベッドの中、今日までのことを思い返してみる。
あのオーディションから数日間、私のモチベーションは劇的に下がっていた。
彼女のせいにするのは卑怯だけど、夢破れた瞳子さんの影がいつも付きまとっていたんだ。
情けない。今の私がいたらそう思ったことだろう。
「美穂ちゃん……」
活動中だけじゃなく、学校でも私はどんよりとしており、卯月ちゃんもそんな私を見て、悲しそうな顔をしていた。
「美穂ちゃん、悩みがあるなら聞くよ? あんまり参考にならないかもしれないけどさ、私これでも先輩アイドルですから」
「卯月ちゃん」
私を刺激しないように、無理をして明るく振る舞っているように見えてしまい、
瞳子さんの隣にいた彼の姿と被ってしまう。
246 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 00:00:25.85 ID:VfdonjwP0
「卯月ちゃん……。卯月ちゃんは、夢がなくなっちゃうって考えたことある?」
なんて意地悪な質問だろう。そんなこと、私だって考えたくないのに。
現実なんか、見たくないのに――。
「へ? 夢がなくなる? うーん、あんまり考えたくないかなぁ。私の好きな歌の歌詞にさ、こんなのが有るんだ。夢は叶うもの、私信じてるってね」
「その歌、私も知ってるよ」
カラオケで友達が歌っているの聞いたことがあるな。前のオーディションでも誰かが歌ってたっけ。
「私たちさ、夢はでかく見てるんだ。言ったら笑われちゃうかもしれないけど、逃げずに夢を見ていたいんだ」
「それは凛ちゃんと未央ちゃんも一緒だと思う。だから今日まで頑張ってこれた。地獄の特訓も乗り越えたし、ファーストホイッスルにも合格した」
「信じていれば叶う、って都合の良い話はないかもしれないけど、信じなくちゃ叶う物も叶わないんだよ。多分ね」
「信じる……」
「ごめんね、もっとうまく話せたら、美穂ちゃんの悩みをこうカキーン! って打ち返せるんだけどなぁ」
目に見え無いバットを持つと、その場でバッターの真似をする。
「今のじゃ三振かなぁ……」
247 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 00:04:05.56 ID:VfdonjwP0
「でも、これは美穂ちゃんが乗り越えないと意味がないと思うんだ。私は美穂ちゃんの悩みを100%理解できないし、それは逆も同じじゃないかな。きっと私の悩みも、100%理解できないと思う」
「だからこそ、分かり合おうとするんだろうね。私は美穂ちゃんの力になれなくて、もどかしいよ」
「ううん。そんなことないよ」
「そう言ってくれると、私も救われるかな? あっ、そろそろ戻らないと! また悩みがあれば、お姉さんが相談に乗るよ! それじゃ!」
そう言って笑う彼女に、少しだけ救われた気がした。だけどすぐに、後ろ向きな私が出てくる。
それは卯月ちゃんだからだよ。
卯月ちゃんは、才能が有るから出来るんだよ。
夢を叶えることが出来たんだよ。
私には、無理なんだ――。
「ちがうのに……」
声にならない嫌な感情が私の中で犇めき合う。
こんなの、嫌なのに――。
248 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 00:05:58.26 ID:VfdonjwP0
「グッドタイミング! 小日向さん、今日のレッスンはお休みだよ」
「へ?」
その日、事務所で待っていたのはレッスンお休みのお知らせ。
ただその割には、プロデューサーが嬉しそうに見えたのが気になった。
「えっと、何かあるんですか?」
「さぁ? 喫茶店に来るようにしか言われてないしね。俺もよく分からない」
クリスマス気分で浮かれる街の中、彼はそう言った。隠し事をしているって感じじゃなさそうなので、
本当に何も知らないのだろう。
「でも、悪くない話……らしいよ?」
「え? それどういう意味ですか?」
「着いてからのお楽しみかな」
結局何一つ理解できないまま、私たちは喫茶店へと入る。
私たちを呼び出したのは、癖っ毛ときれいな肌が特徴的な、眼鏡の男の人だった。
見た感じプロデューサーよりも年下に見えたけど、こう見えて意外と歳を食っているのかも。
249 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 00:09:47.79 ID:VfdonjwP0
話によると彼は先のオーディションの審査員タケダさんのお弟子さんらしく、この前も見に来ていたらしい。
当然私にその場に誰がいたかなんて憶える余裕なんてなく、彼とは初対面だ。
「貴女に歌ってほしいんです」
彼が呼んだ理由は至ってシンプル。私に曲を提供するとのことだった。
CDデビューについて胸を躍らせていてのは事実だけど、先のオーディション以降、
そんなことを考えている場合でもなかったから、彼の申し出には正直面食らった。
自分で言うのもあれけど、あの結果を見て大事な楽曲を提供したいと思うだろうか?
私なら、間違いなく与えないだろう。
だけど彼は、私と共に成長して欲しいと言ってくれた。歌が成長するというのは、
比喩表現だと思うけど、いまいち真意がつかめなかった。
だけど曲を聴いたとき、その意味が分かった気がした。
Naked Romance――。
ありのままの恋心、と彼は訳した。
気付いて欲しいけど、気づいて欲しくない。
そんなアンビバレンスな恋心を綴ったこの曲は、これでもかと言うぐらい恥ずかしくも甘い歌詞のオンパレードで、
男性ながらそんな歌詞を考えるお弟子さんの頭の中を覗いてみたいと思ってしまったぐらいだ。
250 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 00:20:56.23 ID:VfdonjwP0
だけど、最初に聞いて歌詞を見た時、不思議と私の中に吸い込まれていくような感覚があった。
プロデューサーは私を初めて見た時、電流が流れたと言っていた。
なるほど、今ならなんとなくその言葉の意味が分かる気がする。
どうしてか分からない、この曲と私に重なる部分があったのだろうか?
恥ずかしがり屋な女の子の恋。私に置き換えてみると、相手は誰だろう?
考えただけで、恥ずかしくなってくる。
それでも、どれだけはにかんでしまっても、私はこの曲を歌いたいと思うようになっていた。
「私、歌いたいんです!」
ここまで強く答えることが出来たのも、この曲の魔法だろう。お弟子さんは魔法使いか何かだろうか。
この曲の魔法なら、きっと瞳子さんに希望を与えることが出来る。そんな気もしていた。
そして12月16日、私の誕生日。プロデューサーは熊本での母校のクリスマスパーティーの仕事を持ってきた。
Naked Romanceもその時にお披露目となるだろう。
プロデューサーは頑張ろうと言ってくれた。昨日までの私とさよならしないと、先に進めないよね。
254 : 8話 12月16日 ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 15:51:35.30 ID:uD2rPRIb0
0100-0424-0913
「あっ、もしもし。卯月ちゃん?」
「美穂ちゃん。どうしたの、こんな時間に?」
「ううん。今日はごめんね。少し、気が立ってて」
「気にしなくていいよ。美穂ちゃんだってそういう日が有るんだろうし。悩み、解決した?」
「まだ、分からないけど……。多分、上手くいくと思う」
「ふふっ、なら私の話も無駄にならなかったって事かな」
「うん。ありがとう、卯月ちゃん」
「どういたしまして」
「あっ、そうそう。話変わるけどさ……」
その後、他愛のない話を続ける。卯月ちゃんの趣味は長電話だ。
私たちは夜も遅いと言うのに、くだらない話で盛り上がった。
美味しいスイーツの店、クラスの○○君に彼女が出来た。どんな話題でも、彼女は楽しそうに話してくれる。
やっぱり持つべきものは、友達なんだろうか。彼女と話すことで、私の気持ちは軽くなっていく気がした。
255 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 15:54:59.55 ID:uD2rPRIb0
「ふぅ、久しぶりだな熊本!」
「こ、声が大きいです……」
12月15日。私たちは熊本に帰ってきていた。空港前でバスに乗り、数回乗り継いで学校へと向かう。
2ヶ月ぐらいで大きく町が変わるなんてことは無く、見慣れた光景が私をノスタルジックな気分にさせる。
「先生!」
「まぁ小日向さん! お久しぶりね」
「お久し振りです、先生」
「あら、そう言えば君がプロデューサーだったんだっけ。ずいぶんと様になって来たじゃない」
「ありがとうございます」
学校に付いた私たちを待ってくれていたのは、元担任の先生。忙しいのか、心なしか前に比べて痩せているように感じた。
プロデューサーとも親しげに話す先生を見て、彼の母校もここだったことを思い出す。
「でも私の教え子2人とこういった形で再会するなんてね。変な感じ」
「はは……。先生の方は元気ですか?」
「そうでもないわね。最近は入試やセンターも近いから、教師も忙しいのよ」
256 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 15:56:15.38 ID:uD2rPRIb0
師走ってやつだろうか。そう言えば、私は4月になればどうするのだろう。
アイドルになってから大学進学について、特に考えてなかったけど……。
「あっ、美穂ちゃん! おっひさー!!」
「会いたかったよー!」
「! みんな! 久しぶり!!」
職員室の前で話していると、クラスメイトだった皆が駆け寄ってくる。
「あっ、美穂ちゃんのプロデューサーさんですね! 私たち、小日向美穂応援団です!」
「へ? 小日向美穂応援団? 小日向さん、そうなの?」
「いや、初耳です……」
ポカンとしている私たちをよそに、彼女たちは続ける。
「そうですよ! 私たち、東京で頑張っている小日向さんを徹底的に応援する会なんですよ」
「はぁ、それはどうも……」
ご丁寧に、名刺付だ。プロデューサーはおずおずと自分の名刺を取り出し、交換する。
257 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 15:57:33.70 ID:uD2rPRIb0
「この子たち、生徒会や先生方に直談判したのよ。今年のクリスマスパーティー、小日向さんをゲストとして呼んでほしいって」
「そうだったんですか……」
「そうそう! だからさ、今から行くよ!」
「へ? 行くってどこに」
「被服室! 被服研究会が、今回のクリパのために小日向さん専用コスチュームを作ってくれたんだから、着てみようよ!」
「え、ええええ!? たた、助けてプロデューサー!!」
私は応援団の皆に担がれると、そのまま被服室まで連れて行かれる。プロデューサーに目で助けを求めるも、
「あ、あはは」
「そ、そんな~」
情けなく笑って手を振っていた。
「さてと! 美穂ちゃん、これが今回のために用意した衣装だよ」
被服室に着くなり、彼女たちは淡いピンク色の服を見せる。
258 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 16:00:47.62 ID:uD2rPRIb0
「そう? でも似合うと思うよ?」
この服、ミニスカサンタだよね?
「こ、これを着て明日出る、の? スカートがその……」
「うん。そのつもりで作ったし」
「ほ、他になかったの? い、今からならまだ事務所に取りに」
「問答無用! つべこべ言わずに着替えなさーい!」
「きゃあああ!」
被服室に響く悲鳴。私は暴徒と化した応援団たちに取り押さえられ、強引にサンタ服を着させられる。
「ふっふっふ、準備できたし、プロデューサーさんも呼んでこないとね」
「安心しなよ、美穂ちゃん。絶対プロデューサーさんもこれにはイチコロだよ!」
259 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 16:03:53.14 ID:bIjtFrhz0
衣装は学校で用意してくれるとは聞いていたけど、こんな衣装って聞いていない。
もし事前に知っていたら、私は他の衣装を持ってきただろう。
きっと、私にこの服は似合わない。なんとなく、そんな気がする。
「イ、イチコロって……」
「あっ、プロデューサーさーん! こっちですよ、こっち! 早くしないと美穂ちゃんのあられもない姿が全世界に発信されちゃいますよー!」
「ええ!?」
廊下の方で友達がとんでもないことを言っている。もちろん嘘だと思うけど、
「小日向さん!! 大丈夫!?」
「プロデューサー!」
彼は必死な表情でドアを開けてくれた。それが何となく嬉しくて、表情がほころんでしまう。
「って小日向さん? そ、その服は……」
「へ? え、あ、あの! こ、これはえーっと……」
260 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 16:08:03.58 ID:BM+hqL9K0
「プ、プ、プロデューサー! 着替えましたけど、へ、変じゃないですか!?」
「あのっ、こっ、こんな可愛い格好、わ、わたしなんかが着ちゃっていいんですか?」
「似合います、か? あぁぁダメっ、恥ずかしい……」
プロデューサーは目のやり場に困ったように頬を掻く。私を横目で見て、すぐに逸らすと、
「あー、うん。似合ってるよ、凄くね」
「そう、ですか?」
「うん。可愛いと、思うな」
そうはにかんで笑う。恥ずかしいのは私だけじゃなかった。赤くなる彼に少しだけ安心する。
「それじゃあこれで準備は終わりかな。あのー、リハとかってします?」
「リハーサルか……。出来るのかな?」
「まぁ講堂も準備出来てるでしょうし。言ってくれたら捌けさせますよ?」
「そうだね、じゃあお言葉に甘えようか。小日向さん、曲、準備できてる?」
「は、はい! ばっちしです!」
261 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 16:09:08.25 ID:RNt+7avK0
とはいえ、実は新曲を人前で発表したことがない。
トレーナーさんとプロデューサーは見てくれていたけど、こうやって舞台に立って歌うのは初めてだ。
「そうか。それじゃあ講堂に行こうか」
「はい」
「それじゃあごゆっくり~」
「あれ? みんなは来ないの?」
「まだ一般流通していない新曲なんでしょ? だから私たちは明日聞きたいの」
「そっ! 美穂ちゃんが最初に聞かすべき相手は、この人だろうしね」
「お、俺?」
友達たちに指差され、プロデューサーはキョトンとする。
「小日向さん? いつも聞いてるっちゃ聞いてるんだけど……」
困惑しきったプロデューサーは、私の顔を気恥ずかしそうに見ている。
だけど私の方が、恥ずかしい思いをしていたわけで。
262 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/01/31(木) 16:13:54.85 ID:g260FkSM0
「え、えっと。ス、ステージで歌うのは初めてです! だから、き、聞いて欲しいんです!」
「プ、プロデューサーに、一番最初に聞いて欲しいんです」
この時の私は、ファーストホイッスルのオーディション以上に緊張していた。
聞いてくださいなんて珍しいセリフじゃない。
それなのに、私は自分の持てる勇気全てを振り絞って言葉を紡いでいた。
1番最初にファンになってくれた彼に、誰よりも先に聞いてもらいたかったから。
「そう? それじゃあ観客第一号になっちゃおうかな」
「は、はい。よろしくお願いします」
「んじゃ講堂の連中捌けさせますね。向かっといてくださいな」
「了解っと。行くか、小日向さん」
そんな私の葛藤を知ってか知らずか、プロデューサーはいつも通り笑って、講堂へと足を向ける。
私はその後ろを、カルガモの子供みたいについて行った。
267 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:07:22.27 ID:wX4Wgdch0
講堂への廊下は、明日の準備に追われているのだろうか、忙しそうに生徒たちが行き来している。
せわしなさの余り、恥ずかしい衣装を着ている私のことなんか眼中にないようだ。
うん、その方がいい。
「クリスマスパーティーか、懐かしいな」
プロデューサーは廊下の窓に飾り付けられた雪の結晶を見て呟く。
「やっぱりプロデューサーも楽しみにしていたんですか?」
「あー、それなんだけどさ。実は俺、参加したことないんだ」
「え?」
「何故かさ、3年ともインフルエンザにかかったりして体調崩して、参加できなかったんだよね。だから俺、準備してた記憶しかないんだ」
「そ、そうだったんですか。お気の毒、ですね」
初耳だ。それが本当なら、彼はこの高校での最大の楽しみを知ることなく卒業していったのだろうか。
「でもこうやってまた来れるなんてね。俺、結構楽しみにしているんだ。学生の頃に出来なかったことが、今になってチャンスがやって来た。これも小日向さんのおかげかな?」
268 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:13:50.65 ID:dyaKJ5Ug0
「いえ、そんな……」
そう言う彼の表情はどことなく嬉しそうで、見ているこっちまで明日が楽しみになって来た。
「でも明日どうすっかね? 出たことないから、クリスマスパーティーの楽しみ方が分からないんだな、これが」
「後夜祭とかあるんでしょ? オクラホマミキサー的なの」
「えっと、例年通りであればあると思いますけど」
クリスマスパーティーには、後夜祭と言うのがある。そう銘打っているけど、舞踏会と呼んだ方が正しいかもしれない。
男女同士が組んで、華やかな音楽に合わせて舞い踊る。イメージするなら、魔法学校のダンスパーティー。
そんな映画の世界のような光景が、この学校では行われているのだ。
実際は木造の講堂なので、いまいちムードにかける気がしないでもないが、
それでもこの舞踏会こそがクリスマスパーティーの本番だ! と語る人もいるぐらいの盛り上がりを見せる。
気になる男女が、手を取り合い踊る。この高校における生活で、一番ロマンティックな時間だろう。
去年までの私はと言うと、もちろんそんな恥ずかしいことが出来るわけがなく、友達と講堂の隅っこに座ってお喋りをしていた。
言ってしまえば、クリスマスパーティーを100%楽しめたわけじゃない。
尤も、特に気になる相手もいなかったので、100%楽しむ必要もなかったけど。
269 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:17:45.63 ID:dyaKJ5Ug0
「後夜祭にも嫌な思い出があってさ。当時好きだった子を誘おうとしたら、その日に俺が倒れちゃって」
「風邪が治って学校に行ったら、なんと! その子は友人と付き合い始めたんだ」
「なんでも、一緒に踊ってから気になりだしたんだと。あん時はショックのあまり寝込んでしまったな」
「そ、それは可愛そうです」
「それもまぁ、いい思い出なのかね。今頃皆何しているのかなぁ」
懐かしそうに漏らす彼は、寂しそうに目を細めていた。遠く散らばっていった友達のことを思い返しているのだろうか。
「あ、あの! だったら」
「だったら?」
だったら明日、一緒に踊りませんか? 私と一緒に、思い出を作りませんか?
「い、いえ。何でもないです。すみません……」
そう言えたら良かったのに。ホンの少しの勇気を持てたら良かったのに。
「? 変な小日向さん」
やっぱり私は、まだまだ変われていない。
270 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:24:32.46 ID:wX4Wgdch0
「わぁ……」
「驚いた、こりゃ結構本格的だな……」
いつもは校長先生の味気ないお話をしているステージの上は、クリスマス仕様に飾り付けられて、綺麗に輝いていた。
去年一昨年も凄かったけど、今年はこれまで以上に気合が入っているようにも感じた。
私は全校生徒が見ている前で歌うのだ。
この装飾も私のためだけに用意されたように思えて、不思議と嬉しくなる。
「しかし寒いな……。小日向さん、その服寒くない? コート貸すよ。気が利かなくてごめん」
そう言って彼はコートを貸してくれる。さっきまで彼が着ていたこともあって、ほんのりと暖かさが残っている。
不思議と不快に感じない。むしろ心地良いぐらいだ。変態みたいに聞こえるかもしれないけど、私はそう感じた。
「うー、さぶっ」
今度はプロデューサーが寒そうにする。
それなりの歴史がある講堂には、暖房装置はついておらず、冬の集会にはカイロが欠かせなかった。
今着ているフェアリーサンタ(友人命名)は肌の露出も多く、正直言うと寒い。
コートを取ってしまえば、余計冷えてしまうだろう。
271 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:36:03.93 ID:wX4Wgdch0
「プロデューサー、コート着ますか?」
「え? いいよ、小日向さんが風邪ひくよりかはマシだよ。さびっ」
身体を震わせている人に言われても説得力が無い。私は彼にコートを返す。
彼の温もりが無くなっちゃうのが少しだけ勿体ないけど、風邪をひかれるよりマシだ。
「えっと、返します。私、プロデューサーにも明日元気で来て欲しいですし。寒いですけど、踊ってたら温まると思います」
歌って踊るというのは、テレビで見て感じる以上にハードだ。
特に明日は3曲続けて披露することになっている。
全部終わったころには汗で体が濡れていることだろう。
「そっか。でも風邪ひかないように気を付けないとな。それじゃあ小日向さん、やってみようか」
「は、はい!」
煌びやかなステージに上がる。表彰状にてんで縁の無かった私が、アイドルとして上ることになるなんて。
本当に、何が起こるか分からない。
講堂には私と彼しかいなく、それが余計広く感じさせた。明日には一杯の人が集まっているんだ。
考えただけで心臓は早くなるけど、今はリハーサル。緊張するなら、今のうちにしてしまえ。
272 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:45:20.64 ID:wX4Wgdch0
プロデューサーが音楽をかける。最初に流れてきたのは定番のクリスマスソング。
この時期になると、どこもかしこもこぞって流しているため、
名前を知らない人はいても、このメロディを知らない人はいないだろう。
次に流れてきたのは、先のオーディションでも披露した曲。今回披露する3曲の中では一番馴染んでいる曲だ。
目の前にいるのが彼だけならば、私はこれだけ楽しく歌えるのに。
そして最後に、Naked Romance。
初のお披露目は、いつも私のそばにいてくれた彼のためだけに。
この曲に、ありったけの心を込めて。
「……」
「え、えっと。どう、でしたか?」
歌い終わり、恐る恐る彼の顔を見る。いつもと同じく、どこか柔らかな笑みを浮かべたまま、口を開いた。
「うん、良かったよ。掛け値なしにね」
その言葉だけで、私の緊張は一瞬にして緩んだ。終わった後に緩んでも、仕方ないけど。
273 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:47:11.90 ID:wX4Wgdch0
「ほ、本当ですか?」
「嘘なんかついても仕方ないだろ? やっぱり、彼の言っていた通りだ。この曲は、小日向さんに歌われるために生まれたんだと思う」
「言い過ぎです……」
「そうかな? でも俺はそう思ったよ。俺以外の人が聞いても、同じ感想を持つと思う」
彼の褒め文句は少しオーバーなぐらいに感じたけど、妙に納得できた。
実際歌ってみると他の曲よりも入り込むことができたからだ。
老若男女問わず親しめる、シンプルな曲調と口遊みやすいキュートな歌詞がその秘訣だろう。
歌に命を与えて欲しい。
そうお弟子さんは言っていたけど、私に出来たのだろうか?
「俺はさ、こう思うんだ。誰にでも一曲、ぴったりと合う運命の曲が有るんだって」
「運命の曲?」
「そっ。その曲に出会えるかどうかは、本当に運次第でさ。もしかしたらアイドルなんてものは、その運命の一曲を探すために歌い続けるんじゃないかな?」
274 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:54:37.11 ID:wX4Wgdch0
プロデューサーは私にコートを着せながら、ロマンチックなことを言う。
良いこと言っただろ? と言わんばかりの目が可笑しくて、私は彼に乗ってあげることにする。
「それじゃあ私は、目標を達成しちゃいましたね。引退、しちゃおっかな?」
出来る限り、悪戯っぽく笑ってやる。
そうすれば、彼は慌てたような顔をするから。
「うっ、そう言われたら反論できないな……」
「ふふふっ、冗談です」
「心臓に悪いこと言わないで……」
「いつものお返しです」
冷たい空気が張り詰める講堂で、2人の笑い声が響いた。その後、最終調整として音響の確認をしたり、MCの練習をしたりして時間を過ごす。
その間、生徒たちも気を利かしているのか、その間誰も入ってこなかった。
講堂の外は時間が止まっているのかと思うぐらいに静かで、私たちは集中して作業を終えることが出来た。
275 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 01:58:38.17 ID:3sA8doxW0
一通り終わらせ、プロデューサーが買ってきた紅茶を飲む。うん、暖かい。
隣の彼はやっぱりと言うべきか、コーヒーを飲んでいる。そんなに飲んでいると、
カフェイン中毒になってしまわないか心配になってくる。
「さてと。明日はお祭りみたいなもんだ。クオリティうんぬんよりも、全力で楽しんで欲しいな。高校生活最後のお祭りだからね。俺も舞台裏から見ているから」
「はい。でも」
「でも?」
「私は、プロデューサーにも楽しんで欲しいんです」
「俺も?」
「はい。作れなかった想い出を、作って下さい」
「想い出、か。その時と変わらずいるのって、先生しかいないけどね」
「大丈夫です、私がいますから」
「そうだね」
やることがなくなった私たちは、明日に向けて帰ることにする。
276 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:02:33.60 ID:WInxdYHZ0
講堂を出た時、ドアに友達の悪戯か、『ただ今男女逢引中! 入ったらシメる♪』だなんて物騒な張り紙が貼られていたことに気付いた。
この丸っこい字は、彼女だな。
「はぁ、男女逢引中って誤解を生む言い方を。2人っきりにさせたのあの子らじゃん」
「そ、そうですね……」
男女という言葉に、少しだけドキリとする。
普段はそうでもないのに、こうやって意識させられると、彼の顔をまっすぐに見れなくなってしまうのだ。
そんな私と対照的に、プロデューサーは興味なさそうに溜息をついている。それはそれで悲しかったり。
「さてと、先生たちに挨拶して帰るかな」
「はい。そ、そうだ。プロデューサー」
「ん?」
「プロデューサーさえよければですけど! 今日、うちで晩御飯食べていきませんか?」
「良いの?」
「多分お父さんとお母さんも喜びますから」
「んじゃお邪魔しちゃおうかな」
「やった! それじゃあ帰りましょう!」
277 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:17:00.74 ID:m3a2f3Jc0
お母さんにプロデューサーも来ることを伝えると、『大丈夫』と言う3文字がすぐに帰って来た。
「そうだ。返信っと」
私はあることを思いついて、お母さんに返信する。1分もせずに『りょーかい♪』と気楽な返事が返って来た。
「ふふっ」
「ん? どうかした?」
「秘密です!」
「秘密? なら聞けないか」
数時間後の彼の反応が、恥ずかしくも楽しみだ。
職員室に向かって先生に挨拶した後、私たちはバスに揺られて家へと向かう。
「んん……」
「プロデューサー。寝ちゃいましたか」
疲れているのか、隣に座る彼は幸せそうに寝息を立てて眠っている。
無防備に寝顔をさらしていて、ちょっぴり可愛い。
278 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:21:57.61 ID:m3a2f3Jc0
「赤ちゃんみたい」
バスはゆりかごで、イヤホンから漏れる歌は子守歌。今の彼はちょっとやそっとで起きそうにない。
するとどうだろう、不意に悪戯心が湧いてきて、彼の寝顔を写メってやりたいと思うようになった。
「ふふっ」
パシャリ。彼はシャッター音にも気付いていないようで、一向に起きる気配がない。もう一度――。
「きゃっ」
バスが急に止まり、車内は大きく揺れる。どうやら、バスの前にボールが転がって来たらしい。
「あ、あのー。プロデューサー?」
「んにゃ……」
「い、いつかの逆、なのかな?」
揺れた反動で、彼は頭を私の方に寄せる。ちょっとした衝撃はあったはずだけど、
それでも彼は夢の中。寝つきが良いったらありゃしない。
279 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:25:37.47 ID:wX4Wgdch0
「う~、これはこれで恥ずかしいよ」
一番後ろの席だから、見られることは無いにせよ恥ずかしいシチュエーションに違いはない。
私は目的地に着くまで、彼の重みを感じながら過ごすことになった。
「あれ? 俺寝てた?」
「はい、すっごく気持ちよさそうに」
バス停について目を覚ます。バスの運転手さんは出るなら早く出ろと言わんばかりにこっちを見ているので、
寝ぼけているプロデューサーを押しながら、バスを降りる。
「いやぁ、すまない。ここんとこ忙しくて、碌に寝る時間がなくてさ。ふぁーあ」
「いえ、別に気にしてませんから」
「そう?」
「はい。別にプロデューサーが私の肩に頭を寄せて眠っていたことなんて、気にもしていませんよ?」
「うっ、マジっすか」
キリっと決めた顔よりも、困ってはにかんだ表情の方が好きだ。
だから彼を困らせちゃうことを言うことも好きになって来た。
私も少し、彼を困らせる術をマスターしてきたと思う。
いつまでも、気弱なままの私と思ったら大間違いですよ?
280 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:27:32.26 ID:m4aG+cr80
――
「プロデューサー君! 久しぶりだね」
「はい、こちらこそ挨拶に向かえず申し訳ございません」
「いやいや、気にすることは無いよ。ささ、入りたまえ」
「それじゃあ失礼します」
「ただいまー」
小日向家の皆様はあの日と変わらず、俺を暖かく迎え入れてくれる。
「ねぇ、プロデューサー君。美穂とはどう? 上手くいってる?」
「うーん、どうでしょうかね……」
俺は御袋さんの質問にはっきりと答えることが出来なかった。
つい最近まで、俺と彼女の足並みはバラバラで、このままアイドル活動を継続することも難しいんじゃないか?
と考えていたぐらいだ。
新曲やクリスマスパーティーの準備を経て、少しずつ回復して来たと言っても、
正直なところ、まだ心の中にはしこりがあった。
281 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:33:09.81 ID:m4aG+cr80
「私も美穂の年頃は難しかったからね。まぁ、あの子は寝たら嫌なことも忘れる子だから心配しなくてもいいわよ」
「そう言ってもらえると気が楽になりますね」
勿論そんなにのんきな子じゃないのは知っている。だけど今は、御袋さんの言葉を信じたいと思った。
「ねえ、お母さん」
「うん?」
小日向さんは何やら御袋さんに耳打ちしている。話を頷きながら聞いていた御袋さんは次第ににやにやと笑いだす。
嫌な予感しかしない。心なしか、わが社の事務員様を思い出してしまった。
彼女も笑顔で、碌でもないことを言う人種だった。帰る前にお土産買っとかないと。何が好きかな……。
「悪いんだけど、お父さんとプロデューサー君はお風呂に入っててもらえるかしら?」
「へ? お風呂ですか? お父さんと?」
思いがけない申し出に面食らう。
「そっ。家のはそこまで広くないから、歩いたとこに銭湯あるの知ってるでしょ? 2人で行ってきてくれる?」
282 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:34:59.29 ID:m4aG+cr80
「は、はぁ……」
「裸の付き合いと行こうではないか、プロデューサー君」
親父さんに促されるように、俺は小日向邸を出る。タオルも何も持っていないんだけどなぁ。
何年か振りに入った銭湯は、何一つ変わっておらず、在りし日にタイムスリップしたかのようにも感じた。
俺と親父さんは隣並んで湯船につかっていた。こうやって誰かと一緒に風呂に入るのも、いつ以来か。
高校の修学旅行が最後だったかな。
「ところで、プロデューサー君」
「はい、何でしょうか?」
「美穂は、アイドルとしてやっていけそうかね?」
湯気の立ちこめる中、親父さんは真剣な表情で尋ねる。
娘のことが心配になるのも仕方ない。
ランクの低さゆえに目立った露出も決して多いと言えないし、目に見える彼女の活動を見ていないのだろう。
283 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:39:54.62 ID:BwdWwPTC0
「小日向さんは、そうですね。きっかけを掴むことが出来たと思います」
「きっかけ? 何かな、それは」
「曲です。彼女が歌うために生まれたような、曲に出会えたんです。それはとても幸運なことだと思うんです」
怪我の功名だが、Naked Romanceとの出会いは、俺たちにとって大きな転機になるのは間違いないだろう。
あの曲にはそれだけのパワーがあるし、小日向さんの魅力を120%引き出すことが出来るはずだ。
それは明日、証明されると信じている。
「そうか……。だがプロデューサー君、今日の美穂を見た時、何か悩んでいる。そう感じたんだ」
「……ええ、やはり分かってしまうものなんですね」
「伊達に17年、いや18年間父親をしていないからね。君も、子供が生まれたらわかる。どんなに自分をごまかしても、家族ってのは分かってしまうんだ」
「成程、貴方には勝てそうにないです」
俺は彼女の近況を親父さんに話した。
オーディションで惨敗したこと、初めてできた先輩の夢が破れる瞬間を見てしまったこと、
アイドルとしての在り方を見つめ直していること。洗いざらいすべてを、彼に伝える。
正直殴られても仕方ないと思ったし、アイドルを辞めさせると言われても反論できなかったかもしれない。
彼女がこうなったのも、俺の責任だ。もっとしっかりしていれば、彼女を傷つけることもなかったのに。
284 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:43:13.93 ID:BwdWwPTC0
「そうか……」
親父さんは俺の話を黙って聴いてくれた。彼にだって思うことはあっただろう。
だけど彼は、俺を責めるなんてことはしなかった。
「美穂にとって、いい経験なのかもしれないな」
「え?」
「親がこういうのもあれだが、美穂はこれまで挫折と言う挫折をしたことがなかったんだ」
「それはどういう」
「何かを目指すって事が初めてなんだよ。いつもそれなりにこなしてしまうから、こういう高すぎる壁にぶち当たったことも、誰かが傷つくところを見たこともなかった。だから今、戸惑っているんだろう」
言われてみればそうなのかもしれない。
これまで彼女は勉強もそれなりにこなしてきたし、クラブ活動に参加していなかったから、
大きな目標に向かって努力すると言う経験が少なかった。
それなのに今、トップアイドルと言う高い高い理想と、シビアすぎる現実に、彼女はぶち当たっている。
その厳しい世界に誘ったのは、他でもない俺たちだ。
285 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:45:25.86 ID:BwdWwPTC0
「だから、君が自分を責めることは無い。大丈夫、私たちを信用しなさい。美穂は必ず、元気になるから。それに」
「それに?」
「私たちは、君に美穂を預けて正解だと思っているんだ。美穂と一緒に悩んで、時に反発することはあっても、共に未来へ向かってくれている」
「きっと君は、美穂の喜びを自分の喜びのように感じてくれて、美穂の悲しみを一緒に背負ってくれる男だと信じているよ」
「それは、ありがとうございます」
結婚前のお婿さんとお義父さんの会話みたいですね、なんて言ったら湯船に沈められそうなので黙っておく。
「さて、湯当たりしちゃう前に家に戻るか」
「はい」
お風呂から出て、親父さんからコーヒー牛乳を渡される。
どうして風呂上りに飲むコーヒー牛乳はこんなに美味しいのだろうか。科学的に誰か証明して欲しいものだ。
「男の付き合いってやつだな。うちに息子はいなかったから、こういうのに憧れていたんだ。あー、美味い!」
親父さんは嬉しそうに言うと、腰に手を当ててコーヒー牛乳を一気飲みする。
286 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:50:02.16 ID:GMdc79k60
「俺なんかで良かったんですか?」
「何。私は君のことを息子が出来たみたいに思っているよ。母さんも同じだろう」
「そう言われると、照れますね」
本当に、優しい人たちだ。
こんなどこの馬の骨か分からない人間に、ここまで親切にしてくれるのだから。
余りに人が良いもんだから、詐欺師に引っかからないか心配になって来た。
「今のままじゃ、俺も似たようなもんだな」
「何か言ったかね?」
「いや、何でもないです。しっかし美味いなぁ、コーヒー牛乳」
俺も小日向さんをトップアイドルにしないと、それは詐欺師と一緒だ。
「それは何としても回避したいな」
色んな人の期待を背負って彼女は歌い踊る。小日向さんの夢は、俺の夢でもあるし、彼女を信じている皆の夢でもある。
プロデューサーとしてすべきことは、その夢を現実にするため導くこと。
俺も1度、プロデューサーとしての自分を見つめ直すかな。
287 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:53:04.77 ID:GMdc79k60
――
「どうかな、お母さん」
「うーん。形はいびつね……。あまり練習できてないんでしょ?」
「ま、毎日忙しくて……」
台所にお母さんと一緒に並び、夕飯の準備。男2人を追い出したのは、私がご飯を作って驚かそうと思ったから。
いつも私を応援してくれているお父さんと、こんな私を信じつづけてくれた彼への感謝の気持ちを、
手料理という形で示したかったのだけど――。
「危ないわねー。ほら、包丁で切るときはこうして……」
「ご、ごめんなさい~」
折角お母さんから託された料理本も、忙しさを言い訳に殆ど読めていない。
結果朝は菓子パン、昼は学食、夜はお弁当か外食。それが私の基本ルーティンになりつつあった。
時間があるときは自炊もするが、それでも人に見せれたものじゃない。
本当なら出すのも烏滸がましいぐらいなんだけど、不意に作ってみたくなったのだ。
何がトリガーになったか分からないけど、こういう風に突発的に体が動くことは珍しくない。
288 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:56:45.20 ID:GMdc79k60
「で、出来たの、かな?」
危うげで慌ただしくも、なんとか準備を終わらせる。見てくれは不恰好だけど、気持ちは入っているはずだ。
塩と砂糖も間違えていない、はず。
「まぁ、及第点ってところかしら。でもこれじゃあ、まだまだね。プロデューサー君も美穂に気がいかないわよ?」
困ったように言うけど、お母さんの顔はニヤニヤとしている。私のリアクションを楽しみにしているのだろう。
そして私は、彼女の望んだ通りのリアクションを取ってしまうのだ。
「も、もう! そう言うのじゃないよ! プ、プロデューサーは……」
プロデューサーは、何だろう?
「あらあら、顔紅くしちゃって。朗報よ、美穂。プロデューサー君は……」
「ただいまー」
「失礼します」
「あら、帰って来ちゃった。美穂、料理机に並べといて」
「あっ、うん」
お母さんは何かを言おうとしたけど、2人が帰ってきたため中断される。
変わらずニヤニヤとしている辺り、禄でもないことを言おうとしたんだろうなというのが見て分かった。
289 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 02:58:16.55 ID:GMdc79k60
「みんな揃ったわね。それじゃあ頂きます」
「頂きます」
家族とプロデューサー合わせて4人での食卓。数週間前に熊本に帰ったばかりだったから、
両親と食べるご飯はあまり久しぶりと言う感じがしない。
ただ違うのは、私の目の前に椅子が置かれていること。そこに座っているのは、プロデューサーだ。
こうやって並ぶと、お兄ちゃんのようにも思えてきた。それ程自然に我が家の団欒に交じっている。
「ねぇ、プロデューサー君。御味はどう?」
プロデューサーは私の作った肉じゃがを口に入れる。私はそれを、ドキドキとしながら見ていた。
審査員はどう評価するか?
「味付け、前と違いますか?」
「ッ!」
「少しアレンジしてみたの」
アレンジと言うと聞こえがいいけど、実際は私が調味料の配分を間違えただけ。いつもより味が濃いのはそのせいだ。
290 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:00:43.46 ID:GMdc79k60
「これは……」
お父さんも味の違いに気付いたらしく、私を見る。どうやらお父さんはお見通しのようだ。
「どうかしら?」
「そうですね。俺は今日の味の方が好きですよ。うちの味になんとなく似ていますし」
「本当ですか!?」
「わぁ! ど、どうしたの小日向さん……。身を乗り出しちゃって」
「あぅ、す、すみません……」
褒められたのが嬉しくて、ついつい行儀の悪い行動に出てしまった。
彼は私が作ったということに気付いていないみたいだ。
「プロデューサー君、実は今日の夕飯はね、美穂が全部作ったのよ」
ここでネタ晴らし。正確にはお母さんの力も多分に有ったので、7,8割って所かな。
それでも、この肉じゃがは私1人で頑張ってみた。だから、褒められたのがすごく嬉しい。
291 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:02:40.23 ID:GMdc79k60
「だと思ったよ。いつもの母さんの味付けと違うからな。銭湯に行っている間に作っていたんだろ?」
流石お父さん。よく分かっている。
「そ、そうなの?」
落ち着いていたお父さんと対照的に、プロデューサーは意外だと言ったように、驚きを隠しきれないようだ。
「小日向さん、料理も出来たんだ」
「ま、まだまだ勉強中です。見てくれも、不恰好ですし」
「でも筋は良いと思うな。味も俺好みだし」
感心するように、肉じゃがを食べる。気に入って貰えたようで何よりだ。
「良かったじゃない、美穂。気持ち伝わって」
「えへへ」
「き、気持ちだと!? ま、ままさか美穂! プププロデューサー君と、そ、そんな関係に!」
292 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:06:05.11 ID:GMdc79k60
「ち、違うよ!」
「なってません!」
「まぁまぁ、お父さんも落ち着いて。ほら、これでも飲んで」
「ああ、すまないな。つい自分を見失いかけてしまった」
お母さん、お父さんが飲んでるの、お酒だよね?
「わぁがこひぃにゃたけの美穂のキュートさわぁ、しぇかいいちぃぃぃぃぃ!」
「お父さん……」
「すぅ……」
案の定、お父さんは酔いつぶれて眠ってしまう。
さっきまで執拗なぐらいに絡まれていたプロデューサーの顔にも疲労が見えていて、なんだか申し訳ない。
「プロデューサー君、悪いんだけどお父さんを部屋に運んでくれないかしら? お布団はこっちで用意しておくからさ」
「分かりました。えっと、行きますよ……」
「ぐすぅ……、美穂は渡さんぞぉ……。おとといきやがれぇ」
夢の中で誰かと戦っているお父さんを引っ張るようにして、プロデューサーは歩き出す。
293 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:08:20.99 ID:GMdc79k60
「お母さん、お父さんこうなるの分かっててお酒飲ませたでしょ?」
「さて、何のことかしら?」
誤魔化すように口笛を吹くお母さん。微妙にできていなくて、空気の音がフーフーと言っているだけのが滑稽だ。
「ふぅ。今日はご馳走様でした。美味しかったよ、掛け値なしにね」
「え、えっとお粗末様、でした?」
皿洗いを終えると、プロデューサーが帰る準備をしていた。いったん中断して、彼を玄関まで見送る。
「それじゃあ明日、頑張ろうな」
「はい!」
「すみません、失礼しま」
「あー、そうだプロデューサー君。今日泊まって行かない?」
ドアを開けて出ようとしたところで、お母さんがそんなことを言った。
「へ? 泊まってって……。俺の家、歩いて10分程度のところなんですけど」
294 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:10:13.42 ID:GMdc79k60
「まあ良いじゃないの。ほら、パジャマならお父さんの貸してあげるから!」
「え、ちょっと!?」
お母さんはスーツを引っ張ると、強引に引き戻す。
「お父さん、お酒飲んだらなかなか起きないのよ」
「は、はぁそうですか。でもそれが何の関係……」
「ああ、もうじれったいわね! 美穂の部屋で寝なさいって言ってるのよ! お母さん公認よ?」
「へ?」
え、えっと……。お母さん? 何を言ってるのかな?
「お、お母さん。私はどこで寝たらいいの?」
「どこって、自分の部屋で寝なさいよ」
だ、だよね。うん、何一つおかしいところはない。
ほとんどの荷物を東京に持って行ったけど、布団ぐらいはあるはずだ。
部屋の主なんだから、そこで寝るのは間違っていない。当たり前のことだ。
295 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:12:45.17 ID:GMdc79k60
「それじゃあ俺は?」
「プロデューサー君も美穂の部屋で寝なさい」
うん。おかしいところしか見当たらない。
「えええええ!? い、い、一緒に!?」
「いやいやいや! それはまずいです! 男女7つにして同衾せずって言うじゃないですか! それに、俺と小日向さんはアイドルとプロデューサーですし……。もしもパパラッチがいたら!」
「いるわけないじゃない。まだまだこんなヒヨっ子アイドルなのに。それに、家の中から出ていく方がアウトじゃない? 親がいても、親公認って書かれるだけよ?」
「うっ……」
悲しいかな、ヒヨっ子アイドルと言われても反論できなかった。ほとんど名前が知られていないようなアイドルに、
パパラッチがわざわざ熊本まで来るなんておかしな話だ。
「で、でもそれは恥ずかしいよ! 来客用の部屋とかあるでしょ?」
「そうですよ! なんなら俺、リビングで寝ますし」
296 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:18:12.60 ID:GMdc79k60
「風邪ひいちゃうわよ?」
「それは困りますけど……」
それ以上に選択肢がそれしか無いのも困る。嫌と言うわけじゃないけど、うん。私にはムリだ。
ただお母さんの性格上、プロデューサーを何としてでも帰そうとしないだろう。
このまま問答を続けていても、不毛に思えてきた。
仕方ない。覚悟、決めます。
「はぁ。分かったよ、お母さん。プ、プロデューサー! 私の部屋に行きましょう」
「え? 小日向さん?」
「は、恥ずかしいことこの上ないですけど! 風邪ひいて、明日楽しめないのは嫌です、から。ダメ、ですか?」
「ほら、泊まって来なさい! 良いわね!」
「わ、分かりました……」
「よろしい。それじゃあ美穂、プロデューサー君を案内なさい」
どうしてこういう展開になったのだろうか?
お母さんの思い付き行動は今に始まったことじゃないけど、今回に関しては悪意しか感じない。
297 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/01(金) 03:20:34.46 ID:CqgFcykH0
「えっと、その……。ごめんなさい。お母さん、一度こうと決めるとなかなか折れなくて」
「あ、あははは……。元気なお母さんだね、うん」
困ったように乾いた笑いが生まれる。
「その、何もない部屋ですけど……」
「……有るね」
「……そ、そ、そうですねええええええ!?」
目を疑った。隣り合わせの2つの布団を、いつの間に用意したのだろうか?
「ま、まあ! ひ、1つの布団じゃないだけ良心的、かな?」
「そう、ですか……?」
「良心的だよ。そう言うことにしよう! うん」
良心のハードルがやけに低い気がするのは、私だけだろうか。
301 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2013/02/01(金) 22:35:24.36 ID:XlZ7BJgLo
こひなたん可愛い
プロデューサーもかわいい
302 : ◆CiplHxdHi6 [saga sage] :2013/02/02(土) 12:16:48.16 ID:Spl3yrEa0
「……」
「……」
当然眠れるわけがない。年頃の娘が男の人と同じ部屋というシチュエーションは、私には無縁だと思っていた。
ドラマでその手のシーンがあった時、私はいつも目を逸らし耳をふさいで見ないようにしていた。
とてもじゃないけど、凝視するなんてことは出来ないのだ。
しかし今、私はプロデューサーと同じ部屋にいるわけで。
「……眠れない?」
「はい。眠れるわけがないです」
背中を向け合っても、そこに彼がいると感じるだけで私の心臓は張り裂けそうになる。
「プロデューサーは」
「ん?」
「こうやって、女の人と同じ部屋で寝たことってあるんですか?」
聞いた後になって気付く。なんと恥ずかしい質問をしているのだろう。
普段の私なら絶対に口に出ないような言葉だ。
今の異様すぎるシチュエーションが、私を饒舌にさせたのかもしれない。
303 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 12:19:59.76 ID:9rHw4NbN0
「いや、無いよ。てんで女の子に縁がなかったからさ。御袋ぐらいかな」
「そう、ですか」
てっきり過去にお付き合いしている人がいるものだと思っていたから、彼の返答は意外だった。
つまりそれが意味することは。
「私が、初めて、で、ですか?」
「あー、うん。そうなるのかな? も、もちろん! 変な意味はないからね」
私は彼が出会ってきた女性で初めて、こう隣り合って寝ていることとなる。
絶対口には出せないけど、嬉しいような気もするのは女としてのサガなのか。
きっと今の私は、過去最大に顔を赤らめていることだろう。彼に見られないように、布団に顔をうずめる。
「そう言えば」
話題を変えよう。その方が、2人のためだ。
304 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 12:23:23.32 ID:9rHw4NbN0
「私、殆どプロデューサーのこと知らないです」
「俺のこと? あんまり話してなかったからね」
「不平等です」
「へ? そうなの?」
「私のこと、たくさん知っているのに、私はプロデューサーのこと、全然知りませんから」
10分歩いた先に生まれて、同じ高校出身で、犬派で、肉じゃがは濃い目が好きで、
クリスマス時期になると体調を崩しやすくて、どこまでも一途なほどに私を信じてくれる。
そんなプロデューサー。
だけど、まだまだ私の知らない彼の姿があるはずだ。それを知りたいと思うのは、
パートナーとして当然のことだと思う。
「例えば……。そうだ。高校時代のお話とか」
「高校時代? あんまり面白くないぞ?」
305 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 12:35:11.87 ID:5CoAxHtd0
「それでもです。どんな話でも楽しめる自信、ありますから」
「そう? 高校時代の話って言ってもどういう事話せばいいんだか」
どうしたものかと困る彼にきっかけをあげよう。インタビュアーは新人アイドル小日向美穂。
私は頭に思い付いたことを聞きつづけた。
初恋のこと、友達のこと。他愛のない話から、彼の価値観を形成させた経験まで。
私の質問に、彼は苦笑いを浮かべながらも答えてくれた。
そうしている内に、時計は1時を過ぎていた。何時間話し続けていたのだろうか。
気が付くと、隣の彼は眠りの世界へダイブしていた。
「寝ちゃいましたか?」
「すぅ、すぅ」
返事はない。ただ寝ているだけのようだ。明日も早いし、私も寝よう。
と決めて目をつむったのが、1時間ほど前のこと。
306 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 12:39:32.75 ID:5CoAxHtd0
「うう……、眠れないよ」
ヒツジを数えても目は冴えてしまう。
男の人と2人っきりと言う異質なシチュエーションが、私を中々眠らせないのだ。
相手はプロデューサーだ。車内じゃ隣の席で寝れるのに、場所が場所なためそうもいかなかった。
「んん……」
背中から聞こえる寝息がくすぐったい。意外なほど、彼は寝つきが良い。
1人緊張している私がバカに思えるぐらいだ。
「プロデューサーは、気にならないのかな」
そこは大人の余裕だろうか、それとも疲れて眠るという選択肢しかないだけか。
体を起こして、彼の顔を覗き見る。
「どんな夢、見ているんだろ」
「ゴメンな小日向さん……。俺のせいで」
「え?」
私の言葉に呼応するように、寝言で答える。夢の中の彼は、私に何をしたと言うのだろうか。
307 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 12:46:09.23 ID:5CoAxHtd0
「俺がちゃんとしていれば……、すぅ」
「プロデューサー」
再び深い眠りに落ちる。
「夢の中でも、私のこと思ってるんですね」
彼は最初からずっと私を信じてきていた。例えどんな惨めな姿を見せても、彼はずっとそばにいてくれた。
「ありがとうございます。そして、ごめんなさい」
たった一度の挫折で、私はどうして世界一不幸な人間と思っていたのだろうか。
むしろ幸福だ。応援してくれる親や友達がいて、彼がいて。
「――」
どれくらい経っただろうか。心の中からこみ上げてくる激情は、涙となって私の頬を伝う。
「プロデューサー、私……」
「泣かないで良いんだよ、小日向さん」
不意に私の手のひらに暖かな感触。触れ合うは、彼の手。
308 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 12:49:13.34 ID:HL/s7Ge60
「え?」
「……ゴメン、少し前に起きてたんだ。そうしたら、君が泣いていた」
「そう、なんです、か」
「ああ。ホント、情けないよな。担当アイドル泣かせちゃって」
「ち、違うんです。これは……嬉しいんです」
「嬉しい?」
「はい。ずっとプロデューサーは、私を信じてくれていましたから。それが凄く、嬉しいんです」
涙は悲しみだけじゃない。時に心震わす喜びも、こらえきれない涙となる。
今の私は、そんな単純なことに気付けただけなのに、ポロポロと涙を流していた。
彼の前で泣いたのは、2度目だったかな。1度目は、オーディションの後。悔しさと虚しさで、私は頬を濡らせた。
だけど今は違う。
309 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 12:58:56.54 ID:s/LHtQJD0
ごめんなさい、そんな言葉はもうたくさんだ。
だから私が彼に言うべき言葉は――。
「ありがとう、プロデューサー。私、明日輝いてみせます」
「そうか。期待しておく」
「はい。その期待、裏切ってみせます」
「ああ、楽しみだよ」
2人して笑い合う。どうやら彼も眼が冴えてしまったらしく、私たちは眠くなるまで色々な話をした。
今度は私が、インタビューに答える番だった。
「プロデューサー」
「ん? どうかした?」
「ううん。何でもないです」
彼となら、沈黙も不思議と苦痛じゃない。手と手は繋がれ、互いの暖かさを感じ合う。
私らしくないかな? だけど、彼の手は魔法の手だ。
子供の頃、お父さんと手を繋いでた、そんな優しい感覚。
結局2人が眠りについたのは4時過ぎのこと。
「な、ななななななんじゃこりゃあああああ!!!」
翌日早く起きたお父さんが私の部屋で、手を繋いで寝ている私たちを発見して、ちょっとした騒動になったのは、また別のお話。
310 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 13:17:22.71 ID:jqE+L8cJ0
12月16日。その日、私は18歳になった。
朝の食卓は3人で囲む。プロデューサーは、般若が如きお父さんから逃げるように家に帰って行った。
後程現地で落ち合う予定だ。
「おめでとう、美穂」
「ああ。18歳か、時間の流れは早いもんだな。あんな小っちゃかった美穂が、こんなに大きくなって」
「もう、お父さんったら」
大きくなったと言っても、私は同い年の女子の中では背が低い方だ。
ひんそーでちんちくりんと言っても差し支えないだろう。
「美穂、誕生日プレゼントって言うには面白くないかもしれないけど……」
両親は私に可愛くラッピングされた箱を渡す。
「えっと、開けてみて良い?」
「ああ、開けてみなさい」
お父さんに促され、箱を開ける。
ラッピングされた包装紙を破り過ぎないように慎重にし開けたため、結構時間がかかってしまった。
311 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 13:27:28.77 ID:sz5mHxUa0
「これ、カチューシャ?」
中に入っていたのは、雪をイメージしたかのような、白いカチューシャ。被ってみると、ちょうどよくフィットした。
「美穂に合うかなて、お父さんが買ってきたの」
「これを買うの、結構恥ずかしかったんだぞ?」
可愛らしいカチューシャを片手に並ぶお父さんの姿を想像すると、笑いが込み上げてきた。
「ぷっ、それは面白いよ」
「むう……。そう笑うこともないじゃないか」
「ふふっ。でも、ありがとう。今日、これ付けてみるね」
フェアリーサンタは淡いピンクのサンタ服だ。だから少々ミスマッチな気がするけど、親からのプレゼントなんだ。
つけていると、そばに2人が見守ってくれているような気がする。
「それじゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
「私たちも見に行くぞ」
312 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 13:33:17.22 ID:sz5mHxUa0
クリスマスパーティーは例年学校関係者だけが参加できるイベントだけど、
今年は近隣の方々にも招待状を送っているらしい。
ここまで力を入れているのも、先生が言うには私がいるからだそうだ。
『折角なんだし、多くの人に見て貰った方が良いでしょ?』
とは先生の談。本番は、生徒たちだけじゃなくて、近くに住んでいる人たちも見に来るということ。
私はこの町に、錦を飾れるのかな――。
「美穂ちゃん、誕生日おめでとう!」
「おめでとう!」
「ハッピーバースデー! 良いですね!」
学校に着くなり私は友達から祝いの言葉を投げかけられる。18歳最初の朝は騒がしく慌ただしい。
今日の予定としては通常授業を行い、17時からパーティーが始まる。私のステージは、19時ごろだ。
それまでの間、私は久し振りの教室で授業を受けることになった。
これはプロデューサーが学校の方にお願いしたらしい。
もう一度、このクラスで過ごさせてほしい。そう先生に言ってくれた。
313 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 13:35:53.56 ID:sz5mHxUa0
「勿論です。彼女はずっとクラスの仲間ですよ」
先生はプロデューサーのお願いを、当然でしょと言った感じで受け入れた。
制服こそは東京での制服だけど、熊本を出た日から変わらない陽だまりの席に私は座って、授業を受けていた。
センター試験も近いため、殆どの授業は試験対策に費やされたが、体育の授業は通常通り行われる。
寒い体育館で、入試のことなんか忘れてバスケットボールに興じる。
この時期の数少ない娯楽だからか、いつもよりみんな体育を楽しんでいるように見えた。
「えいっ」
「ナイスシュート!」
「えへへ」
周りも私に気を利かせてくれたのか、気が付いたらボールが回って来た。
その度にゴールに入れてみよう! と頑張ってみたけど、シュートが入ったのは一回だけだった。
幸先が良いのやら悪いのやら。
お昼ご飯は友達と学食で食べる。メニュー表を見ると、いつの間にやら新しいメニューが出来ていた。
折角なので新しいメニューのオムライスを頼んでみる。あの喫茶店で食べたものに比べると、
味が劣るけどそれでも美味しくいただけた。
314 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 13:45:09.13 ID:mEXP0bBX0
「よっ。結構楽しんでる感じ?」
「プロデューサー。どこにいたんですか?」
「あー。用務員さんを手伝ってたんだ。特にすることもなかったしな」
「スーツ、汚れちゃってますね」
「だな。用務員さんに服借りりゃよかったかな……」
空いていた私の席の隣に座る。さっきまで花壇整備をしていたのか、見慣れたスーツに土がついていた。
それがアンバランスで少し可笑しい。
「プロデューサー、ネクタイずれちゃってます」
「あっ、ホントだ」
「直してあげますね」
私の手は吸い寄せられるようにネクタイへ飛んでいき、真っ直ぐに整える。
「はい、出来ました」
「あ、ありがと」
「ほうほう……」
「グレートですよ……こいつぁ……」
315 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 14:08:31.67 ID:DM50EuQS0
「え? あっ、これは! そ、その……」
見事なまでに自爆をしてしまう。あたふたする私を、周囲は微笑ましく見ていた。
「ところで。プロデューサーさんは」
「ん? 俺?」
「美穂ちゃんのどこが好きなんですか?」
「なっ!?」
「ちょ、ちょっと……」
「あっ、美穂ちゃん赤くなっちゃって。きゃーわいっ!」
不意を突かれて赤面した私を見て、友達は悪びれる様子もなくけらけらと笑う。
「えっと、答えなきゃダメ?」
「勿論! さもないと今ここで美穂ちゃんの服、脱がしちゃいますからね」
「ええええ!?」
なんと不条理!
316 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 14:15:53.98 ID:sGHOy29L0
「さぁどうしますかー? 早く答えないと美穂ちゃんのストリップショーが始まっちゃいますよ?」
「きゃはん!」
手をわきわきしながら、友達は私の服に手を掛ける。この目は、本気です。
「そ、それは困るな……」
答えて欲しいけど、答えて欲しくない。そんな相反しあう気持ちが私をよぎる。
だけど羞恥心の方が俄然強くて。
「プロデューサー! 答えて欲しくないけど、答えて欲しいです! じゃないと私お嫁に行けなくなります!」
「服脱がされる方が嫌だよね。そうだなぁ、小日向さんの好きなところは……」
「好きなところは?」
バラエティ番組なら、ここでドラムロールが流れるだろうな。ジャカジャカジャカ、ジャン!
「真っ直ぐなところかな」
頬を掻きながら答える。そのサインは、彼も恥ずかしがっている証拠だ。
317 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 14:25:48.21 ID:sGHOy29L0
「真っ直ぐ、ですか?」
「うん。恥ずかしがり屋で内気な子だけど、決めたことには頑固なぐらい頑張ってさ」
「時々挫折することが有っても、すぐに立ち直れる。俺はそんな彼女が、好きだな」
「好き……」
「あっ、今の好きはだね! ライクと言いますか……」
「で、ですよね。そう、ですよね!!」
「あー、見てらんねーっす。爆ぜちゃえ爆ぜちゃえ」
聞いてきたのはそっちなのに、友達はうんざりしたように言う。
「やっぱ脱がす!」
「ええ!? 嘘吐き!」
「あははは……」
「笑ってないで助けてください! きゃああ!」
プロデューサーは困ったように見てるだけだ。本当に服を脱がされそうになるけど、何とか振りほどく。
318 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 14:30:23.14 ID:sGHOy29L0
「でも良かったね、美穂ちゃん。プロデューサーは好きなんだって」
「真っ直ぐかぁ。美穂ちゃん、真面目だもんね」
「も、もう……」
好き。その言葉にドキッとしたのは、男の人に初めて言われたからだろう。
だからプロデューサーじゃない誰かに同じセリフを言われても、きっと同じようにドキドキするはずだ。
でも、死ぬまでに決められている分の鼓動を、一気に消化しそうな勢いなのは、
ずっとそばにいてくれた彼のせいなのかな。
本当はいけないことだと思う。でも、どうしてなのかな。
彼の好きがライクだったことが、少しだけ、ホンの少しだけ胸を締め付けた。
当然だ。私たちアイドルは、夢を与えるお仕事。ファンの前では、優等生でいなくちゃいけないのだ。
ワイドショーでも度々そんな話題が上がる。裏切られた、ファンの皆はそう思うのかな。
この世界に来た時点で、私とプロデューサーは、誰よりも近い他人で有り続けないといけない。
でもこの世界に来なければ、彼に会えなかった。
「さて、俺はもう一仕事してくかな。それじゃあ小日向さん、授業後にね」
「はい」
319 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/02(土) 14:33:08.81 ID:sGHOy29L0
だけど私は――。
「あっ、プロデューサー」
「ん? 何かある?」
「いえ、頑張ってくださいね」
私は、少しだけ彼との関係を進めたいと思ってしまった。まだチャンスはある。
今日こそ、言ってみよう。
どんな反応するのかな。やっぱり、困ったみたいに笑うのかな。
想像しただけで、おかしいな。
私のこと、美穂って呼んでください。
驚きますか? プロデューサー。私も、こう呼ばれたいと思うようになって、驚いています。
「覚悟して下さいね、プロデューサー」
彼に聞こえないように、そっと宣誓。
324 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 00:50:04.10 ID:QsRdE57o0
『メリークリスマス!! 乾杯!』
『乾杯!』
校長先生の合図の下、私たちは乾杯を始める。もちろん、飲んでいるのはお酒じゃなくてリンゴジュースだ。
ブドウジュースならもう少し、ムードが合ったかも。
講堂の端からはクリスマスソング。吹奏楽部が奏でるBGMが耳に心地いい。
「美穂、乾杯」
「乾杯」
「お父さん、お母さん。乾杯」
両親は私を見つけると、グラスをぶつけ合う。彼らのグラスの中身も当然ジュースだ。
もしお酒なんか入っていたら、お父さんは何をしでかすか分からない。
「しかし、懐かしいなぁ。学生時代に戻った気分になるよ」
「そうね。あの時とほとんど変わっていないわ。私たちは変わっちゃったけどね」
思い出に浸るように、しみじみと会場を見渡す2人は、どこか嬉しそうに見えた。
325 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 00:55:29.57 ID:QsRdE57o0
「美穂に話したことあったかしら? 私たち、このイベントで出会ったのよ」
「そう。その時母さんは生徒会長で、俺は遅刻の常習犯だったな。所謂、不良ってやつだ」
「懐かしいわね。貴方ったら、クリスマスパーティーに出たそうなのに、不良ぶって行かないとか言っちゃって。最後の年、先生に無理矢理頼まれて、私が迎えに行く羽目になったのよ」
共通の思い出で盛り上がった2人は昔話を始める。
その日、お母さんは一緒に踊るパートナーがいたけど、先生に頼まれてサボってたお父さんを連れ戻しに行ったこと。
戻ってきたらパートナーは別の女子と踊っていたから、仕方なしにお父さんと踊ったこと。それが2人の出会いだった。
身近な2人の間の抜けたロマンスは、格好良いものじゃなくて、どこか情けないものだ。
ラブの後にコメディをつけて良いだろう。
それが2人らしくて可笑しく、私は笑いをこらえるのに必死だった。
「生徒会長にならなかったら、今頃美穂は生まれてなかったのかもしれないのよね。本当に、出会いっていつも意外よ」
「出会いは意外、かぁ……。いい言葉だね」
「だな。母さんに会えたのも、俺が不良ぶってたからだしな」
「何正当化しているんだか」
326 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:03:16.66 ID:QsRdE57o0
まさにそうだ。彼に出会わなかったら、事務所の皆にも卯月ちゃんたちにも、相馬さんにも服部さんにも出会わなかったんだ。
私の世界を、彼が拡げてくれたんだ。
きっとこれから出会う人たちも、予測の出来ない物語を紡いでくれるはず。
それが良い方向に行くか悪い方向に行くか分からないけど、不安よりも期待が大きい。
「おーい、小日向さーん!」
「あっ、プロデューサー! ってどうしたんですか、その恰好」
遠くから手を振る彼は、何故かサンタ服を着ていた。人の波をかき分けて、彼はこっちにやって来る。
「スーツにジュース零しちゃってさ。濡れたまま居るのも気持ち悪いしで服を貸してもらったんだ。まぁ、衣装は気にしなくていいよ。メリークリスマスっと」
彼がグラスを突きだしたので、私たちも乾杯をする。
「そうなんですか。結構似合ってますよ? 御髭もあれば完璧です」
「そう? それは嬉しいんだか、悲しいんだか。ってやばっ! それじゃ舞台裏で待ってるから! 着替えは忘れずにね!」
「へ?」
そう言って彼は逃げるように駆け出す。どうかしたのかな?
327 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:14:18.20 ID:QsRdE57o0
「まてー!」
「サンタさんをつかまえろー!」
「プレゼントはボクのものだー!」
「海賊王に俺はなるー!!」
「あっ、そう言うことだったんだ」
小さな子供たちがプロデューサンタさんを追っかけて、元気よく講堂を駆け回る。子供は風の子とは良く言ったものだ。
私が彼らぐらいの時は、猫の如く炬燵に入ってうとうとしていた記憶しかないな。
東京の皆は意外と言っていたが、熊本は盆地なため、夏は暑く冬は寒い。北国から引っ越してきた子も寒い寒いと嘆いていたっけ。
火の国熊本だなんて言っても、冬はストーブや炬燵がフル活動するのだ。
現にこの講堂も、ストーブをあちらこちらから持ち寄って暖めている。電気代大丈夫なのかな?
そうするぐらいなら、講堂自体に空調を付ければいい気もするけど、そんなお金は無いのだろう。
「ねーねー。おねーちゃん」
「ん? なぁに?」
328 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:23:37.32 ID:Nizr98Jw0
制服をちょいちょいと引っ張られたと思うと、腰ほどの身長の男の子が私を呼んでいた。
プロデューサンタを追っかけている子供の1人かな。
「聞きたいんだけどー」
子供たちの目線に合わすように、腰を落とす。半袖半パンと言う、見ている方が寒くなりそうな姿をしているけど、
彼らは全くと言うほど寒そうにしていない。やっぱり元気が有り余るぐらいがちょうど良いのかな。
「おねーちゃん、サンタさん知らない?」
「サンタさんって、若いサンタさん?」
「うん。髭の生えてない弱そうなサンタさん。どこ行った?」
弱そう、か。可哀想な言われようだ。でも確かに、こんな元気な子供5人に囲まれたら、結構大変だろうな。
「サンタさんは……。あっちに行ったよ」
プロデューサンタを助けても良かったけど、子供相手に嘘を吐くのは悪い気がして、正直に教えてあげる。
「ありがとー! プレゼント貰うぞー!」
「ごめんなさい、プロデューサンタ。どうか御無事で」
結局プロデューサンタは捕まってしまったらしく、私より後に舞台裏にやって来たときには、
既にぼろぼろの状態だった。
329 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:35:29.87 ID:jhloCZJC0
「さ、最近の子供は元気が有り余ってるね……。俺、転職してもサンタクロースだけはならないようにするわ……」
「お疲れ様です、プロデューサンタ」
これから始まると言うのに、プロデューサーは息も切れ切れでへばりこむ。彼らはプレゼント貰えたのだろうか。
「うん。小日向サンタも結構様になってるよ」
「そうですか? でもやっぱり、恥ずかしいです」
「あれ? そのカチューシャ……」
「あっ、気付きました? これ、私への誕生日プレゼントなんです。へ、変でしょうか?」
ピンク色のサンタ服に、白雪の様なカチューシャ。私はあまり気にならなかったけど、
第三者から見てこの組み合わせはどうだろうか。
「いや、可愛いよ。なかなかいい感じにマッチしてると思う」
「そ、そうです! か?」
「うん。きっとお客さんも、そう思うよ」
彼のお墨付きがあると、不思議と自信が出て来た。きっと彼は、私専用のセラピストだ。
330 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:43:36.06 ID:jhloCZJC0
姿見に映る私を再確認する。フェアリーサンタ。こんな服、一生着ることなんてないと思っていた。
だけど今、私はアイドルとして身に包んでいる。テレビの中で歌い踊った、彼女たちのように。
「見てみ。小日向さん。みんな、君のステージを見に来ているんだ」
「わぁ……」
本番5分前と言うこともあって、盛り上がっていた講堂も静かになり、今か今かと私の登場を待っている。
全校生徒と近隣の皆様、合わせて人数は500人近くいるだろう。
今までこなしてきたステージよりも、多くの人が来てくれた。
そのうちの何人が、私を初めて見るのだろうか?
そのうちの何人が、私のファンになってくれるのだろうか?
そのうちの何人が、もう一度私のステージを見てくれるのだろうか?
「小日向さん。失敗しても気にせず続けること。ショーマストゴーオンだ。君を採点する存在はいない、精一杯楽しんでおいで」
「は、はい!」
ステージはいつも一期一会だ。
リピーターがいたとしても、いつも同じ人ばかりなんてことは有り得ないし、
あまり考えたくないけど、私のステージが最期の光景になる人だっているかもしれない。
今日その時の私を見れるのは、その時だけ。
プロデューサーは失敗しても気にするなと言ってくれたけど、そう思うと足がすくんでしまう。
331 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:47:46.40 ID:jhloCZJC0
「小日向さん?」
私の異変に気付いたのか、彼は私に近寄る。
「怖い?」
「えっと……。凄く怖いですし、やっぱり恥ずかしいです。そのっ、プロデューサーが言うように、私は楽しめるんでしょうか?」
後数歩先に進めば本番だと言うのに、私はまた怯えてしまう。緊張と、羞恥心と、不安。
それぞれが混じり合って、筆舌にしがたい気持ちになる。
だけど――。
「楽しめるさ。だから自信を持ってほしい。君は、立派なアイドルだから」
冷たくなった私の手を優しく包んでくれる彼の手は、不思議と暖かくて。
私の中に彼の想いが伝わるような、そんな感覚。
大丈夫だ。私には、彼が付いている。彼が信じる、私を信じよう。
「なら」
「ん?」
「なら、約束してください。プロデューサー、このステージが上手く行ったら。私のこと」
332 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:49:31.68 ID:jhloCZJC0
「み、みみ……美穂って! 私のこと、美穂って呼んでください!!」
333 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 01:55:39.22 ID:jhloCZJC0
「なっ!? 小日向、さん?」
講堂中に響いた私の声。観客たちはなんだなんだと騒がしくなる。
「もし、上手く行ったなら。名前で、呼んでくださいね」
名残惜しいけど、手を離す。
「あ、あははは……。行ってらっしゃい」
私の申し出にプロデューサーはポカンとするも、すぐにいつも通り笑って拳を付き出す。
私も同じようにグーを作って、軽くぶつける。
すると私の中で渦巻いた嫌な感情は消え去って、緊張こそしているけど、気分は晴れやかだ。
気合は入った。言いたかったことも言えた。後は、最高のパフォーマンスを魅せるだけ。
「うん、行ける」
プロデューサーは目で私を見送る。少しの間、猶予をあげます。私の歌が終わるまでに、覚悟決めてくださいね?
さぁ、ステージの始まりだ。
334 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:03:58.70 ID:jhloCZJC0
「み、みなさん! こんばんわ! こひ、こ、ここ小日向美穂でしゅ!」
意気揚々と出たのは良いものの、早速噛んでしまう。
「よっ、待ってました!!」
「美穂ちゃーん!!」
友達が拍手を始めると、周囲もつられて手を叩き出す。
私と彼らの間には垣根なんかなくて、手を伸ばせば届きそうな距離にいる。
講堂をぐるりと見渡すと、さっきの子供たちはお母さんに捕まっていた。
ステージに上がられたら困るもんね。少しだけ、我慢しててね。
「え、えっと! 私は東京でトップアイドルめ、目指して頑張っています! き、今日は、呼んでくれてありがとうございます!! その……、全力で楽しんでってください!!」
「まずは1曲目! クリスマスソングの定番です! 神様のbirthday!」
1週間と2日ほど早いけど、私からのメリークリスマスは歌に乗せて。
イントロに合わせて踊り出すと、オーディエンスもリズムに乗り始める。うん、いい感じだ。
特別だよ誰だって主役になれるから、か。
去年なんか、この曲をBGMにお使いに行っていた様な子なのに、大出世だ。
「わぁっ」
気が付くと音楽に合わせて、吹奏楽部の演奏も。
どんどん華やかに、軽やかに。空を飛んでいる心地で、私はステージにいた。
335 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:06:23.98 ID:jhloCZJC0
「神様のBirthdayでした! えっと、次の曲は」
キラメキラリ。そう言おうとすると、吹奏楽部が勝手に奏で始める。誰もが知っている、あの曲を。
「え、ええ? この曲って……!」
ハッピーバースデー。完全に不意を突かれた私は、笑っていいのか泣いていいのか分からず、
へんてこりんな表情をしていたことだろう。
「ハッピーバースデー美穂ちゃん! 誕生日、おめでとう!!」
「キャッ!」
パン! 観客たちは一斉にクラッカーを引っ張って、その音に驚いて私はその場にこけてしまう。
今度は下着を見せるへまはしなかった。もし見せてしまえば、私はアイドルを廃業していただろう。
悪戯の成功したオーディエンスは、私が何を話すか心待ちにして見ている。
「あ、ありがとうございます? えっと……、18歳になっちゃいました?」
「何で疑問形やねーん!」
「うぅ……」
友達のヤジで、会場は大いに盛り上がる。プロデューサー、やっぱり私MCは苦手です。
336 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:14:14.82 ID:jhloCZJC0
「そんな18歳になったばかりの美穂ちゃんに、プレゼントが有りまーす!!」
友達がそう言うと、舞台裏から大きめの箱を持って生徒が現れる。この人、クリスマス実行委員会の委員長さんだ。
「お誕生日おめでとうございます、小日向さん」
「あ、ありがとうございます。あ、開けちゃっていいですか?」
「どうぞ。我々生徒一同からのプレゼントです!」
「え、えっと……。失礼します。こ、これは……」
リボンをほどいて箱を開けると、そこには大きなクマさんが。
「美穂ちゃんの大好きなクマさんのぬいぐるみです! 抱き心地は保証するよ!」
言われて抱きしめてみる。不思議と体にフィットして、抱きしめたまま眠れそうなぐらい、気持ち良い。
「み、みなさん……。ありがとうございます! こ、こうやって18歳の誕生日を、みんなに言わって貰えて凄く嬉しいです!」
力いっぱいお辞儀をすると、カチューシャがずれてしまう。慌てて直す私を見て、会場はまた大盛り上がり。
歌っている時より沸いているように見えて、複雑な気持ちになる。
ならば、歌で盛り上げるだけ。
337 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:17:15.31 ID:jhloCZJC0
「次の曲は、皆さん一緒にノリノリになってください! キラメキラリ!」
今度は最初から吹奏楽部の伴奏つきだ。
伴奏に負けないように、マイクの音量を上げて一番後ろの人まで聞こえるように歌う。
フレーフレー頑張れ さあ行こう フレーフレー頑張れ最高♪
自分を奮い立たせるような応援歌が、私のテンションを上げる。
いつもよりも、ダンスのテンポが上がっているかもしれない。
だけどそのリズムが気持ちよくて、のびやかに歌えた。
きっと今なら、オーディションも何も怖くない。辛い現実だって吹き飛ばせそうだ。
「!」
一瞬だけ、プロデューサーと目が合う。困ったように笑う彼を見て、私も微笑み返す。
どうですか? 私輝いていますか? 盛り上がってますか?
そんなこと、心の中で聞いてみたり。
338 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:18:58.92 ID:BDChzCsH0
「楽しい時間もあっという間に過ぎちゃいました。えっ、えっと! 聞きますけど、楽しんでるの私だけじゃないですよね? 独りよがりとか、ないですよね?」
「当たり前じゃーん!!」
「心配性だなー!」
「良かったぁ……」
皆も盛り上がってくれていたようでホッと一安心。客に心配されるアイドル。それってどうなんだろう。
「最後の曲になっちゃいました。えっと。この曲は、ここで初披露する、生まれたての歌なんです」
「Naked Romance――。ありのままの恋心、どうか皆様の心に何かを残すことが出来れば、嬉しいです」
プロデューサーに目で合図をする。彼は頷くと、音源のスイッチを入れてイントロが始まる。
大丈夫、歌詞はちゃんと覚えてる。口に出すのは恥ずかしいぐらい甘々な歌詞だけど、
このメロディに乗せれば不思議と紡げる。
それに今の私は、何でも出来そうなぐらい浮かれている。羞恥心なんかなんのその。
だってそこに、彼がいるから。
ありのままの恋心。恋なんて数か月前の私には理解の出来ないものだったのに。
今なら、声高に言える。
私は、恋している。世界一素敵で、どうしようもないぐらい恋をしている。
339 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:20:27.89 ID:BDChzCsH0
スキスキスキあなたがスキ
一目見ただけでそれが感じられたの
ドキドキドキ胸が鳴るの
ドンドンテンポあげて
キラキラキラトキメイてる
凄くあなたの事スキなんだもん
いつもその笑顔をずっと私だけに向けてね
チュチュチュチュワ 恋してる
チュチュチュチュワ 止めどなく
「――!」
歌詞を紡げば、浮かんでくるのは貴方との日々。
笑い合って、時に擦れ違って。これからもきっと、そうしていくんでしょうね。
ずっと、ずっと。そうなれば良いのにな。
「ありがとうございましたぁ!!」
ねぇ、プロデューサー。こっそり教えてあげますね。今は言う勇気が無いから、心の中で。
私、貴方がスキです。ダイスキです!
340 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:22:36.35 ID:BDChzCsH0
「ブラボー!!」
「美穂ちゃんサイコー!」
「結婚してくれえええええ!」
「おい誰だ今私の娘に結婚してくれとか言ったやつは! 私が相手してやる!!」
「わぁ……」
講堂に割れんばかりの拍手の雨が響き渡る。
そしてばらばらだったそれは、徐々に一定のリズムになっていく。
「アンコール! アンコール!」
「え、えっと……。プロデューサー? どうしましゅ?」
「あはは……。完全に失念してたな」
噛んじゃった。それは良いとして、アンコールのことを完全に忘れていた。
えっと、歌えそうな曲歌えそうな曲……。
「あっ」
ティンと来た。壁の時計の下に、ちょうどいいものが。
341 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:26:16.96 ID:BDChzCsH0
「え、えっと皆さん知っている曲なんでしょうか? 歌える人は一緒に歌ってくださいね」
「コホン! 火の山のー 燃ゆるー想いー 学びー合いー 高めー合いー」
「友とー行けー 師とー進めー 肥後のー里ー」
『揺るぎーなきー 心をー練らん』
『津田南高校 わが母校』
「こ、これでお終いです!!」
アンコールで校歌を歌うようなライブなんて、後にも先にもこれだけだろう。
でもみんな知っている曲だし、会場と一つになれたのは良かったかな。
鳴り止まない拍手の中、私は上手く言葉で表現出来ないけど、充足感を感じていた。
「これがライブ、か……」
なるほど。病み付きになっちゃいそうだ。
342 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:28:39.61 ID:BDChzCsH0
「お疲れ様!」
舞台裏に捌けた私を、プロデューサーが笑顔で待っていた。拍手はまだ止まる気配を見せない。
「プロデューサー! 私、どうでしたか!?」
「ああ、最高だったよ。会場も大盛り上がりでさ、みんな君のファンになったこと間違いなしだよ!」
「えへへ……。あのっ、プロデューサー。や、約束! 憶えてますよね?」
「え? えーと、なんのことやったかな……」
「どうして関西弁なんですか。ステージに上がる前の約束です」
「あ、ああ。約束、なんだよねぇ……。勢いで行っちゃったって今更言えない」
頬を掻きながら、私の目を見ないようにしている。もう、いじらしいなぁ。
「プロデューサー! 卯月ちゃんやちひろさんのことは下で呼ぶのに、私は名字だなんて不公平です」
「それに、今日私誕生日です! プレゼントはそれが良いんです」
「え? それで良いの?」
貴方からもらえるプレゼントで、一番嬉しいのがそれなんです。
343 : 勢いで行っちゃった→勢いで言っちゃった ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:31:13.24 ID:BDChzCsH0
「いやさぁ、そうは言いますが結構恥ずかしいんだよ?」
「私はもっと恥ずかしいことをしてきましたよ。それが嫌なら、今からNaked Romanceステージで歌ってきてください」
「うげっ、それは勘弁願いたいな」
私は勇気を出しました。次は貴方の番です。
「わ、分かったよ……」
こういうことを言うと呆れられそうだけど、実は舞台に立っていた時以上に緊張している。
今か今かと彼の唇を、震えながら見つめる。
「コホン! み、美穂ちゃん?」
ブッブー!
「えっと、ステージ頑張ってきてくださいね。私音源入れてあげますから」
「……美穂」
ピンポンピンポン!
「はい、プロデューサー!」
名前で呼んでくれたことと、お気に入りの困った顔。私にとっては、最高のプレゼントだ。
舞台裏の姿見に映る私は、なんとも意地の悪い笑顔を浮かべていた。
344 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:33:41.24 ID:QsRdE57o0
「それとプロデューサー」
「何かな? こひ美穂」
直ぐ訂正したからセーフにしておく。
「一緒に、踊りませんか?」
「ほえ? 踊るって?」
「ダンスパーティーですよ」
ロマンチックな音楽が流れる中、楽しそうに踊る生徒たち。見ると私の知っている顔も踊っている。
あの子、彼が好きなんだ。ちょっと意外かな。
「えっと、私と想い出を作りませんか?」
言えるか心配だったけど、意外なほどすんなりと誘うことが出来た。自分でもびっくりしてる。
「でも俺、ダンスなんかしたことないし。恥かくよ?」
「私も同じです。ソシアルダンスなんか、専門外ですよ。だからお似合いじゃないですか? ビギナー同士、恥をかきましょう」
「なんだか積極的だな……」
それはきっと、ライブが終わったままのテンションだから。
いつもの状態だったなら、言えずに間誤付いてしまってただろう。
345 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:38:21.42 ID:/cDda66r0
「それじゃあ……。シャルウィーダンス?」
「喜んで」
彼の手を取り、ステージを降りる。こういう時は、彼にエスコートして欲しかったかも。
「足踏んだらゴメンんぎゃ!!」
「すみません! 踏んじゃいました」
1、2、3♪ 2、2、3♪
軽やかで美しいワルツのリズムに合わせて、慣れないながらも周囲を真似て踊ってみる。
足を踏んだり踏まれたり、絡んでこけそうになっても、私たちは踊り続けた。
「――!」
途中お父さんが鬼のような表情でプロデューサーをにらんでいたけど、彼は気付いていたのだろうか?
「学生の時、体調管理しっかりしてたらなぁ」
「今を楽しみましょうよ。昔好きだった人じゃなくて、私と踊ってくださいね」
「なんだかなぁ」
困った困ったと言いながらも、彼も楽しそうだ。
煌びやかな宴は続き、9時を過ぎたころにすべてのプログラムが終了する。
347 : 訂正 ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:47:55.47 ID:QsRdE57o0
「あれ? プロデューサー、誰と話しているんだろ?」
着替えを終えた私は、サンタ服姿のままのプロデューサーが同じ年齢ぐらいの男女と話しているのを見つける。
「あら、今日の主役さん」
「この子がお前のプロデュースしているアイドルか。近くで見れば見るほど、可愛いな」
「おいおい、それを彼女の前で言うんじゃないの」
私に気付いた3人は、こっちへと手招きする。
「えーと、プロデューサー。この人たちは?」
「俺の高校の時の同級生だよ」
そうか。近隣の人も来ているってことは、OBOGもいるのか。彼の同級生がいてもおかしくはないか。
「こんばんわ、美穂ちゃん」
「こいつにセクハラとかされてない?」
「してないっての! こいつの言うことは無視するのが一番だよ。昔からさ、虚言癖が有ってさ。俺の親戚は日高舞だー! ホラをとか言いふらすような、残念な奴なんだ」
「そういう言い方酷くないか!? つーか別にホラじゃないし」
「日高舞は日高舞でも、同姓同名のお婆ちゃんなのよね。まぁ、彼が虚言癖有ることに変わりはないかな」
348 : ホラをとか→とかホラを ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 02:55:21.37 ID:aMsdfb5s0
懐かしい日々を思い出してか、3人は笑い合う。きっと学生時代、仲が良かったんだろうな。
今までプロデューサーのプライベートなことはほとんど知らなかったから、こんな顔もするんだなって新鮮な気持ちになった。
「それじゃあ俺達はこの辺で」
「じゃあね。美穂ちゃんも、頑張ってね。CD買うからね!」
「は、はい! ありがとうございます!!」
2人は私たちに手を振って、出口のあたりで、指と指を絡める。
外と対照的に明るい照明に反射して、彼らの薬指が一瞬光った。
「恋人同士だったんですか」
「はぁ、なんであいつらいるんだか……」
「プロデューサー?」
「昨日さ、クリパ休んだら友達に彼女が出来たって話したでしょ? それが、あいつらなんだわ」
つまりあの女の人は、プロデューサーが昔好きだった女性だ。胸大きい方が好みなのかな。
「あっ、あー。それは……、ご苦労様です」
349 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 03:02:32.59 ID:pP/vwput0
「しかも、結婚するんだとさ。別に未練があるわけじゃないけど、親友2人がこういう関係になられると、なんか変な感じと言うか……」
「未練はないんですか」
「そりゃ昔のことだしね」
うん。良かった。
「小日向さん?」
「違います」
「あっ、悪い。美穂、友達らが呼んでるよ?」
「へ?」
遠くの方から、友達の声が響く。考え事をしていて、完全に気付いていなかった。
その考え事も、正直碌なものじゃなかったけど。
「また会えなくなるからさ、帰る前に話して来たら?」
「あっ、はい! プロデューサーも、一緒に行きましょう」
私たちは友達の方へ駆け出す。
祭りの終わった講堂は、片付けが進められていて、いつもの冷たい建物へと戻りつつあった。
350 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 03:05:27.27 ID:m5VP33iC0
とはいえ、もう遅い時間なため、撤収作業もそこそこに、生徒たちは家へと返っていく。
残った分は、明日の朝から片付けなくちゃいけないんだけど、私は朝一の飛行機で東京に帰ることになっている。
だからみんなとはここでお別れだ。
「えっと、ごめんなさい。手伝えなくて」
「美穂ちゃんはゲストなんだから気にしちゃダメだって」
「そーそー。だからうちらのことは置いといて、プロデューサーさんと東京にかえればいいの!」
「ありがとう。私頑張るね」
「CD出たらクラスの皆で買うからね! 1人3枚がノルマだよ!」
「後、今日録画してた映像、今度送っておくね」
「助かるよ。あっ、事務所の住所はこれね」
私は気付かなかったけど、ライブの模様は映像研究部が撮影していたらしい。
どうやらプロデューサーがお願いしたようだ。
351 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/04(月) 03:07:56.10 ID:m5VP33iC0
「いつでも見返すことが出来るしね。今日のライブは、美穂のバースデーライブだからさ」
皆に祝って貰えて、名前で呼んで貰えて。人生で最高の誕生日だった。
今日のことを、お婆ちゃんになっても忘れないだろう。
18歳か――。後数ヶ月もすれば、高校も卒業して、大人への階段を上っていく。
いつまでも、子供のままじゃいられない。もっとしっかりしなきゃ。
「あれ? プロデューサーさん、美穂ちゃんの事名前で呼んでます?」
「ホントだ。小日向さん小日向さんって他人行儀だったのに。何かありました?」
「あっ、いや……」
「その反応は図星っすね! いやぁ、いい歳こいてなに可愛い反応しているんですか!」
「か、可愛いって言わないでくれ!」
友達に指摘され、プロデューサーは言葉に詰まる。
フォローを入れて欲しそうに私を見るけど、敢えてスルーしてやる。
そうすれば、また彼の困り顔が見れるから。
「別に照れることでもないでしょうに。ねぇ?」
「可愛いプロデューサー!」
「うるさいやい!」
その後、お父さんとお母さんが来るまでプロデューサーは弄られ続けた。
それと、お父さんの前でうっかり美穂呼ばわりをしたものだから、追い掛け回されたのも別の話。
356 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:20:32.51 ID:eiHp7f1B0
12月17日。クリスマス1週間前。
俺とこひな……、美穂は飛行機に乗って東京へと向かっていた。
もう少し熊本でゆっくりさせたかったけど、仕事も学校もあるからそうもいかない。
ご両親に挨拶を済まして、俺たちは空を駆けているというわけだ。
そう言えば、彼女と飛行機に乗ったのは今回が初めてだった。
「すぅ……」
朝早く出たため、彼女は寝足りなかったみたいだ。クマのぬいぐるみを抱きしめてスヤスヤと眠る彼女は、
とても安心しているように見えて、こちらの不安まで消してくれそうだ。
「あらっ、寝てるのね。残念」
「へ?」
「あっ、いえ。何でもありません」
「あれ? あなた確か……。前に空港で」
「? キャビンアテンダントしてましたから空港で会うとは思いますけど」
確かにそうだけど、俺は彼女の顔を憶えている。どこで見たんだっけか……。
357 : >>306 8話 シロクマのプロデューサーくん ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:30:14.26 ID:QUPKkO0U0
「お客様?」
「いや、今のど元まで出てるんです。えーと、えーと……」
会ったとすれば空港か飛行機だ。俺が今年空港に来たのは、美穂を迎えに来た2回と、今回だけ。
その時に彼女に出会っているはず。いや……、見ているはずだ。
「思い出した! 美穂とぶつかったCAさんだ」
美穂が初めて東京に来た日、よそ見をしていた彼女はCAさんにぶつかってこけたんだっけか。その時の人だ!
なんだか小骨が歯に引っかかったみたいで気持ち悪かったけど、思い出せてスッキリとする。
「美穂と……。お客様、彼女のお兄さんでしょうか?」
彼女は俺を訝しげに見る。確かに、知らない人から見れば俺と美穂は兄妹のように見えるのか。
こんなに可愛らしい妹がいたら、それはもう人生勝ち組な気もするが。
「えっと、なんと言えばいいか。プロデューサーなんです、こう見えて」
「はぁ、ご丁寧にどうも……」
とりあえず名刺を渡す。CAさんは対処に困っているようだ。
358 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:32:44.53 ID:A7qt6XWr0
「ってプロデューサー? まさか美穂ちゃん、アイドルなんですか?」
「と言っても、駆け出しの中の駆け出しですけどね」
「道理で可愛いわけだ。成程、先輩になるって事ね」
俺の説明に、うんうん頷いて納得するCAさん。着ている服が服なだけに、どんな行動も様になるな。
CA風衣装を着た美穂。うん、悪くないかもしれない。
「ん?」
先輩になるってどういうことだ?
「実は私、今日でCA辞めるんです」
「そうなんですか。でもそういう事、話しちゃっていいんですか?」
「まぁ美穂ちゃんに聞いて欲しかったんだけど、気持ちよさそうに寝てるから起こせないし。プロデューサーさん。よかったら伝えておいてくれます?」
ひょっとして彼女が辞める理由って……。
「相馬夏美はアイドルになるって」
359 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:35:06.55 ID:A7qt6XWr0
「あ、アイドルですか!?」
「起きちゃいますよ、美穂ちゃん」
相馬さんと言う彼女は、口元に人差し指を立てて静かにするよう注意する。
結構な大声が出たはずだけど、美穂には聞こえていなかったみたいだ。
ギューとクマさんを抱きしめて、夢の中。そんなに気持ちいいのだろうか。今度貸してもらおう。
「あっ、すみません。でもCAからアイドルですか。そりゃ驚きますよ。大転身じゃないですか」
そもそもCAになることだって相当難しいはずだ。それでも、彼女はアイドルになると言う。
その覚悟は相当なものだろう。
「確かに、デビューとしては邪道よね。アイドルって呼べる歳でもないし」
「いくつなんですか?」
「それ、失礼よ? レディーの扱い方分かってる?」
「す、すみません」
さっきまでの丁寧な彼女はどこへやら、遠慮なしに攻めたててくる。
というか、普通に会話してるけど、職務は全うしなくていいのだろうか。
360 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:37:44.05 ID:WHuA5tMt0
「でもまっ、今年25歳になった身だから、周囲は何やってんだって思うのかしらね」
「女性はいつだってシンデレラになれるんですよ」
極論30歳を過ぎようが、チャンスは転がっているんだ。
年齢が大事なんじゃない、大切なのは輝きたいと思うハートだと俺は思う。
だから、服部さんだって、まだまだ若造なんだ。
「あら、口説いちゃう? 残念だけど、私はもう予約済みだからね」
「それは残念です。きっと見る目のあるプロデューサーなんでしょうね」
「どうかしらね? 飛行機酔いしてて薬を持ってきたらスカウトされたわ。私以外の子もスカウトされたんじゃないかしら?」
それは女神に見えちゃうな。
「そういう運命なんですよ。ふとした切っ掛けが、思ってもなかった展開へ誘ってくれるんです」
縁は異なもの味なもの。人と人の巡り合いは予測出来やしない。シナリオ一切なしのアドリブだ。
だからこそ、人生は面白い。20代前半で何悟ったこと言ってるんだろうな、俺は。
361 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:43:22.06 ID:EtZw8drE0
「本当にそれよね。私もこのチャンスに、賭けてみたいと思うわ。もしどこかで会った時、その時はよろしくね。あっ、そうだ。これ、美穂ちゃんにあげといて」
「アドレスですか?」
「いつ会えるか分からないしね。同業者の連絡先知ってて損はないでしょ?」
「そうですけど。分かりました、渡しておきます」
「それじゃあ、またどこかで。Have a good flight!」
破られたメモとウインクを残して、相馬さんは去っていく。CAと言うこともあって、英語の発音は見事だ。
また強力なライバルが、誕生したのかな。
「んにゅう……。相馬さんもう食べれません……。テイクアウトです」
「まだまだ起きそうにないな」
美穂は夢の中でいち早く、相馬さんと共演しているようだ。
それがいつの日か正夢になった時、彼女はどんな顔をするのだろうか。きっと驚くだろうな。
362 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:48:07.03 ID:pu8Xk2HK0
「しかし暇だな。なんか聞くか」
相馬さんやCAさんたちを付き合わすのも悪いし、美穂はとてもじゃないが起こせやしない。
機内に取り付けられたヘッドホンをかけて、適当にチャンネルを合わせる。
「そっか。今日は12月17日か」
流れてきた曲のタイトルはズバリ12月17日。今日のためにあるような曲だ。
余り有名な曲と言えないかもしれないが、俺はこの曲が好きだ。
昔嵌ったゲームの主題歌と言うこともあるけど、こんな渋い大人になれたらなぁと憧れたものだ。
しゃべればしゃべるほど ドツボにはまる
これで良いのかい 本当にこれで良いのかい
あっちょっと待てよ 冷静になろうぜ
風邪をひくぞ 車に戻ろう
出来るなら、夜に聞いた方がムードはあったかな。朝一のフライトじゃ、無理して背伸びしているみたいだ。
「いつか俺たちもそうなるのかな」
俺たちは恋人じゃない、プロデューサーとアイドルだ。だからこそ、強い信頼関係で結ばれなくちゃいけない。
今は考えたくない。だけどいつかアイドルを辞めて、別々の道を行くことになるのかな。
学業を優先したい、もっと他にやりたいことが見つかった。いくらでも有り得る。
363 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:49:59.04 ID:MrbQa1SK0
「そん時は、素直に応援してやんないとな」
夢の形は1つじゃない。
プロデューサーとしてじゃなくて、1人のファンとして彼女の活躍を見続けていたいんだ。
「そろそろ着くかな。起こしてあげなくちゃ」
戻れない場所まで後数分。これからまた、俺たちは戦わなくちゃいけない。
その先に何が待っているか分からない。だけど、意地でも駆け抜けなくちゃ。
「美穂、もうすぐ着くよ」
まだ下の名前で呼ぶのは慣れない。小日向さんと呼んでいた期間の方が長いんだ。仕方あるまい。
でも昨日、島村卯月やちひろさんに見せた小さな嫉妬が、可愛く見えたのは彼女に黙っておく。
「小日向さーん、着陸しますよー」
クマをお供にした眠り姫は、声を掛けてもなかなか起きず、結局機内から降りたのは俺たちが最後だった。
364 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:52:54.82 ID:7t7uHi6D0
「ふぁあ……。よく寝ました」
「お疲れのとこ悪いけど、今から学校だろ?」
「そうですね……。凄く眠いです。なかなか寝かせてくれなくて」
夢見心地の彼女は立ったままでも寝ちゃいそうだ。
どうやら昨日の夜は友達が泊まりに来たらしく、朝まで大盛り上がりだったらしい。
今頃彼女たちも、眠い眠いと嘆きながら後片付けをしているに違いない。
「出席日数は問題ないけど、あんまりこっちを優先させるのもダメだしね。学校の時は学校の時で、ちゃんと過ごすように」
「ふぁい……すぅ」
「立ったまま寝ないの。そうだ。眠気覚ましに面白い話してあげようか?」
「にゃんでしゅか……」
風船みたいに飛んで行っちゃいそうな彼女の意識を、引きずり起こしてやろう。
「相馬夏美さんがアイドルになりました」
365 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 01:55:02.79 ID:7t7uHi6D0
「そうでしゅか……ってええええええ!? そ、相馬さんが!? CAの相馬さんですよね!?」
「おっと!」
おっ、良い反応だ。目も冴えただろう。
「うん。相馬さんが」
「本当ですか……。凄いですね、相馬さん。アイドルになっちゃうなんて」
君もアイドルだろ、と突っ込むのは野暮かな。
「ってあれ? プロデューサー。相馬さんのこと知ってるんですか?」
「あー、君が寝ている間にね。今日限りでCAを辞めてアイドルになるんだとさ」
「そ、それなら起こしてくださいよ……。私だって、相馬さんとお話ししたかったのにぃ」
プロデューサーは意地悪ですと言って、ぷくーと頬を膨らませる。
思いっきり突いてやりたい衝動に駆られたけど、抑えておく。
366 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:00:09.47 ID:091k+hjP0
「そんなこともあろうかと、相馬さんからのプレゼントだ。アドレスと電話番号。同業者だから知ってて損はないでしょ」
「ありがとうございます! 夜にでもかけてみますね」
今かけても忙しくて対応が出来ないだろう。もしかしたら、もう別の飛行機に乗っているかもしれないし。
しかしCA系アイドルなんて、斬新だな。その内、婦警アイドルとか極道系アイドルとか出てくるんじゃなかろうか?
「そんな物好きな人もいるのかね……」
想像するだけで面白すぎる。まっ、有り得ないわな……。
「プロデューサー?」
「ああ、こっちの話ね。バス乗って、荷物置いたら学校に行きますか」
誕生日プレゼントやら、お土産やら着替えやらで美穂の荷物はいっぱいだ。彼女の荷物を持って、バスまで運んでやる。
「ありがとうございます」
「こういうのは、男の仕事だしね。そうそう。家に帰って眠いからってベッドにダイブしちゃだめだよ?」
「し、しませんよー!」
1回家に帰って学校に行っても、2時間目の終わりぐらいには着くだろう。
アイドルと言っても、彼女の本分はあくまで学生、学業が重要だ。文武両道しっかり頑張って欲しい。
367 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:03:02.61 ID:ComK+f5f0
「プロデューサーはどうするんですか?」
「俺は事務所に行くよ。色々仕事詰まってるし。今日は昨日のライブを見て、反省会でもすっか」
ちひろさんに対応は頼んでいたけど、ちらほらと仕事が入ってきているらしい。
それに、ファーストホイッスルオーディションもある。やるべきことは、たくさんだ。
「それじゃあプロデューサー。また後で」
「ああ、勉強頑張ってきなよ?」
手を振る彼女を見送る。別にそこまで遠い旅でもないんだけどなぁ。
「クマの人気に嫉妬しそうだ」
にしてもあのクマのぬいぐるみを、いたく気に入ってるみたいだ。抱きかかえて、片時とも離そうとしていない。
「俺も行くか」
昼から出勤と言うことになっていたから、どこかのネカフェで時間をつぶすか。あのマンガ、続きが気になっていたし。
368 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:05:25.80 ID:IaTw3m3O0
――
「うーん。このまま寝ちゃいそうだなぁ」
荷物を部屋に置いて、ベッドに横たわる。そんなことしたら、眠くなるだけだ。
「ダメ! 行かなくちゃ。みんな待ってるし」
プロデューサーの言った通りになるのも嫌だ!
なんとか誘惑を断ち切り、私は体を起こす。
「えっと、今何時かな」
時計を見ると、2時間目が始まったぐらいの時間。今から行けば、途中から入れるかな。
「君は、お留守番しててね。プロデューサーくん」
名前が付くと、より愛着がわく。彼(彼女?)にプロデューサー君と命名したのは、私の友達だ。
最初は恥ずかしかったけど、今では慣れて愛おしいぐらいになっている。
ギュッと抱きしめると、暖かくて気持ちいい。
ずっとこうしていたいけど、愛すべきモフモフプロデューサー君とは暫しのお別れだ。
「行って来ます!」
帰ってきたら、またうんと遊んであげるからね。
369 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:08:22.71 ID:Zp5PameL0
「みーほちゃん! お誕生日おめでとう!」
「卯月ちゃん! ありがとう!」
4時間目が終わり、学食で何か食べようと立ち上がると軽快な足取りで卯月ちゃんがやって来る。
「ごめんね。本当は昨日言いたかったんだけど、携帯電話壊れちゃって」
そう言って彼女は、見事にひび割れた携帯電話を見せる。
「いやさ……。一昨日女の子にぶつかっちゃってさ、その拍子に携帯落として、しかもその時に踏んじゃって。気分転換に、新しいの買っちゃった」
「それは、大変だったね」
「まーね。でも、新しいのに変えれて良かったかな。使いやすいし、これ」
同じ色の別機種をポケットから出す。CMで見たことのある最新機種だ。
「そうそう。その子結構変わってたんだ。私は気にしてないって言っても、その子は御免なさい、私不幸をまき散らすんです! って言ってきかなかったし」
随分とネガティブな子だ。不幸って伝染するものなのかな?
「北海道からこっちに来たみたいだけど、あんなに急いでどうしたんだろ」
370 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:11:33.84 ID:WHuA5tMt0
「北海道から? 転校してきたのかな」
「かもね。またどっかで会うかも。それでだけど美穂ちゃん。恥ずかしい話、携帯が壊れてアドレスも全部消えちゃったんだ。だからまた教えてくれると嬉しいな」
長電話が趣味な彼女からすれば、それは死活問題だ。
「あっ、ちょっと待って。今送るね」
「ありがとう! ねえ美穂ちゃん、今からご飯食べよ。誕生日プレゼントになるか分からないけど、今日は私が奢るよ」
「そう? それじゃあ、貰っちゃおうかな」
2人で並んで学食へ行く。自分で言うのもなんだけど、アイドル二人並んでいると、結構目立って周囲からの視線を集めてしまう。
「~♪」
「上機嫌だね、卯月ちゃん」
「そう? 私はいつもこんな感じだよ?」
といっても、視線を集めているのは専ら卯月ちゃんの方だ。
ファーストホイッスル出演アイドルと、駆け出しペーペーアイドル。当然の扱いだ。
下手すれば、私がアイドルってことを知らない子もいるんじゃないかな。
371 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:15:08.35 ID:pu8Xk2HK0
「「いただきまーす」」
出来立てのクリームシチューを食べる。温かくて美味しい。心までポカポカしてきそうだ。
隣の卯月ちゃんは、いつの間にか出来たメニュー、熊本ラーメンを食べている。
この学校に転校してきた日に言ったとおり、彼女は学食のおばちゃんたちに頼んだみたいだ。
そこまでして熊本ラーメンを食べたかったのかな。卯月ちゃんの行動力には敬服しちゃう。
「そうだ。前から聞きたかったんだけど、美穂ちゃんのプロデューサーってどんな人?」
「私のプロデューサー?」
「うん。そう言えばあんまりその話したことないなーって思ってさ。良い人?」
「うん。どんな時でも私を信じてくれる、とっても素敵な人。それと」
頭の中に昨日の彼が浮かんでくる。
『……美穂』
『ごめん! 今足踏んだぁ! 踏まれたぁ……』
恥ずかしそうに私を名前で呼んでくれて、困った顔で下手っぴなワルツを踊る彼。
思い出すと、にやけてきちゃう。
372 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:18:32.63 ID:eiHp7f1B0
「ふっふーん。成程ねぇ。乙女してますねぇ」
「え? えっと! う、うう! 卯月ちゃんが思ってるのと、ち、ちが! 違うよ!」
卯月ちゃんは意地の悪い笑みを浮かべる。うぅ、弱み握られちゃったかな……。
「そんな緩んだ顔見せちゃって。全然説得力ないよ? 安心して、これは私たちだけの秘密にしておいてあげるからさ。ホントは良くないことかもしれないけど、私応援するよ?」
「うん。ありがとう」
良くないこと、か。アイドルとなった以上、恋愛はタブーだ。ただ、頭では分かっていても、
この気持ちはどうにもならない。何とも恋心とは、難儀なものだ。
「そう言う卯月ちゃんはどうなの? プロデューサー」
「私のプロデューサー? どう言ったらいいんだろ。一言でいえば、プラダを着た悪魔、かな」
「へ? 映画?」
「いや、そのままの意味だよ。プラダスーツを着た悪魔みたいな人」
悪魔みたいな人ってどういう意味だろう。凄く怖いプロデューサーなのかな。
頭に鬼の生えた彼を想像してみる。うん、全然似合わないや。
373 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:19:46.08 ID:05a4cCXn0
「怖い人?」
「厳しい人だよ。だけど、私たちのことを考えて行動してくれてるし、面倒見は凄く良いかな。凛ちゃんも未央ちゃんも慕ってるしね」
「卯月ちゃんは好きなの?」
「うん。大好きだよ!」
なんだ、卯月ちゃんも乙女してるじゃないか。人のこと言えてないよ?
「でも、美穂ちゃんの好きと私の好きは一緒にはならないかな」
「どういう意味?」
「見たら分かるよ」
卯月ちゃんは携帯を弄って、写真を見せる。
そこに映っていたのは、ステージ衣装に身を包んだNG2の3人と、
「だって、プロデューサー女の人だし」
プラダスーツを着た美女が真面目な顔をして立っていた。
374 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:23:22.10 ID:aBpPTbTe0
「だから、好きになったらそれはそれでいろいろ問題がある、かな?」
「凄い美人……」
「だよね。ホント、プロデューサーがアイドルになっちゃえばいいのにさ。そう思わない?」
アイドルと言うよりかむしろ、その堂々たる佇まいは、大女優そのもの。
写真を見るだけで、妙な迫力がこちらまで感じれた。
「私たちの事務所自体は出来て1年もないんだけど、プロデューサーは若いのに結構凄い経歴の持ち主でさ。これまでにも多くのアイドルをプロデュースして来たんだって」
名前を挙げたら、美穂ちゃんも知っている面々だと思うよ。と言ってプロデュースしてきたアイドルの名前をあげる。
挙げられた名前は全員、テレビで活躍している人たちだ。確かに、この実績は凄い。
「そんな彼女だけど、社長と個人的な親交があったみたいで、その縁で私たちの事務所に来てくれたみたい」
「縁か……。卯月ちゃんたちはラッキーなのかな」
「かもね。実はさ、私って某大手事務所の公開オーディションで落ちた時に、たまたま見ていたプロデューサーに拾われたんだ。貴女には才能が有る、私に賭けてみないかって」
初耳だった。私みたいに、てっきり道端でスカウトされたものかと思ってたけど、
彼女は最初からアイドルになるべく、自分からオーディションを受けてチャンスを狙っていたんだ。
375 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:26:15.22 ID:7t7uHi6D0
「凛ちゃんはプロデューサーが渋谷でスカウトしたんだけど、未央ちゃんも別のオーディションから引っ張ってきたの。だから私たち、プロデューサーに足向けて寝れないんだ」
「そうだったんだ」
そのプロデューサーが有能と言うのは、彼女たちの活躍を見れば一目瞭然。
ファーストホイッスル出演以降、彼女たちをテレビで見ない日はない。
3人セットじゃなくても、どこかしらで必ず一人は出ているぐらいで、
今一番勢いのあるアイドルユニットと言って過言じゃないだろう。
私は彼女たちの活躍を見て、いつ寝ているんだろうと見当違いな感想を抱いたものだ。
「色々あったなぁ。3人で組んでの最初のオーディションは、主催者側のお情けで合格したようなものだったし、ファーストホイッスルも落ちる度、土日を丸々使って強化合宿したり」
「ここまで来たっていうのも実感が全然沸かないや。だってさ、ほんの数か月前まで、私たち会うこともなかったような普通の女の子だったんだよ?」
「それがさ、こう憧れた世界で頑張って来て。ようやく波に乗れてきて。もしかして私たち、夢を見ているのかな?」
胡蝶の夢、か。彼女たちも、戸惑っているんだ。
「……」
どんな時も笑顔を見せる彼女が、時折見せるアンニュイな表情。
こう言ったら彼女に笑われそうだけど、とてもセクシーに思えた。
376 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/05(火) 02:30:04.66 ID:7t7uHi6D0
「卯月ちゃん、えいっ」
「へ? 痛っ!」
「卯月ちゃんたちは凄いよ。これは、夢じゃないよ」
「いだだだ! 美穂ひゃん! ほっぺつねらなひで!」
そんな柄にもないことを言う卯月ちゃんの頬っぺたを、強く引っ張ってやる。
「夢じゃないでしょ?」
「肉体的苦痛を受ける必要はなかったよね……」
虫歯になったみたいに、右の頬を抑える卯月ちゃん。何だかそれが面白い。
「うふふっ」
「あー! 笑ったなぁ! いただき!」
「あっ! 私のクリームシチュー! えいっ!」
「ゆで卵取られた! 美穂ちゃんやったなぁ!!」
やられたらやり返す。気弱な私でも、ハンムラビ法典の精神に乗っ取っているつもりだ。
チャイムが鳴るまで私と卯月ちゃんは、互いのお昼ご飯を奪い合う。
アイドル2人がそんなことしていたものだから、いつの間にかギャラリーも出来ていた。
昼休みが終わって、冷静になる。なんと恥ずかしいことをしていたのかと、顔が赤くなってしまうのは、いつものことだ。
382 : 時間空いたから少しだけ投下 ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:21:03.30 ID:Q9PUFEK40
――
「そうですか。渋谷凛がソロデビューですか」
「はい。ファーストホイッスルのオーディションに受かって、そこで発表するみたいです」
事務所にて、俺はちひろさん達とお土産の陣太鼓を食べながら、ライブの映像を見ていた。
たまたま終わったぐらいのタイミングで、トレーナーさんが事務所に来た。
どうやら、俺に報告したいことが有るとのことだった。
渋谷凛、ソロデビュー。
俺たちが熊本に行っている間に行われたファーストホイッスルオーディションにて、彼女は再び合格したらしい。
「なるほど、向こうはNG2としてだけでなく、個々のアイドルの活動としてもプロデュースしていく方針のようだね」
「そうみたいですね、社長。つまり、次は島村卯月と本田未央のどちらかが、ソロでやって来ると言うことですか」
それぐらい容易に想像がつく。
本来なら、慌ててソロデビューをするよりかは、じっくり時間をかけて行う方が戦略としては正しいだろう。
しかし彼女たちは、トライエイト。IA全制覇とIU制覇をもくろむ集団だ。この時期にソロで出すということは、
ソロでのファンを増やし、そのままNG2の売り上げに取り込むと言う戦法だろう。
「恐らくは。別に彼女たちぐらいの売れっ子ならば、どの番組に出てもいいのですが、敢えてファーストホイッスルに出ると言うあたり、本気度がうかがえますね」
383 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:28:40.43 ID:h1C+uALE0
3人ユニットをまとめ上げるだけでも相当な物なのに、今度は3人別々にプロデュースと来た。
その上ファーストホイッスルに出演と言うことだ。ベテランやスターダムに立つアイドル達ですら、
2度と受けたくないと躊躇するあのオーディションを、渋谷凛は制したのだ。
「タケダ氏の性格を考えれば分かると思いますが、一度合格したからと言っても、2度同じように出演させるというのは、かなりレアなケースです」
「彼が気に入ったアイドルでも、要求されるレベルに達しなかった場合、容赦なく落とします」
「渋谷さんはユニットでとは言え、一度合格したアイドルです。絶対に落とせないそのプレッシャーの中、彼女のパフォーマンスは見事な物でした。私が今まで見てきたアイドルの中で、最高峰と言っても差し支えありません」
「最高峰、ですか」
トレーナーさんがそこまで言うんだ。本放送の日はチェックしておかないと。
「まぁ私もこの業界に入って日が浅いので、見分が狭いと言うのもありますけどね。それに、今の小日向さんなら、ファーストホイッスルに合格する日も遠くないと思っていますよ」
昨日のライブと同じぐらい、自分のパフォーマンスが出来たなら、美穂も並み居る強敵たちと渡り合えるだろう。
それに、彼女にはNaked Romanceがある。曲に頼り切ってしまうのはいけないが、他のアイドルにはない美穂だけの切り札だ。
「うむ。やはり、あの曲の力は大きいね。小日向くんも短期間で、見事に自分の曲にして見せた。簡単なように見えて、それって難しいことなんだ」
そればっかりは、俺には分からない感覚だ。なんせ美穂は、Naked Romanceとの組み合わせが良かったのか、
渡されてからあっという間に曲を完成させてしまった。
美穂からすれば、新しい英単語を覚えるようなことだったかもしれないな。
384 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:34:48.80 ID:h1C+uALE0
確かに、高い歌唱力、上手なダンス、ずば抜けたビジュアルを持っている美穂以上のアイドルはたくさんいるだろう。
だけど、この曲を一番可愛く素敵に歌えるのは、美穂しかいないはずだ。
「今の勢いなら、きっと乗り越えられますよ! 頑張りましょう、プロデューサーさん!」
「うむ。CDデビューも近い。来年2月に行われるIAのノミネート発表に間に合うか分からないが、とにかく小日向くんと新曲を、方々にアピールするんだ」
「デビュー時期が遅かったとはいえ、残された期間は短いです。私もレッスン内容を詰めますので、プロデューサーはスケジュール管理をしっかりとお願いします」
「はい」
IAにノミネートされるには、ある週のチャートでランク20までに入り込まないといけない。
正直今の実績じゃ、そんなこと夢のまた夢だが、ファーストホイッスルに合格してそこで発表できれば、
世間の美穂への関心は、劇的なまでに上がるはずだ。
これまでファーストホイッスルに合格したアイドルは、放送後ランクが一気に上がる傾向にある。
どこまでブーストが効くか分からないが、賭けてみる価値はあるな。
加えて、美穂はまだ知らないかもしれないが、実はファーストホイッスルは来年から全国で放送されるようになる。
熊本のようにこれまで映らなかった地域でも、放送されるのだ。
つまり、全国的にファンを増やすことが出来、ブーストの効力も強くなるはずだ。
逆に言えば、それは他のアイドルも同じこと。これまで以上に、熾烈な競争が予想される。
385 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:37:19.10 ID:wMUZ0ThU0
だけど、美穂ならいける。やれるんだ。そう思えば、不思議と勇気が湧いてくる。
「~~♪」
DVDの中の彼女は、恥ずかしそうにしながらも、集まった観客を魅了している。
高校だけじゃない。ちゃんとテレビに出て、みんなに自慢しなきゃ勿体無い。
「それが俺の責任だよな」
俺が見出した女の子は、こんなに可愛くて素敵なんだってね。
「こんにちわ!」
夕方ごろ、美穂が事務所へ駆けてくる。走って来たようで、息も切れ切れで肩で呼吸をしている。
「おっ、来たか。それじゃ、反省会と行きますか」
「えっと、それなんですけど……」
「ん? どうかした?」
「今日はお客さんがいると言いますか……」
「あっ、失礼しまーす!」
386 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:41:55.17 ID:9UBfSnyj0
ドアの陰からひょっこりと、美穂と同じ制服を着た少女が現れる。
「へ? 島村卯月? 何で?」
同じ高校だから、制服が同じなのはまぁ良い。いや、それよりも何で彼女がここにいるんだ?
「今日はオフなんです。だから、美穂ちゃんの事務所に遊びに来ちゃいました。貴方が美穂ちゃんのプロデューサーさんですか? 初めまして、島村卯月です!」
早口で説明して、ぺこりとお辞儀をする島村卯月。初めましてと言われても、彼女は今を時めく人気アイドルだ。
美穂と同世代のアイドルと言うことで、テレビでいつも活動をチェックしているため、あまりそんな気がしない。
しかし直接会ったのは初めてだけど……、思ってた以上にオーラがないな。
良くも悪くも庶民的と言うか。そこが彼女の魅力なんだろうけど。
「えっと……、どうも。美穂のプロデューサーです。学校では美穂がいろいろ世話になってるみたいで」
「とんでもない! 私の方こそ、美穂ちゃんにいろいろ助けてもらってますよ! あっ、これお土産です」
「ご丁寧にどうも。だけどこれは、結構高い奴じゃない?」
「お近づきのしるしにです。うちのプロデューサーからも、お土産は値段に誠意が出るって言われてますし。後で事務所に請求しますからお気になさらず」
渡されたお土産はテレビでも紹介された、割と値の張るお菓子だ。
女子高生がホイホイ買えるものでもないが、財布に余程余裕があるのだろうか。
387 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:43:41.27 ID:h1C+uALE0
「卯月ちゃんのプロデューサー、凄い人なんですよ」
「ああ、よく知ってるよ。会ったことは無いけどね」
業界入りたての頃は知らなかったが、NG2のプロデューサーは、かなりの凄腕で評判だ。
彼女たちだけじゃなくて、それまでに多くのアイドルをスターダムに輩出した、いわばエリートプロデューサー。
「今最も勢いのあるアイドルがNG2ならば、今一番勢いのあるプロデューサーは間違いなく彼女だろうね。私も彼女のことは良く知っているよ」
社長は懐かしむように言う。
彼のことは全くと言っていいほど知らないけど、もしかしたらNG2プロデューサーとも接点があるのかもしれない。
それなら、彼女がここで働いても良かった気がするが、先に取られちゃったのかな。
「こんにちわ。お茶は飲みますか?」
「あっ、わざわざすみません。それじゃあ、頂いちゃいます」
「ちひろさんのお茶、すごく美味しいんだ。卯月ちゃんも気に入るよ」
「……美味しい! こんなに美味しいお茶、初めてかも!」
「ふふっ、ありがとうございます」
屈託の無い眩しい笑顔を見せる卯月ちゃんのせいで、何故か裏にどす黒いものを感じさせるちひろさんの笑顔が際立ってしまった。
言ったら怒られそうなので、黙っておくけど。
388 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:49:20.91 ID:wM3QKd0d0
「そうそう。おたくの事務所の凛ちゃん、ソロデビューするんでしょ? 3人プロデュースして、今度は個人でも曲を出すとは、大変じゃないかな?」
「え? そうなの、卯月ちゃん」
美穂は知らなかったみたいで、隣の彼女に確認を取る。
「あれ? それテレビで言ってましたっけ?」
卯月ちゃんは頭に?マークを浮かべる。そう言えば、まだ各メディアで発表していないのか。
「トレーナーさんが教えてくれたんだ。先日、彼女がファーストホイッスルのオーディションにソロで合格したってね」
「やっぱりそう思いますか? 正解です!」
「つまりそれって、卯月ちゃんもソロデビューするって事?」
何かを考えるように、卯月ちゃんは目を瞑る。少しして、目を開くとニコリと笑う。
「別に言っても大丈夫かな? 別に禁止されてないし。プロデューサーさんの言うように、うちの事務所はNG2の3人のソロデビューを決定したんです」
「その第一弾が凛ちゃん、第二段が私、トリを務めるのが未央ちゃんなんです。私も近いうちにファーストホイッスルのオーディションが有るんですよ」
389 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:50:42.67 ID:wM3QKd0d0
「そうなんだ。怖くない?」
「前は3人だったから、怖くないと言えば嘘になっちゃうけど。でも、夢が叶うところまであと一歩なんです。だから、楽しみですよ私」
やっぱり彼女は凄い子だ。怖いだなんて言ってても、目の前の夢から逃げずに立ち向かおうとしている。
「頑張ってね、卯月ちゃん。私も、頑張るから」
「うん。一緒に頑張ろう、美穂ちゃん」
仲良くハイタッチする2人。きっと彼女は、美穂にいい影響を与えてくれるはずだ。
転校先に卯月ちゃんがいたのは、本当に偶然のことだけど、つくづく人の縁に恵まれている子だ。
「それじゃ、昨日のライブ再生するかな。卯月ちゃんも見る?」
「あっ、良いんですか? 美穂ちゃんのステージを見るのって、初めてなんですよね」
「卯月ちゃんも見るの? なんだか恥ずかしいかも」
「もう、美穂ちゃんったら。私との間に、恥じらいは無しだよ?」
「それじゃあ、小日向美穂クリスマスライブの始まり始まり~」
390 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:54:06.45 ID:k1Uy2Q8M0
JKコンビは映画館と勘違いしているのか、ソファーに座りお菓子を食べながら待っている。
「んじゃ再生するよ」
DVDを再生。高校生が撮影した作品であるため、カメラワーク等は仕方ないが、それでもよく撮れているもんだ。
ただ美穂はカメラの存在に気付いていなかったみたいで、カメラ目線になることはそんなになかった。
「この衣装可愛いね」
「これ、学校の皆が作ってくれたんだ」
「良いなぁ。私も作って貰おうかな?」
反省会と銘打ったものの、女子高生2人が静かに見ているわけがない。美穂も1人の観客として、自分のステージを楽しんでいるみたいだ。
「まっ、これはこれでいっか」
流れてくる曲を一緒に歌ったり、MCで噛んだ彼女を笑ったり。2人は仲睦まじくライブを見ている。
どこが悪かったかと聞かれると、どこも悪くなかったって答えそうだ。
「ふぅ、楽しかったな。美穂ちゃんの普段見れない部分が見れて良かった」
うーんと気持ちよさそうに背伸びをする卯月ちゃんと美穂。案外2人は似ているのかな。いや、それとも似てきたのか。
391 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:57:29.27 ID:wMUZ0ThU0
「昨日のライブは凄く盛り上がったけど、苦手なダンスやアピールのタイミングがずれたりと課題は残ってる。オーディションではそこも見られるからね」
前回のオーディションは評価以前の問題だったが、こうやってライブを成功させることは出来た。
美穂にとって大きな自信になってるはずだし、こっちには美穂の魅力を120%引き出せる切り札が有る。
「次にファーストホイッスルオーディションを受ける時、前と一緒じゃ意味がないからさ。明日からまたレッスンに営業に忙しくなるけど、しっかりついて来ること。いいね?」
「はい!」
「いい返事だ! それじゃあ、今日はもう上がっても大丈夫だよ。明日に向けて、しっかり休んでね」
「えっと、それじゃあ失礼しますね」
「美穂ちゃん、今日美穂ちゃんちに泊まっても良い?」
「え? 良いけど、卯月ちゃんの家は大丈夫なの?」
「家結構放任主義だから大丈夫だよ。明日美穂ちゃんの家から学校に行けばいいしね」
「そう?」
「だから、今日は色々話そうよ!」
恋人みたいに腕を組んで(卯月ちゃんが一方的にだが)事務所を出る2人。
あんまり夜更かしするなよ、と言っても無駄かなぁ。卯月ちゃん、朝まで起きてそうだし。
392 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 12:59:59.58 ID:wMUZ0ThU0
「ホント仲良いですね、2人」
「仲良きことは美しき哉。うちの事務所は他にアイドルがいないからね。小日向くんにとっては、島村くんとの関係はアイドル活動に潤いをもたらしてくれる大事な絆だよ」
「ですね。結構感謝してるんですよ、卯月ちゃんには」
実力もネームバリューも、今はまだまだ差がある。だけどいつか、この2人で組んでみるのも悪くないかもしれない。
それを、向こうのプロデューサーが受け入れるかどうかは分からないが。
鼻で笑われないように、着実に実力をつけて行かないと。
「スケジュール確認して帰るか」
仕事はあらかた片づけたので、たまには俺も早く帰ろう。
「来週はクリスマスイブか」
聖なる夜なんて言っても、俺達は普通に過ごすんだろうな。こういう時だけ、恋人がいればと思ってしまう。
「そうだ! パーティーなんてどうですか? 美穂ちゃんさえよければですけど!」
ちひろさんがお茶を煎れながらそんなことを言う。パーティーか、悪くないかな。
393 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 13:02:03.22 ID:wMUZ0ThU0
「俺は何もないですけど、ちひろさんはあるんじゃないですか? クリスマスに予定とか」
「有りませんよ! 私は仕事が恋人ですから! プレゼント交換とか楽しいじゃないですか」
ちひろさんぐらい可愛い人なら、男も放っておかないと思ったけど、彼女はさほど異性に興味がないらしい。
そういや、浮いた話何一つ聞かないもんな。と言うより、プライベートが謎に包まれ過ぎている。
「良いじゃないか、クリスマスパーティー。仕事が終わった後、事務所に来なさい。私は飾りつけを担当しよう」
「それじゃあ私はメニューを用意しますね! 美味しいもの、持ってきますよ!」
「ははは、決定なんですね」
社長も乗り気みたいだ。しかし……。
「私の顔に何かついているかね?」
「いや、サンタクロースってこんな感じなのかなって思って」
「?」
サンタ服を着て髭を生やせば、子供に追っかけられそうだなこの人。ただ俺と違って、プレゼントをくれそうな気もする。
394 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 13:06:17.94 ID:wMUZ0ThU0
「とりあえず連絡しておきますか」
もしかしたら美穂もクラスの皆とクリスマスを過ごす予定が有ったり、卯月ちゃんと過ごすということもあるかもしれない。
いや、もしくは……。
「……男と2人で過ごすとか、無いよな?」
一番洒落にならないケースだ。他人の色恋に口出しするのもあれだけど、
『性の6時間です!』
「のわあああ!! ウソダドンドコドーン!!」
もしそうならば、立ち直れなくなりそうだ。親父さんの気持ち、良く分かりました。
「有り得ませんよ! 美穂ちゃんが一緒にいたい人は……」
「へ? 居たい人は?」
「ふふっ、自分で考えてくださいね!」
「もったいぶらないでくださいよ!」
ちひろさんは鼻歌を歌いながら、事務所の掃除を始める。えっと、とりあえずは安心していいのかな?
395 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/06(水) 13:07:58.79 ID:wMUZ0ThU0
しばらくして、美穂から返事が返ってきた。
『行きます!』
語尾にはいつか俺が使ったクマの絵文字がデコレートされている。美穂はクリスマスパーティー参加、と。
「クリスマスに女子高生と過ごすことになるなんてな」
ヤラシイ意味はない。恋人同士のクリスマスと言うよりかは、家族で過ごすようなものだ。
社長パパがいて、トレーナーママがいて。ちひろさんは……、姉か妹かのどっちかで、美穂は末っ子だ。
だから、決して特別な意味はないんだけど……。
「入れ込み過ぎなのかな……」
美穂は可愛いし、良い子だ。それは誰よりも理解している。きっと同級生だったなら、間違いなく恋をしていただろう。
だけど、それ以上を求めちゃいけない、美穂は俺だけのものじゃない。いずれこの国に名を轟かすアイドルだ。
誰からも愛されて、彼女もファンを愛して。抜け駆けは、ご法度。
俺はプロデューサーなんだぞ? 理性をちゃんと保っておかないと。
「どっかで飯食って帰ろうかな。ちひろさんもどうです?」
「そうですね、少し事務作業が有るんで、その後で良いですか?」
「じゃあそれで。どこか美味しいところないですかね?」
「おお、それなら良い所があるよ。今日は私のおごりだ、存分に食べたまえ」
何時の間にやら社長もパーティーインしていた。そう言えば、この3人でどこかで食べるって言うのは初めてかもしれない。
399 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 01:32:48.47 ID:mi1pCfax0
ちひろさんの仕事を手伝って、早く終わらせる。
社長に連れられて入ったのは、政治家が秘密の会合をしていそうな、高級料亭だった。
「い、良いんですか? 凄く場違いな気がするんですけど」
「構わんよ。ささっ、財布のことは気にしないでくれ」
社長はそう言うけど、俺とちひろさんは緊張しっぱなしだ。
粗相をやらかさないか?
マナーを注意されるんじゃないか?
わいわい楽しく食べれればいいなと考えていたのに、却って息がつまりそうだ。
まぁそんな心配事も、美味しい料理とお酒の前では消えてしまうのだが。
「こんな美味しい料理、初めてです!」
「だろう? 私も昔からよく通っていてね。老舗でありながら、その名前に胡坐をかかず、進化し続けている。日に日に美味しくなる料亭なんか、ここぐらいじゃないかな」
社長はお酒を飲んで、顔を赤らめている。隣に座るちひろさんは、瓶のオレンジジュースをちまちまと飲んでいる。
400 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 01:47:00.73 ID:mi1pCfax0
「ちひろさん、お酒飲めないんですか?」
「はい。私、未成年ですから」
バヤリース片手に、ニコリと笑って答えるちひろさん。そうか、未成年だったのか……。
「ええ!? そうだったんですか!? てっきり年上かと……」
「ふふっ、冗談ですよ。でも年上に見られていたなんて、少し悲しいです」
「あっ、いや。それは……。ほら、ちひろさん仕事もしっかりしてますし! 大人の魅力ってやつですよ!」
「ふふっ、そうですか? 喜んで受けておきますね」
色気よりかは可愛さの方が強いけど、誤魔化しておく。未成年と言われても、違和感はない。
試しに美穂のベージュ色した制服を着せてみる。うん、幼く見えるかな。
美穂、卯月ちゃん、ちひろさんの3人で並んで、成人は誰か? と道行く人に聴けば、きっと答えが割れるはずだ。
ただ、さっきも言ったように仕事に対する姿勢や、美穂や俺に接する態度から、年上と思っていた。
実際俺より1つ2つ上だろうし。
「さぁ飲みたまえ! 今日は私のおごりだぞ!」
社長は見えない誰かと話している。これは、送って帰らなくちゃいけないか?
401 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 01:54:43.25 ID:mi1pCfax0
「ふぅ、食った食った……」
料亭での食事を終わらせ、タクシーで家へと帰る。結構食べたが、社長は本当に全額払ってくれた。
うちの事務所には現在利益がほとんどないが、社長だけあって元々の資産が多いのだろう。
『これで頼むよ』
一瞬だけチラッと見えた黒いカードが、それを物語っている。
「今頃2人は恋バナでもしているのかね」
ゆんたくパーティー中の2人を思い浮かべる。女子が2人集まれば、1人足りなくても姦しくなる。
特に卯月ちゃんはその手の話題がすきそうだ。美穂は恥ずかしがりながら、一方的に追い詰められていることだろう。
「好きな人、いたりするのかね?」
この業界で恋愛は非常に線引きが難しいトピックだと思う。
男性アイドルに関しては、多少認められている(当然ファンからしたら堪ったものじゃないが)のに、
女性アイドルが色恋沙汰となれば、間違いなく炎上する。
まったく、恋は盲目とは良く言ったものだ。
偶像崇拝が行き過ぎたファンは、彼女たちに清らかであることを望み続ける。
『自分のものにならなくても、誰かのものにならなければ、それでいい』
そう考えてしまうんだ。
402 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 01:59:48.28 ID:mi1pCfax0
アイドルである前に1人の女の子だ――。
そんな理屈も、『だったらアイドル辞めちまえ!』という暴論で、強引に論破されてしまう。
「どれが正しいのかな」
ファンが見ているのは、テレビやステージに上がっているアイドルだ。
そのプライベートな部分は、知れば知るほど、彼女たちへの失望も大きくなる。
「その域にも達していないけどさ」
記者からすれば、無名アイドルの恋愛ネタなんて面白くもなんともない。パパラッチに狙われるようになると、ある意味一人前になったという証拠でもあるのだ。
「あれ? メールが来てた。美穂からだ」
何の気なしに携帯を開けると、受信件数一件。料亭で鳴らすと迷惑になる気がして、マナーにしていたんだっけか。
「仲良さそうで何よりだな」
添付されたファイルには、クマの絵がプリントされた御揃いのパジャマに着替えて、仲良くピースをする2人の写メが。
眩い笑顔の卯月ちゃんに対して、美穂は柔らかく微笑んでいる。
「あっ、クマさんだ」
枕元には、件のクマさんが自己主張していた。
403 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:06:51.72 ID:mi1pCfax0
「全く。早く寝ないさい、と。」
お泊り会が楽しみなのも分かるけど、アイドルの資本は身体だ。
はしゃぎ過ぎて体調崩しちゃ本末転倒、流石の俺も怒鳴らざるを得ない。
「羨ましいなぁ、こういうの」
しかしまぁ、大目に見てやるか。なんだかんだ言っても、美穂は自分のことは自分で管理できるし。
それに、大人になると、こんなことも出来なくなる。
仕事が終わって家に帰っても、毎晩毎晩明日のことを考えて、つかの間の休みを楽しむ余裕は減っていく。
だから彼女たちが素直に良いなと思ってしまった。別に昔は良かった、楽しかったと言うつもりはないけど、
この歳になってしまえば、青春なんて言葉は俺には似合わない。
まだまだ若いけど、それでも10代と20代の壁は、高いんだ。あの頃には、戻れやしない。
「変わらなくいて欲しいもんだな」
これから先、どんな困難があっても、2人を引き裂く非常な選択が有っても。
それでも卯月ちゃんと美穂は、ずっと親友で有り続けるだろう。
404 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:11:24.96 ID:mi1pCfax0
――
「美穂ちゃん、寝た?」
「ううん。卯月ちゃん、眠れない?」
「はしゃぎすぎちゃったかなぁ。目が覚めちゃった」
「私もかな。明日も学校あるのにね」
「もう少し話そうよ」
いつもは1人の部屋に、今日は卯月ちゃんが泊まっている。
この部屋に住み始めて、誰かを家に上げたのは初日のプロデューサー以来のことだった。
お泊りとなると、卯月ちゃんが初めてだ。
『そうだ! 今からゲーセン行かない?』
卯月ちゃんの思いつきで、反省会の後私たちは、事務所の近くのゲームセンターで思いっきり遊ぶことにした。
協力プレイでシューティングゲームをして2人ともまとめて瞬殺されたり、エアホッケーをして大敗したり、
リズムゲームで戦って均衡した勝負をしたり。
アイドルじゃなくて、普通の女の子としてつかの間の休みをエンジョイした。
405 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:14:27.34 ID:mi1pCfax0
『はい、チーズ!』
2人で撮ったプリクラは、私のスケジュール帳に貼られた彼とのプリクラの隣に、ピタリと貼られている。私の宝物が、また1つ増えた瞬間だ。
バス停の近くのファミレスで晩御飯を食べて、銭湯に入って。
私の部屋の風呂は、1人暮らし仕様なため、2人で入るにはかなり狭く、
『なら銭湯に行こうよ!』
と、卯月ちゃんの鶴の一声で決まった。
私たちが入った時は偶々すいていたので、広いお風呂を2人だけで堪能することが出来た。
『ふぅー! 広いねー! ねぇ、泳いで競争しない?』
『い、いくら誰もいないからって、それはどうかな……』
実は泳ぎたくなる気持ちも分かるけど、流石に子供みたいなのでやめておく。
『じゃあ一人で泳ごうかな。って足釣った!』
『卯月ちゃん! 大丈夫!?』
湯船は浅いので、事なきを得る。準備運動は大切だよね。
406 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:16:49.12 ID:mi1pCfax0
家に帰って来た私たちは、御揃いのパジャマに着替えて、日が変わるまで他愛のない話をし続けた。
と言っても、8割ほどが私とプロデューサーとの事の話題だったけど。
『美穂ちゃんはどこが好きなの?』
『手を握った?』
『出会った時のことを教えてよ!!』
卯月ちゃんはこちらに反撃のチャンスを与えず、矢継ぎ早に聞いてくる。
『ほ、他の話とか無いの?』
『ないよー! だってさ、恋バナが一番楽しいじゃん!』
『卯月ちゃんは聞いてるだけじゃんかぁ。卯月ちゃんは無いの?』
と私が反撃したところで、
『私は仕事が恋人だから!』
『もう!』
お手本のような返答を帰してくる。卯月ちゃん、汚いよ。
時計は静かに時を刻み、気が付くと2時前だ。寝よう寝ようとしても、2人ともなかなか眠れずにいた。
いつもの私なら、ベッドに入るとすぐに寝ちゃうのに。卯月ちゃんがいるからかな。
407 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:19:28.87 ID:mi1pCfax0
「そのクマさんって抱き心地良い?」
「うん。すっごく癒されちゃう」
モフモフした我が家のアイドルプロデューサーくんを抱きしめて、眠ろうとする。
そろそろ寝ないと、明日に支障が出ちゃいそうだ。
夜更かししてしんどいからレッスン休みますなんて言えば、トレーナーさんやプロデューサーに何を言われるか。
温厚な彼でも、流石に怒ると思う。
「寝付けないけど、目を瞑れば眠れるかな。美穂ちゃん、おやすみ」
「うん。おやすみ」
1人用のベッドで、くっつくように眠る。私はベッドの下で寝ても良かったんだけど、卯月ちゃんが風邪ひくからと言って2人で使うことになった。私は壁側だから大丈夫だけど、卯月ちゃんは転がるとそのまま落ちてしまう。
「すぅ……」
「こ、こっちなら落ちない、かな?」
卯月ちゃんの防衛本能がそうさせているのか、私の方に転がって寝息を立てる。
隣の彼女の呼吸と暖かさを感じながら、私も夢の世界へと旅立った。
408 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:22:32.78 ID:mi1pCfax0
12月24日、世間は浮かれるクリスマス。日本では、この日だけキリスト教信者が増えると言う。
先週の誕生日が高校のクリスマスパーティーと被っていたこともあって、私の中でクリスマスは、
既に終わったような感覚でいた。もういくつ寝るとお正月だ。また年が変わってしまう。
「それじゃあ、来年の活躍を願って……、乾杯!」
「「乾杯!」」
「か、乾杯です!」
それでも目の前に、豪勢なパーティー料理が出されていると、今日は特別な日なんだと意識せざるを得ない。
別に何回でもそういう日があっても良いかな。
「これ、ちひろさんの手作りなんですか?」
「はい! 腕によりをかけて作っちゃいました。といっても、所々買ってきたのもありますけどね」
そうは言うものの、半分以上の料理はちひろさん作だ。
仕事だけでなく料理も出来るとは、流石ちひろさんと言うべきか。
理想の女性像を実体化したみたいで、憧れてしまう。
私もこれぐらい作れればなぁ……。
409 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:26:22.34 ID:mi1pCfax0
「そうだ。美穂、ファンからクリスマスプレゼントが届いているよ」
「え? ファンですか? 私に?」
「そんなに驚くことは無いだろ? 派手とは言えないけど、これまで地道に活動してきたんだ。曲を出さなくても、付くファンもいるさ。ほら、これなんかさ。手紙付きだよ」
手紙を見ると、子供からのメッセージ。一緒についていたお母さんの手紙には、
いつぞやのデパートではご迷惑をおかけしましたと書かれていた。
デパート、迷惑……。
「あの子、かな?」
「あー。ステージで暴れまわった子か。あの時を思い出すと古傷が痛むよ……」
幼稚園児ぐらいだったかな? まだ慣れていないひらがなで、不器用ながらも私への応援が書かれていた。
「これは嬉しいです」
「美穂の絵か。結構特徴掴んでるんじゃないか?」
「えー? そうですか?」
プレゼントは、色とりどりのクレヨンで私の顔が描かれている色紙だ。
似ているかと聞かれると、反応に困っちゃうけど素直に嬉しい。
410 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:27:57.26 ID:mi1pCfax0
「これまでやって来た営業や活動の成果だよ。安心しなよ、美穂。君を応援してくれる人は、たくさんいるんだよ」
「はい」
クリスマスプレゼントの量は存外に多く、持ち運べそうにない。
なので後でプロデューサーが車に乗せて運んでくれることになった。帰ってから開けてみよう。
「おお、そうだった。今日はファーストホイッスルの特番だったね」
社長は思い出したかのように言うと、テレビの電源をつける。
「あの人たちだ」
タケダさんに紹介されているのは、先のオーディションに合格したアイドルたちだ。
だから顔を憶えているし、とりわけ諸星きらりちゃんは印象に残っている。
そう言えば、渋谷凛ちゃんの放送はいつになるんだろう。次かな?
『にょわー☆』
『ほう。いいセンスだ、掛け値なしに』
マイペースすぎるきらりちゃんに対しても、タケダさんは淡々と進行する。
温度差が違い過ぎて、一種の放送事故みたいだ。
411 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:32:15.70 ID:mi1pCfax0
「なるほど、タケダさんが気に入りそうな子だね」
「社長?」
タケダさん、きらりちゃんみたいな人が好みなのかな。
「いや、昔のことを思い出してね。確かに、彼女のキャラクターと、タケダさんの理想は一致しているかもしれないな。時代を経ても老若男女問わず口ずさめる音楽。彼女のような天真爛漫なアイドルには、もってこいだ」
ステージ上で踊る、いや縦横無尽に暴れてる彼女はとにかく楽しそうだ。
『にょわー☆』みたいな独特の口調も、子供受けは良さそうだし、なんだかんだ言っても実力が桁違い。
恐らく今日の特番も、彼女の独壇場と言ってもいいはずだ。
他のアイドルも凄い。アピールやダンスも参考になる。だけどそれ以上に、彼女は目立ってしまう。そう言う星のもと生まれたんだろう。
色物なんかで終わらせないパフォーマンスを持って、彼女は完成するんだ。
「……」
改めて私が乗り越えようとしている試練が、途方もないぐらい険しいことを痛感させられる。
抜け道なんてどこにもない、直球勝負のステージ。私は、そこに立たないといけない。
412 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/08(金) 02:33:48.06 ID:mi1pCfax0
「はいはい、そこまで。そんな深刻な表情しないの!」
不安に苛まれて、難しい顔をしていたのかな。私の顔を一瞥して、プロデューサーは呆れたみたいに笑う。
「美穂だって負けちゃいないよ。諸星きらりと同じぐらい、いやそれ以上にステージを楽しめれば。見ている人も幸せになれるはず」
「ほら、幸せって人から人へと渡っていくものだと思うんだ。だから、そんな浮かない顔してちゃ、楽しめるものも楽しめないよ?」
「だからさ、笑って笑って! 今日はクリスマスなんだよ? だから、パーッと楽しまなくちゃ。ね?」
プロデューサーはそう言うと、リモコンを片手にテレビを消す。
きらりちゃんの消えたテレビの液晶には、渋い顔をした私がほんのりと映っていた。
「ううん。ダメですよね、後ろ向きになっちゃ」
後ろ向いても何も始まらない。真っ直ぐ目標を見据えよう。
「美穂ちゃん、ジュースとお茶、どっちが良いですか?」
「あっ。それじゃあオレンジジュースで」
だけど今すべきことは、パーティーをとことん楽しむこと。この日を逃したら、また1年間待たなくちゃいけない。
「ん? どうした?」
「ふふっ、何でもないですよ?」
それでも、私の隣に彼がいるのなら。特別な日なんかじゃなくても、素敵に世界は彩られる。
365日全てが、スペシャルな日。明日を、未来を心待ちに出来ちゃいそうだ。
417 : 9話 ファーストホイッスル~美穂と未央と、ときどきとときん ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:20:17.39 ID:qXgxmKRw0
年末。私は仕事がないので、熊本へと帰って実家で年を越す。
家族と過ごすことが出来たのは嬉しいけど、アイドルとしては、スケジュールが空いていたのは残念で仕方ない。
「いつか私も立つのかな」
年越しそばを食べながら紅白歌合戦を見て呟く。大御所歌手から、今を時めくアイドルまで。
今年を沸かしたオールスター夢の競演だ。
そしてそのステージには、彼女たちもいた。
「あっ、卯月ちゃん!」
NG2の3人も、紅白に出場している。しかも初出場枠と言うことで、名誉ある紅組のトップバッターを務めている。
結成して1年と3ヵ月ほど、CDデビューも9月に果たしたばかりの超スピード参戦だ。
『こ、この舞台に上がれて嬉しいです?』
『精いっぱい頑張りましゅ!』
『は、はぴっ! はっぴーにゅーにゃあ!?』
舞台慣れしているであろう彼女達からも、この大舞台は別格らしく、緊張がありありと伝わってくる。
だけど一度音楽が流れると、さっきまでの緊張はどこへやら、3人は完璧なパフォーマンスでオーディエンスを魅せた。
418 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:28:27.45 ID:qXgxmKRw0
「やっぱり凄いな……」
トレーナーさんが言うには、来年発表されるIA大賞最有力候補が彼女達らしい。
紅白歌合戦にも出るぐらいの知名度と実力だ。全部門制覇も十分あり得るみたいだ。
「そんな卯月ちゃんが家に泊まりに来たんだよね」
実はアイドルとしての卯月ちゃんを、直で見たことは無い。だからテレビの中やラジオ越しの遠い存在というよりも、
隣のクラスの卯月ちゃんって感覚の方が強いのだ。
「自慢できちゃうかも」
そんなのんきに構えてられる場合じゃないけど。
『ありがとうございましたー! よいお年をー!!』
気が付くと0時になっていて、一年が終わり新しい年が始まった。今は回線が混雑しているだろうから、明日の朝、みんなにあけましておめでとうとメールを送ろう。
今年もよろしくお願いしますね、プロデューサー。
「私も頑張らなきゃ!!」
輝くステージで最高のパフォーマンスを見せた彼女たちに刺激を貰う。私も早く追い付かなくちゃ!
419 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:29:58.17 ID:qXgxmKRw0
「発売、されちゃいましたね」
「ああ。CDデビュー、おめでとう」
「本当に、早いですね」
1月23日、私はついにCDデビューを果たした。
ランキングが出るのはまだ先だけど、私たちは製品化されたCDを感無量と言った気持ちで見ていた。
「Naked RomanceがCDショップに並ぶんだよ。こうさ、美穂の写真のジャケットがみんなの手に届くんだ」
私の歌声が世間へと流通する。不思議な感覚だ。帰りにCDショップに寄ってみよう。
そこで見つけないと、これが夢の世界じゃないかと思ってしまうから。
「集計が出るのはまだ先だけど、それまでの間テレビに出たりフェスに参加したりして、名前を売らなくちゃいけない」
「最初のリリースだから、きっと望んだような結果が出ないかもしれないけど、やれることはやっていこうな」
「はい!」
スケジュール帳には白い部分が殆どなく、びっしりと予定が詰まっている。次の休みは当分先だ。
そして2月には、ファーストホイッスルオーディションが待っている。
怖いかと聞かれると、そんなことはないと答えることは出来ない。
だけど同時に、楽しみと思えるようにもなって来た。この曲で誰かが幸せになれるのなら、私は頑張れる。
420 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:34:30.98 ID:qXgxmKRw0
――
1月終わり。俺はファーストホイッスルのオーディションを見に来ていた。
ライバルたちの力量を見定める目的もあるけど、一番の目的はオーディション後に行われる抽選会だ。
来週、俺たちはファーストホイッスルに再挑戦する。
美穂は十分力をつけてきたし、IAのノミネート条件である、ランキング20位以内に入らなければいけない週、
俗にいう運命の36週にギリギリ間に合うのが、来週の放送だ。
つまり裏を返せば、その日は今まで以上の混戦が予想される。
勝てばかなりのブーストが期待できるが、負ければそれまでの事だ。
俺たち以外のプロダクションも、ラストチャンスとこの放送枠を狙っている。
それはそうと。美穂は今日受けなくて運が良かったかもしれない。
「凛ちゃんに続いて、卯月ちゃんも合格と来たか」
NG2のソロデビューラッシュ第2弾、島村卯月。
普段の彼女からはオーラなんて大層なものは感じないけど、いざパフォーマンスを始めると、
アイドルとして強く輝きだす。
今日のオーディション内容に順位をつけるなら、間違いなく彼女が1等賞だ。
421 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:36:26.01 ID:qXgxmKRw0
もしこの場に美穂がいたなら、どうなっていただろうか?
卯月ちゃんのパフォーマンスに負けじと、焦ってしまったかもしれないな。
このオーディションは、マイペースに挑むのが一番だ。
「あれ? 美穂ちゃんのプロデューサーさんだ」
結果発表が終わり、抽選会場へと向こう途中、卯月ちゃんが駆け寄ってくる。
着替える時間もなかったのか、衣装はオーデションの時のままだ。
「やぁ、卯月ちゃん。お疲れ様。凄く良かったよ」
「そうですか? ありがとうございます! プロデューサーさんは見学に来てたんですか? 美穂ちゃんも来てます?」
「美穂はレッスン中だよ。俺は来週の抽選に来てるんだ」
「来週かぁ。ってことは、未央ちゃんと戦うって事か。うーん、どっち応援すればいいんだろ……」
「やっぱり未央ちゃんが来たか……」
美穂がCDを出した日、本田未央も曲を出していた。
あちらは敏腕Pによる業界とのコネや、彼女自体の実力もあってか発売された時から方々で話題になっていた。
俺たちも宣伝活動を頑張っているつもりだけど、それでも彼女たちの戦略に比べ見劣りしてしまう。
422 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:41:18.69 ID:qXgxmKRw0
「美穂が委縮しなければいいけど」
紅白に出場したと言う肩書のついたアイドルと、番組出演を賭けて同じオーディションを受ける。
合格者枠1って決まっていたなら、勝ち目はなかっただろう。
だが、枠の決まっていないファーストホイッスルならば、勝てなくとも合格を目指せる。
「あーあ。来週見れたら良かったんですけどね。私、お仕事があって応援に行けないんです。だから、オーデには未央ちゃんとその付き人で凛ちゃんがいると思いますよ?」
「君たちのプロデューサーは、卯月ちゃんに付くって事か」
「そうですね。私の受ける仕事、結構大きいんですよ。それに、凛ちゃんは私よりも大人ですからね」
凛ちゃんこと渋谷凛は非常にクールで落ち着いた印象を与える。
最年長でユニットのリーダーをしている卯月ちゃんの目の前で言うと、
自覚があるにしても失礼な気がするから黙っておくが、彼女よりもリーダーっぽく見えるぐらいだ。
一方の本田未央はユニットのムードメイカー。底抜けに明るく、いい意味でウザいと評される、
裏表のない性格でファンから愛されている。もちろん実力は2人に負けちゃいない。
とりわけ、審査員や観客へのアピールに関しては、天性の才能を持っている。
自分の魅力を理解して、最大限アピールする。簡単そうに聞こえるかもしれないけど、
それが出来れば誰だってトップアイドルになれる。
423 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:52:37.45 ID:qXgxmKRw0
とにかくアピールは加減が難しいのだ。
やり過ぎると、作っていると思われて純粋に見れなくなるし、だからと言って何もしなければ印象に残らない。
彼女のアピールは、そんな計算を一切感じさせない自然なものだ。やるべきタイミングで、やるべきアピールをする。
自分の適性と限界を正しく把握していないと、出来ない芸当だ。
女子高生としての学力はどうか知らないが、アイドルとしてはかなり賢いだろう。
「未央ちゃんは合格してほしいけど、美穂ちゃんにも合格してほしいんですよね。どっち応援すればいいんだろう?」
同じユニットの仲間か、違い事務所の親友か。確かに、悩ましいな。
「両方すればいいんじゃない? 選考基準は勝ち負けじゃないしさ」
「そうですよね! 2人に頑張れって言っておこっと! あっ、すみません。足止めしちゃって。抽選会ですよね?」
「おっと。忘れるところだった! それじゃあ卯月ちゃん、またね!」
「はい! 美穂ちゃんに頑張れって言っておいてください!!」
卯月ちゃんは手を振って去っていく。しかし未央ちゃんが来たか。十分予想できたはずなのに、失念していた。
「運が悪いのは、来週の方じゃないか?」
嘆いても仕方ない。抽選会へ行こう。今日の運勢は、悪くなかったはず。前みたいに大トリは勘弁願いたいな。
424 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:55:28.96 ID:qXgxmKRw0
「久し振りです!」
「おっふっ!」
会場に入るや否や、勢いよく肩を叩かれる。急なことで驚いて振り向くと、見知った顔が。
「服部さんのプロデューサー! ここにいるってことは、抽選会に?」
「はい。でも今は、瞳子さんのプロデューサーではないんですけどね」
「あっ、すみません」
地雷を踏んでしまう。しかし俺からすると、やっぱり服部さんの印象が強い。
「いえいえ。僕自身、まだ瞳子さんのこと諦めてませんし。光栄なぐらいですよ。でも今は、事務所がオーディションで獲得した子を担当してるんです」
「今日も来ているんだけど、どこに行ったんだろう。お手洗いに行くって行ったきり、帰ってこないや」
だいたい2ヵ月前のことだったかな。
瞳子さんのプロデュースを中断した後、別のアイドルをプロデュースし始めたとまでは聞いているけど、
一体どんな子をプロデュースしているんだろう。
「プロデューサーさーん! どこですかー?」
「噂をすればなんとやらってやつですね。愛梨ちゃん! こっちだよ!」
425 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 14:59:32.18 ID:qXgxmKRw0
「ゆ、揺れとる……」
間延びした声の主は、胸を揺らしながら走ってくる。まさか、この子が服部Pの新しいアイドルか?
「居ました! 酷いですよプロデューサーさん! 先に行かれちゃ場所が分からないじゃないですか。ってあれ? この人、どなた様ですか?」
愛梨ちゃんと呼ばれた彼女は、服部さんとは全く似通っていない。服部さんをCoolと表現するならば、彼女はPassion。
服装といい喋り方といい、どこか緩い雰囲気を醸し出してるのも、服部さんと対照的だ。
見た感じ高校生かな?
「紹介しますね。彼女は今僕がプロデュースしているアイドルの」
「あっ、自己紹介ですか? 十時愛梨って言います!」
十時愛梨。名前を言われて、ピンときた。確か美穂と同じ日にCDデビューを果たしたアイドルの1人だ。
所属事務所が服部Pと同じと思っていたら、まさか彼がプロデュースしていたとは驚きだ。
「それと、これでも大学1年生です」
「大学1年? てっきり高校生かと思ってた……」
ということは18歳か19歳になるわけか。正直とてもそうは見えない。
同じぐらいの身長の未央ちゃんと同じ歳だと勝手に思っていた。

426 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 15:01:46.39 ID:qXgxmKRw0
「この人は、シンデレラプロのプロデューサーさんだよ。同じ日にCD出した小日向美穂ちゃんのプロデューサー」
「始めまして。小日向美穂はご存知ですか?」
「あっ、あの可愛い歌の子ですか! チュチュチュチュワとか私好きですよ? えっと、サインとか貰っちゃっていいですか!? ここに書いてください! んしょ」
そう言ってペンをこちらに渡すと、愛梨ちゃんは服を脱ぎだそうとする。って服!?
「こらこら! ここで脱がないの!」
「えー。暑いんですよー、ここ。暖房効き過ぎですよ。プロデューサーさんもそう思いませんか?」
「だからっていきなり脱ぎだされるとビックリするかな、うん」
冬だから当然つけるに決まっている。外に出れば嫌でもありがたみが分かるはずだ。
尤も、節電ブームの影響か、そこまで温度を上げてはいないと思うが。
それとだ。
「えーと。愛梨ちゃん。俺にペンを渡されても困るんだけど」
「へ?」
この子、天然なのかな……。
427 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 15:05:32.60 ID:qXgxmKRw0
「美穂は今日、レッスン中でいないんだ。だからこの場では渡せないかな?」
「そう言えばそうですね。プロデューサーさんが書いてくれるわけじゃないですし」
サインは俺に書かせるつもりだったのか? しかもさっき服に書かせようとしていなかったか?
「ははは、見ての通り結構抜けている子なんですけど、実力はかなりのものです」
「デビューから1ヶ月もしていないんですけど、事務所総出で彼女をプッシュしていますし、この番組以外のオーディションも勝ち上がってきてます。ポテンシャルの高さはNG2の3人にも負けていないと思いますよ?」
「えっへん!!」
大きく大きな胸を張る。
彼女のことはよく知らないが、1年近くファーストホイッスルを見続けた彼がそこまで言うんだ。
1、2ヶ月でこのオーディションに立つぐらいだし、その才能は本物だろう。
彼らは本気で1発合格を狙っているのかもしれない。
「抽選会を始めますのでー、参加希望の方は渡した番号順にくじを引きに来てください!」
「おっと。そろそろ僕たちも行きますね。それでは、また来週お会いしましょう」
「失礼しまーす」
係員の指示で、抽選会が始まる。くじを引く順番は20番目。良い番号が残ってますように――。
428 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 15:07:11.19 ID:qXgxmKRw0
「ってなわけで、美穂の順番は18番だ。野球ならエースナンバーだな」
「それって、何人中ですか?」
あまり言いたかないんだよな。今回に関しては。
「……109人中18番だよ」
「ひゃ、109人!? お、多すぎませんか!? 煩悩の数以上ですよ!?」
「ぼ、煩悩っすか……」
そりゃあ驚くよなぁ。前回の72人ってのもびっくりなのに、今度は3ケタの参加者だ。
審査をする彼らの心労は絶えないだろう。合掌。
係員も過去最大数の参加人数だと言っており、始まる時間が前倒しになったぐらいだ。
途中昼休憩が挟まれるにしても、アイドルにとっても見学者にとってもハードな1日になることは間違いない。
「どうしてそんなに受けるんですか?」
「仕方ないよ。運命の36週に食い込める最後のチャンスだから、それに縋るアイドルも多いだろうし、全国放送になったからね。熊本でも映るってことさ。まぁそれ以上に、合格人数が決まっていないというのが一番大きいかな」
429 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 15:17:13.62 ID:qXgxmKRw0
「納得しました。競争率、凄いんですね」
「それと。来週さ、本田未央が参加するんだ」
「ええ!? 本田未央って、あの未央ちゃんですか!? NG2の!?」
「ああ。これが合格者1人だとかだったら、勝ち目がないと参加を見送るところも多いんだけど、ファーストホイッスルはそうじゃない」
「あっ、そっか!」
合格できるかはタケダさんたち次第で、トップになる必要もない。
ゆえに相手がオーディション荒らしだろうと関係ないのだ。
しかし未央ちゃんが出ることで、参加を見送った団体も少なくないはずだ。本当なら、何人参加したのだろうか。
考えただけでぞっとする。一日で終わるのか?
「確かに相手は紅白出場アイドル、しかも3人の中で最もアピール上手と言われている本田未央。紛れもなく強敵だ。だけど、俺たちだって負けるわけにいかない」
「だから、自信を持つんだ。前の失敗は、恥ずかしがることなんかじゃない。むしろ誇ってもいいぐらいだよ。この失敗のおかげで、私はもっと輝けましたってね」
「はい! 頑張ります!」
430 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/10(日) 15:28:18.43 ID:qXgxmKRw0
今回のオーディション、1月23日にCDデビューを果たしたアイドルは、美穂を合わせて5人とも参加している。
『わかるわ』
地方局の女子アナからアイドルへ転身と言う、異色の経歴を持つ川島瑞樹。
『ウッヒョー! なんというか、ロックですね!』
美穂と同時期に活動を始めた、ロック系アイドル多田李衣菜。
『暑いですねー。服脱いで、これ衣装でした……』
服部Pのもと、力をつけてきた超新星十時愛梨。
『みんな! お待たせ!』
そしてNG2最後の刺客、本田未央。強敵ぞろいで、今回のオーデも一筋縄ではいかないだろう。
だけど――。
『わ、私! 負けません!!』
美穂も彼女たちと十分戦えるはずだ。時間はまだある。営業を入れつつ、来週への調整といかなくては。

434 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 21:57:11.11 ID:WL4AFhYm0
「2ヶ月ぶりなんでしょうか?」
「かな。俺はちょくちょく来てるけどね」
「でも。私と一緒なのは、2回目です」
オーディション会場を前にして、俺たちは立ち尽くす。
「いい天気だ。外れなきゃいいけどさ」
空を仰げば雲一つない快晴。それだけで、不思議と俺の心は落ち着いていけた。
「……」
「あれは……」
美穂はと言うと、広場に設置されているベンチを見て物思いに更けている。
あのベンチは、服部さんと別れた場所だ。美穂にとって、良い思い出は残っていない。
「えいっ」
「あたっ! なにするんですかぁ!」
435 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:02:28.28 ID:355pu5qE0
軽く凸ピンすると、アホ毛がふわりと揺れる。そう言えば、ご両親も同じ場所にアンテナが立ってたっけか。
「いやさ、辛気臭い顔してたからついついやっちゃったよ」
「ついついでデコピンしないでください~!」
「ははは、ゴメンって」
涙目でポカポカ叩いてくる。最初のころに比べると、本当に距離が近くなったなぁ。
「美穂はさ、まだ服部さんの事気がかり?」
「まだ、夢に出てくるんです。雨の中、あのベンチで悲しそうな顔をする瞳子さんが。夢と思えないぐらい、リアルに」
「変ですよね。雨の冷たさだって感じちゃうんですよ? ちゃんと前に行かなくちゃいけないのに。私は、まだあの日のまま」
美穂は浮かない顔で答える。きっと彼女は、あの日のことを一生忘れないだろう。
「忘れろとは言わない」
「え?」
「乗り越えることは、忘れることじゃないんだ」
悲しいことも、嬉しいことも取りまとめて一歩先に進むこと。それが、俺達に残された最良の手段だ。
436 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:05:07.44 ID:355pu5qE0
「悲しい顔がよぎるなら、嬉しそうな服部さんの顔を見ればいいんだ。美穂が夢を叶えてトップアイドルになれた時、服部さんはまたステージに上がるよ」
「俺たちは、あの時の俺たちとは違う。技術もパフォーマンスも格段に進化していってる。だから、自信を持って楽しんでおいで」
「楽しむ……」
「歌って踊れて、見ている人がいればそこは立派なステージ。オーディションだろうがライブだろうが、観客を魅せればいいんだよ」
今ここで、美穂が歌いだしただけでもステージになるんだ。観客はファン一号の俺だけだ。
「私に、出来るんでしょうか?」
「出来るよ。つーか出来てたじゃん。クリスマスパーティーとかさ!」
12月16日。あの講堂にいた人は漏れなく美穂のパフォーマンスに心を奪われた。
全く美穂を知らない人も、彼女の同級生たちも、アイドル小日向美穂のライブで幸せになったんだ。
「で、でも! 今日はオーディションです。もし失敗したら……」
ラストチャンス。その言葉が美穂の小さな身体に重くのしかかる。前みたいにこけたら? そう考えているのかな。
「そうだな。じゃあこうしようか。ランプの精って知ってる?」
437 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:12:36.07 ID:355pu5qE0
「えっと、アラジンですか?」
美穂でも知っているか。だいぶ昔の作品だけど、今なお愛され続けている名作だ。
「うん、それ。願いを3回まで叶えるってやつね。千夜一夜物語ってやつの内の1つなんだけど、それはまぁいいか。」
「それがどうしたんですか?」
「なに、簡単なこと。美穂が今日のオーディションを乗り越えることが出来たなら、どんな願いでも3つ叶えてあげるよ」
「へ?」
ランプの精改め、ランプのP、ここに誕生。
438 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:13:54.63 ID:355pu5qE0
――
「なんでも、ですか?」
突拍子もないことを言われて聞き返してしまう。ランプの精のお話は、小学校のころに見たことが有る。
どんな内容だったかは忘れたけど、願いを3つ叶えるランプの精の存在だけは鮮明に憶えている。
『もし美穂ちゃんなら、どんな願いが良い?』
その時の担任の先生は微笑みながら、そう聞いてきたっけ。
私、なんて答えたんだろう?
今の私なら、なんって答えるんだろう?
「あっ、家が欲しいとかそう言う金銭的にヤバいのはパスでお願いしたいかな。それと願い無制限とか言うのもね」
「どう? やる気出た?」
物で釣られているみたいで、少しだけムッとしてしまう。
だけど彼なりに、私を力づけようとしてくれているんだ。それはとても嬉しい。
うん、何時までも逃げちゃダメだ。決めたんだから。
ファーストホイッスルに絶対合格するって。変わってみせるって。
439 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:15:12.09 ID:355pu5qE0
「そうですよね。失敗するのを怖がっちゃダメですよね」
もっと怖がるべきは、見てくれている人、応援してくれている人が楽しめないと言うこと。
私のパフォーマンスで素敵な気持ちになってくれたなら。
「プロデューサー。私、容赦しないかもしれませんよ?」
「お、お手柔らかにお願いしたいかな?」
「ふふっ」
言ってしまった手前、冗談でしたと言えずに困った顔をする。そんな律義で抜けている彼が、可愛く感じた。
「おっと、時間だ。それじゃあ行こうか、美穂」
「はい」
会場へ一歩一歩近づいていく。不安はあるし、やっぱり怖いものは怖い。
心の中では雲が覆い始めている。
だけど――。
440 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:22:46.21 ID:355pu5qE0
「あっ」
「えへへ。入るまで、こうしていてください」
「はは……、パパラッチに見つからないよう祈っておくか」
「大丈夫ですよ。そんな悪趣味な人、いません」
暖かくて大きな彼の手と、私の小さな手を重ねると、どんな悪天候でも光が射す。
私のちっぽけな不安も、消えてしまうんだ。
「あの、プロデューサー」
「何かな?」
「このオーディションに合格したら、私と……」
「あー、ちょいちょい。そこのTPOをわきまえないカップルさん? ちょっと良いかな?」
「おっふっ!」
「きゃっ!」
彼の暖かさを感じていると、不意に後ろから声をかけられ勢いよく手を離す。
441 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:26:35.51 ID:355pu5qE0
「あれ? 邪魔しちゃった感じ?」
「そ、そそそんなことないですよ! ってあれ?」
振り返ると、困ったようにこちらを見ている少女がいた。ってこの子……。
「ほ、本田未央?」
「そうでーす! みんなのアイドル、本田未央でっす! あっ、本田味噌じゃないからね。そこ重要だよ?」
星が出そうなウインクをして、彼女はお辞儀をする。
「っておや? もしかしてキミは……みほちー?」
「へ? みほちー? 私のことですか?」
「うーん、そっちのプロデューサーさんに『みほ』って名前は有り得ないかな」
『みほちー』と呼ばれたのは初めてのことだったから、少し驚く。
しかも名前を知っててくれたなんて。卯月ちゃん伝いに聞いたのかな?

442 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:33:34.37 ID:355pu5qE0
「しまむーから話は聞いてるよ? 学校に仲のいいアイドルがいるってさ」
「あのプライベートの話題0で、アイドルの話しかしなかったしまむーにも、友達がちゃんといたんだとしぶりんと安心したっけ」
「結構失礼なこと言ってるよね、君」
「?」
どうやら未央ちゃんは他人とは違った呼び方をするみたいだ。しまむーは卯月ちゃんで、しぶりんは凛ちゃんだろうな。
「プロデューサーからCDは買うよう言われたけど、ジャケットの写真より可愛いな。でも、私も負けてないけどね! ってか私が可愛い!」
またもやウインク。あざとい位のキャラクターも、彼女の明るい口調と、
3人の中で1番のアピール上手と言われるだけあってか、不思議と嫌味に感じない。
「何が可愛いんだか」
「あだっ!」
パシン! 丸められたパンフレットで未央ちゃんの頭は叩かれる。
「いたた……、なにするのしぶりん~」
「遅刻する方が悪い。これが私じゃなくて、プロデューサーだったなら、今頃どうなっていることか」

443 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:36:00.14 ID:355pu5qE0
「そ、それは想像したくない! しぶりん、黙っててくれるかな?」
「いいともっ! って言うと思う?」
「そ、そこをなんとか渋谷様ー!! 私目は道に迷ってただけなんです!」
「会場、目の前じゃん」
「うぐっ、この2人が悪いんだよ! 目の前でいちゃつき出すからさぁ、ちょっかい出したくなって」
「この2人? あっ……。そういうこと」
目の前で繰り広げられる漫才を、私たちはポカンと眺めていた。えっと、状況が読めない……。
「えっと、凛ちゃん?」
未央ちゃんの参戦はあらかじめ聞いていた。だけど、凛ちゃんがどうしてここに? まさかまた参加するの?
「そっか、驚くよね。私、今日は未央のプロデューサー代行なんだ。私たちのプロデューサーは、卯月についてるからさ」
プロデューサーと言うことでか、凛ちゃんは学校指定の黒い制服をきっちりと着こなしている。
心なしか、第一ボタンを締めているのが窮屈そうに見えた。どちらかと言うと、スケバンみたいな印象もってたし。
「アンタらのことも、卯月から話を聞いてるから知ってるよ。小日向美穂と、そのプロデューサー。悪くないかな」
444 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:38:53.36 ID:355pu5qE0
「へ? 悪くない?」
「あっ、こっちの話ね。気にしなくていいよ」
「う、うん」
「それじゃあ、会場で。ほら、未央。行くよ」
「ちょっとちょっと! 引っ張らなくても行けるって!! 一緒に合格しようねー!」
ずるずると凛ちゃんに引きずられながら、未央ちゃんたちは会場入りする。
「俺たちも行くか」
「は、はい」
もう一度手をつなぎたかったけど、また誰かに見られると怖いので我慢する。
それに、十分すぎるぐらい彼のエネルギーは貰えたから、大丈夫。
「えへへっ」
本番前に、もう一回だけ補給しておこっと。
445 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:44:28.34 ID:355pu5qE0
「小日向さーん! 久しぶりですね!」
「貴方は……、瞳子さんのプロデューサー!」
「1週間ぶりですね」
前回と同じ内容の説明が終わり、柔軟をする相手を探していると、懐かしい顔が私の前に現れた。
隣には、スタイルのいい女の子もいる。新しい担当アイドルかな?
「すっかりアイドルも板についてきたってとこかな? そうそう、彼女の紹介はまだだったね。この子は十時愛梨ちゃん。今僕がプロデュースしているアイドルだよ」
「十時愛梨です! 小日向美穂ちゃんですよね? サイン貰っていいですか?」
「へ? サイン?」
そう言って愛梨ちゃんは私のCDと黒ペンを取り出す。えっと、これに書けばいいのかな?
CDの発売イベントとかで、サインを書くことにも慣れた。
「小日向美穂っと」
丸っこい字で小日向美穂と書いてやる。
「ありがとうございますね!」
喜んでくれて、何よりかな? 変な感じがするけど。
446 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:46:45.56 ID:355pu5qE0
「愛梨ちゃん、君もアイドルなんだよ?」
「あっ、そういえばそうですね。サインいりますか?」
「え、えっと……。じゃあこのスケジュール帳にお願いします」
「ちょっと待ってくださいね!」
何だろう。かなり天然さんなのかな? サインを自分から書こうとする人、初めて見た。名刺交換?
「十時愛梨です!」
「あ、ありがとうございます?」
悪い人ではないと思うし、凄く可愛いんだけど、彼が前プロデュースしていた服部さんとは、
何から何まで違う彼女に、私は少し戸惑う。
服部Pの好み、変わったのかな?
「美穂、一緒に柔軟したらどうかな?」
「そうですね。愛梨ちゃん、柔軟しませんか?」
「えっと、よろしくです!」
447 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 22:54:28.96 ID:WL4AFhYm0
「よいしょ、よいしょ」
「ふぅ……。私こんなに体やわらかかったっけ? 美穂ちゃんのおかげです?」
「コツがあるんだよ。こう息を吐きながら……」
「おおー!」
前回服部さんに教わったことを、愛梨ちゃんに実践してみる。こうやって技術は伝わっていくのかな。
いや、よくよく考えれば、愛梨ちゃんは私にとって初めて出来た後輩アイドルだ。
相馬さんも後輩アイドルと言えば後輩アイドルだけど、アイドルとしての彼女に会ったことがないし、
電話やメールをしても向こうの方が年上なため、敬語使ってどちらが先輩か分からなくなる。
「あれ?」
周りを見渡すと、すぐ近くにさっきの2人が。
「んしょ、んしょ……。あー、体曲がるなぁ。すっごく曲がるなぁ。誰かが手伝ってくれたらもーっと曲がるんだよなぁ。残念だねぇ」
「未央、今のあんた相当ウザいよ?」
「いやさ、私だって他のアイドルと柔軟したいよ? だけどさ、なまじ売れちゃったから、みんな遠慮しちゃってしぶりんと虚しくやってるわけですよ」
448 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:03:18.63 ID:QAsoEWzq0
「虚しくってどういう事」
「あだだ! 急に曲げないで! あー、こういう時に一緒にやってくれるみほちーとか、小日向さんとか、美穂ちゃんとかいればなぁ!」
チラッ、チラッ。
「どこかにいないかなぁ、アホ毛のキュートな女の子とか、クマさんと一緒に寝てそうな女の子とか」
「あー、美穂?」
「ですよね。あのー、未央ちゃん。一緒にしますか?」
「待ってました!」
「はぁ、なんかゴメンね。うちのバカが」
「バカって酷いよしぶりん!」
気にしないようにしていたけど、チラチラとこっちに目を向けてくるので、未央ちゃんも混ぜて柔軟をする。
「あれ? プロデューサーどこに行ったんだろ」
柔軟を終わらせ一息つくと、プロデューサーと凛ちゃんの姿がないことに気付く。
449 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:04:13.28 ID:QAsoEWzq0
「えっと、プロデューサー何か言ってましたか?」
「いや、僕は知らないよ。2人ともどこ行ったんだろう?」
どうやら服部Pも知らないみたいだ。
「一緒にお手洗いに行ったとか?」
愛梨ちゃん、それは流石にないよ。
「ふっふーん。さては逢引とか? きゃー! しぶりんたら大胆!」
「え、えええええ!? あ、ああああ逢引!? それ、マジですか!?」
逢引って、逢引だよね!? プロデューサーと、凛ちゃんが!?
「み、みほちー、冗談だよ……。そんな驚かなくても」
「あっ、えっと、その……」
気が付くと、周囲の視線を集めてしまっていた。そんなに大声を出したら、目立つに決まってるのに。
「あ、アイダホバーガー、割引、です?」
「その、なんと言いますか。スンマセン」
プロデューサー、早く帰ってきてください……。
450 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:08:01.02 ID:QAsoEWzq0
――
「少し、付き合ってくれる?」
「へ?」
「時間取らせないから」
アイドルたちが柔軟していた中、凛ちゃんが耳元でそう言った。何やら用があるみたいだったので、彼女について外に出る。
「コーヒー飲む?」
あの日と同じベンチに座って、コーヒーのプルを開けると深い香りが鼻を通る。
「ありがと。お金いくら?」
「いや、良いよ。年下の女の子に払わすのも悪いし。120円ぐらいなんだしさ、気にしなくて結構だよ」
「多分こっちの方が儲けてるよ? でも、ありがたくいただいとくよ。ありがとう」
「どういたしまして」
そりゃ今を時めく売れっ子アイドルなんだ、どれだけお金が有っても、使う暇もないだろう。
それに、この子はしっかりしているし、無駄遣いするようなこともないはず。
近いうちに納税長者番付に名前が出てきそうだ。
451 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:09:25.88 ID:QAsoEWzq0
「未央が迷惑かけてなきゃいいけど」
「まさか。美穂も愛梨ちゃんも、大先輩と柔軟出来て嬉しいだろうし」
「大先輩だなんて。それ程でもないよ。ただデビューが早かっただけ」
「それでもこのスピードでここまで来たのは凄いと思うよ? いくら敏腕Pが付いてるとは言え、オーディションや仕事をするのは君たちだ」
プロデューサーは、主人公じゃない。飽くまで、アイドルという原石を輝かせるための裏方でしかない。
だけどその原石がただの石なら、どんなプロデュースをしても石ころは石ころだ。
NG2が化け物じみているのは、3人が3人とも、偽りなく才能に溢れているということ。
そして、天才プロデューサーの腕により、日本一の女の子たちへと変わりつつある。
「褒めても何も出ないよ?」
「そうかな。それより、どうして俺を呼び出したんだ?」
「ねぇ。もしも美穂が、他の事務所に移るってなったら。アンタならどうする?」
「え?」
「移籍。この業界じゃ珍しくないでしょ」
452 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:11:11.88 ID:QAsoEWzq0
彼女の言うように、アイドルの移籍は良くある話だ。
こういう言い方をするのも少し心苦しいが、アイドルは1人の女の子であると共に、商品価値を持つ存在でもある。
金銭で引き抜かれるということもまま有ることだし、今以上の環境を求めて事務所を変えるということも少なくない。
「もしもの話だから、そんなに深刻に考えなくていいよ。街頭アンケートみたいなもの」
そうは言うが、急に言われると返答に困ってしまう。
美穂が移籍する。これまで、考えてこなかったわけじゃない。認めたくなかっただけだ。
「俺は……」
もしもの話でも、リアルに感じてしまう。凛ちゃんからすれば、笑って気楽に答えて欲しかったのかもしれない。
「も……。し美穂のことを俺以上に輝かせることが出来る人がいれば、その人に任せたいと思う」
「意外だね。てっきり美穂は俺のアイドルだ! 手放すものか! って言うと思ったのに」
そう言えたら、どれだけ心強いだろうか。
453 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:15:25.01 ID:QAsoEWzq0
「美穂には、才能が有ると信じている。俺が美穂を輝かせきれていないのなら、それは罪だ」
「ふーん。信じてるんだね、美穂を」
「ああ。だからこそ、もっと上に行くべきだ」
理想は常に高く持っている。美穂とともに駆け抜けて、トップアイドルになる。
だけど俺が足枷になっていたのなら? それはアイドル小日向美穂を殺しているのと同じことだ。
「まぁ、何でもいいや。興味深い話聞けたしね。美穂には黙っておくから安心して」
「軽蔑したかい? 美穂の両親に託されている人間なのに、こう弱腰でさ」
美穂にはいつも前向きな言葉をかけてるけど、俺だって不安でいっぱいなんだ。情けない――。
「まさか。しないよ。アンタが美穂の事、心から大切に思っているってのは伝わったし」
「へ?」
「俺より上手くプロデュース出来る人間に託したいだなんて言っても、そんな悔しそうな顔してたら、嫌なんだろうなてのがひしひしと伝わって来たよ」
「美穂は、幸せ者だね。それだけプロデューサーに思われて」
454 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:17:32.19 ID:QAsoEWzq0
「凛ちゃん、君は」
「勘違いしないでよ。私だって、プロデューサーのことを信頼してるし、あの人以上のプロデューサーはいないと確信している」
「厳しい人だけど、私たちの成功を心から喜んでくれる人だし、あの人がいなかったら私達3人は出会うことすらなかったからさ」
「感謝してるんだ。だから私たちは、彼女の夢、トライエイトを果たす。それが、私たちから贈れる、プロデューサーへの最大の恩返しだからさ」
その眼には一切の迷いはなく、ただ頂点だけを見据えていて。
このオーディションも、落ちるなんて考えていない。既にIA、IUにまで目を向けて準備をしているはずだ。
「戻ろう。そろそろ柔軟も終わってるだろうし」
「そうだね」
『美穂を俺以上に輝かせる人がいれば』と言ったが、そんなやついて堪るか。
俺は、彼女をNG2に負けないぐらい素敵な女の子にして見せる。
「今日それを証明するんだ」
負ければ腹を切るぐらいの覚悟を胸に、俺達は会場へと戻る。今更しても、遅いのに。
「結構良い顔してるよ」
「そりゃどうも」
それでも、彼女たちと同じ覚悟は出来た。
455 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:19:24.59 ID:QAsoEWzq0
「プロデューサー! どこに行っていたんですか!?」
会場入りすると、美穂達がスポーツドリンクを飲みながら待っていた。
服部Pも飲んでるってことは買ってもらったのかな。
「ああ、ちょっとお手洗いにね」
「凛ちゃんとですか?」
「へ? あー、そうだよ?」
「ええええ!?」
冗談のつもりで返したが、美穂は本気で驚いている。
「さいてー」
ボソリと冷淡に吐き捨てられた言葉が、鋭い刃となって胸に突き刺さる。渋谷様、目が怖いです。
「ここのお手洗いって男女兼用なんですか?」
「んなわけあるかーい! しっかし、とときんって天然だよね。一番年上なのに」
未央ちゃんと愛梨ちゃんも仲良くなって何よりだ、うん。
456 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:24:22.83 ID:QAsoEWzq0
「わ、私がお手洗いに行ってる間に! ここ来ない! でくださいね!!」
「いや、いかんがな」
「漫才してる場合じゃないよ。ほら、始まっちゃう」
時間は開始5分前。美穂の順番は109人中18番だ。25番目が終わった後に昼休憩に入ることを考えると、早いうちに出来て良かっただろう。
「みほちーは18番か。私は何と! 109番です!」
「プロデューサー、クジ運は悪いもんね」
「そんなことないよ! むしろラッキー? 全部持って行けるってのも、乙なもんだし!」
大トリは今オーディション1番候補の、未央ちゃん。普通なら一番最後になると気が滅入りそうなものだが、
彼女はむしろ楽しもうとしている。なんという強心臓。これが、紅白出場アイドルの余裕だろうか?
「えっと、私って何番でしたっけ?」
「愛梨ちゃんは63番だよ」
「中途半端ですね」
愛梨ちゃんは63番か。このオーディションは初めてらしいが、緊張しているように見えない。
果たしてどんなパフォーマンスを見せるのか。非常に気になる。
457 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:29:57.29 ID:GzMKCAOP0
――
「じゃあ未央、私あっちで見てるから」
「りょーかい! しぶりん、寝ちゃダメだよ?」
「アンタと一緒にすんな」
「あだっ!」
「ったく、頑張ってよね。アンタの合格で、私たち3人胸張っていけるようになるんだから」
「うん。プロデューサーに見て貰えないのは残念だけど、絶対合格してみせるからね」
――
「やっぱりドキドキしちゃうなぁ……」
「愛梨ちゃん、緊張するかもしれないけど、気楽に行こう。最高のパフォーマンスを見せるんだよ。良いね?」
「気楽に……。はい! 頑張るんです!」
「それと、待ってる間だけど、暑いからって服脱がないこと。いいね?」
「え? ダメですか?」
「ダメだよ! それじゃあ、愛梨ちゃん。頑張って」
458 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/11(月) 23:32:17.78 ID:GzMKCAOP0
――
「俺も戻るかな?」
「あのっ、プロデューサー!」
「ん? どうした、美穂」
「えっと。わ、私の手。その、握って、く」
「どう? 気持ち、落ち着いた?」
「はい。とっても、幸せな気持ちです」
「その気持ちを、みんなに伝えるんだ。それがきっと」
タケダさんの、いや俺たちの理想なんだ。
「みなさん集まっていますね。まずは参加者の確認から。名前を呼ばれたら代表者が返事をしてください。それでは、エントリーナンバー1番、白菊ほたるさん」
「はい」
「――エントリーナンバー18番、小日向美穂さん」
「はい!」
ファーストホイッスル、リベンジマッチが始まる――。
463 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:09:31.68 ID:BjX4c2Ht0
――
14、15、16。3分刻みで、私の順番に近づいてくる。
『きゃっ』
あの日のことは、忘れようにも忘れることが出来ない。
最低な失敗をして、先輩との別れが有って、全部に投げやりになって。
もう2度と、ここに立ちたくないとまで、思っていた。それぐらい、私の心に大きな傷を残した。
「あっ……」
会場にいそいそと入ってくる影。タケダさんのお弟子さんだ。名前はえっと……――さん。
彼は私の姿を確認すると、柔らかく微笑む。私も微笑み返してみる。それぐらいの余裕はあった。
「17番、輿水幸子ですよ!」
後3分で、私はもう一度立つ。これが、IAノミネートへの最後のチャンスだ。
生まれてきて18年間で、一番長い3分になるだろう。
「……」
タケダさんは1mmたりとも表情を変えない。その姿は、お面を被っているが如し。
「ありがとうございました!」
自信満々な17番の子が席に座る。――私の番だ。

464 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:16:19.53 ID:x9uYMRtc0
「ありがとうございました。それでは、エントリーナンバー18番の方、よろしくお願いいたします」
会場の空気は張りつめたままだ。油断をしてると、飲み込まれちゃう。
だったら、私が飲み込んじゃえば良いんだ。
ここにいる人すべてに、幸せな時間を与えることが出来たなら――。
「うん、行けるっ」
小さく呟いて、自分を盛り上げる。プロデューサーと離れていても、彼の暖かさはまだ残っている。
今でも、私の手を握ってくれているように感じた。
私は始まったばかりだ。限界を悟るなんて、まだまだ先のこと。
「エ、エントリーナンバー18番! 小日向美穂、です!」
観客はクマさんじゃない。私と同じ人間。
だから、恐れることなど何もない!
聞いてください、Naked Romance!!
465 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:18:11.65 ID:x9uYMRtc0
(凄い……! こんなに気持ちよく歌えるなんて)
曲が流れて踊り出すと、私の光景は、味気のない会場は一瞬にして煌びやかなライブ会場へと変わった。
色とりどりのサイリウムが振られて、ここにいる皆が私の歌を聞いてくれている。
恥ずかしいけど、すっごく楽しい!
(これも、曲の魔法かな?)
私と一緒に成長する曲。歌えば歌うほど馴染んで行って、踊れば踊るほど軽やかに、私の体の一部のように。
甘くてキュートで、あれだけ怖かったみんなの視線も、今の私にはカンフル剤だ。
テンションは、最高潮! 止まる気がしません!
会場に座る皆の心に、何か伝わったかな? もしそうなら、凄く嬉しいな。
「――♪」
プロデューサー。私、今最高に楽しいです!
「あ、ありがとうございましたぁ!!」
人生で一番長い3分だとか言っておきながら、ふたを開ければあっという間に終わってしまった。
もう一度歌いたい。そんな欲求が私の体を電流のように駆け巡る。
466 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:22:51.40 ID:x9uYMRtc0
「小日向さん、でしたね」
「え?」
肩で息をしながら座ろうとすると、タケダさんが急に声をかけてきた。
えっと、なにかやらかしちゃったのかな?
「良い曲に出会えましたね。それは、凄く幸運なことです。その出会いを、大切にしてくださいね」
「は、はい!」
怒られるどころか、褒められたのかな?
人との出会いはもちろんのこと、曲との出会いも一期一会。
もし自分とともに育って行ける曲に運よく出会えたら、全身全霊を込めて命を与えないといけない。
それがアイドルの、使命なんだ。
私の世界を大きく変えたこの曲に、命を与えることが出来たのが、誇らしく思う。
「失礼しました。それでは、エントリーナンバー19番の方、よろしくお願いいたします」
「えんとりーなんばー19番、小早川紗枝といいます。よろしゅう頼んます」
人事を尽くした。後は天命に身を任せるだけ。
神様がいるのなら、私のパフォーマンスどう思ったかな? 盛り上がってくれたら、それはとても良いことだ。

467 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:29:24.38 ID:x9uYMRtc0
「美穂!」
「プロデューサー!」
休憩時間に入り、昼ご飯をどうしようと考えているとプロデューサーが私の肩を叩く。
「どうでしたか? 私の、パフォーマンス」
「驚いたよ。クリパの時以上の完成度だったよ。もしこれがオーディションじゃなくてライブだったなら、観客も大盛り上がりさ」
「本当ですか!? えへへ、嬉しいな」
「今まで25人のパフォーマンスを見てきたけど、美穂が一番だと思うよ」
「もう!」
褒め殺しが炸裂する。今回は私も自信が有るので、素直に喜んでおく。
「そうだ。お昼どうしますか?」
「そうだな。あの喫茶店でとるか?」
瞳子さんが働いていた喫茶店だ。オムライスを思い出すだけで、お腹がすいてきた。
今日はもう終わったから、何も気にせず食べてもいいんだ。
468 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:31:14.95 ID:x9uYMRtc0
「良いですね! 行きましょう、プロデューサー」
「だね。でも折角だから、服部Pも誘ってみるか」
プロデューサーはそう言って服部Pに連絡をする。
「愛梨ちゃんと一緒に向かうそうだ。俺らも行こうか」
「はい!」
「よし、出発進行! ほら、しぶりんも急いで!」
「アンタホント遠慮ないよね」
マスターたち、私のこと憶えているかな? とウキウキしながら会場を出ようとすると、
何時の間にやら声が増えていた。
「え?」
「へへっ、会いたかった?」
「ねぇ、私らも混ざって良い? 自分の分は自分で払うからさ」
乱入するのが好きな2人だなぁと思いました。
凛ちゃんと未央ちゃんも、一緒に食べることになりました。友達がどんどん増えていきます。
469 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:32:07.76 ID:x9uYMRtc0
「いらっしゃいませ。おや、君は服部さんと来てた」
「小日向美穂です。席空いてますか?」
「ああ、大丈夫だよ。今日はまだお客さんが少ないし」
昼前と言うことで混んでいるかと思ったけど、案外空いていた。6人座れる席を用意してもらい、私たちはメニューを決める。
「ねぇみほちー。おススメってどれ? このあんこ入りパスタライスってすごく気になるんだけど」
食べ合わせが悪そうな料理だ。頼んでみたいとも思わない。罰ゲーム用?
「おススメかぁ。オムライスが凄く美味しいよ」
「じゃあ私はそれで! 言っておくけど、私はオムライスに対しては結構うるさいクチだからね」
「適当なこと言わない。初耳だよ」
「それじゃあ私もオムライスで。あっ、頼んだら絵とか描いてくれますか?」
「愛梨ちゃん、メイド喫茶じゃないんだからさ。僕はカツカレーで」
「じゃあ俺もそれでお願いします」
「私もオムライスで」
470 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:34:29.11 ID:x9uYMRtc0
女子4人はオムライス、男性2人はカレーを頼む。前も同じメニューだったっけ。
「新しい写真だ」
オムライスが来るまで暇なので周りを眺めていると、壁に掛けられている写真が増えていることに気付く。
12月○日……、前のオーディションの次の日だ。
『また会おう、服部さん』
大分に帰る前に撮った写真かな。一晩明けて吹っ切れたのか、瞳子さんの表情は晴れやかだ。
「瞳子さん、見ててくださいね」
私は貴女に、何も恩返しが出来ていない。同じステージに立つことすら叶わなかった。
私の活動を見て、少しでもこの世界に戻りたいと思ってくれたなら、それ以上嬉しいことは無い。
「お待たせしました」
他愛のない話をしている内に、料理が到着する。
「コホン! それじゃあここにいる3人の! 合格を願って……、乾杯っ!」
「騒がしい!」
「あだっ! しぶりんドイヒーだよドイヒー!」
「TPOをわきまえないアンタが悪い。あっ、うちらのことは気にしなくていいよ。いつものことだし」
471 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:36:03.10 ID:x9uYMRtc0
何故か音頭を取った未央ちゃんの頭に、丸めたメニューが竹刀のように降りかかる。
凛ちゃんは怒らせると怖いというのがよく分かった。
「それじゃあ気を取り直して、いただきます! うん、これは美味しい!」
「あっ、猫の絵描いてくれてますね! 食べるのが勿体無くなりました……」
「美味しい。こんなにふわふわしたオムライス、初めてかも」
オムライス初体験の3人も気に入ったみたいだ。作ったのは自分じゃないのに、自分の事みたいに嬉しくなる。
「食べ終わったら戻りましょう。デレプロの2人はもう終わっちゃいましたけど、僕らはまだ先ですし。体が硬くならないようにしとかないと」
「美穂からすれば、長い時間待つのキツイかもしれないけど、他の子のパフォーマンスを見るのも勉強だよ」
前と違って早いうちに終わったので、私はじっくりとみんなのパフォーマンスを見ることが出来た。
皆凄いなぁ、と小学生みたいな感想を持ったけど、突出してるなと思ったのは、
『よろしゅう頼んます』
私の次にパフォーマンスをした小早川紗枝ちゃんと、
『川島瑞樹です。よろしくお願いいたします』
休憩に入る前の25番、川島瑞樹さん。
472 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:39:39.47 ID:x9uYMRtc0
紗枝ちゃんは他のアイドルと一線を画している。会場を間違えた、と言われても仕方なかっただろう。
京都出身なのか、はんなりとゆるやかな京言葉を操り、衣装も変わっていて、
まるでかぐや姫の様な和装でオーディションに臨んでいた。
扇子片手に華やかな演舞を披露した彼女は嫌でも目立つ。
下手すれば私の印象が薄れてしまうんじゃないかと危惧してしまうぐらいだ。
そして川島さん。彼女はプロデューサーから事前に聞いていた人だ。
1月23日にデビューシングルを出したアイドルの1人で、今回のオーディション参加者の中で最年長だという。
なかなか短いスカートを穿いていたのは、自分に絶対の自信があるからかな。
元地方局のアナウンサーと言うこともあって、全く緊張しているように見えなかった。
歌声も艶やかで、他のアイドルにはない魅力をアピールできていたと思う。
「自分だけの魅力、かぁ」
癒し系とか小動物みたいって良く言われるけど、それは私の武器になっているのかな。
もう一度自分の適性や魅力と向き合ってみよう。新しい発見があるかもしれないし。
473 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 21:41:05.12 ID:x9uYMRtc0
「考え事?」
スプーンの止まった私を、プロデューサーが心配そうに見ている。
「あっ、そう言うのじゃないです。ただ川島さん凄かったなぁって思って」
「凄かったねー。なんというか、新人アイドルなのにベテランの風格、年期感じるあだっ!」
「そういうこと言わないの」
凛ちゃん未央ちゃんの漫才も慣れてきた。大体未央ちゃんが地雷を踏んでるから、擁護しようもない。
「でもああいう大人って憧れちゃいません? 私も憧れられたいです」
愛梨ちゃんのそのスタイルの良さは誰だって憧れると思う。時々プロデューサーが、目のやり場に困っているし。
「でもさ。私は美穂のパフォーマンスも好きだよ。正直驚いたし」
「うんうん! タケダさんが進行止めて声かけたぐらいだからね」
「そうですよ! 流石ですね! ですよね、プロデューサーさん」
「ええ。前回の時より格段に進化しています。瞳子さんがいたら、驚いたでしょうね」
474 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:01:36.81 ID:Mne2aDBS0
何が流石なのか分からないけど、手放しに褒められると照れてしまう。
「大丈夫、美穂はナンバーワンだよ」
「はいっ」
うん、自信が出てきたぞ。胸を張って、結果発表まで待とう。
「休憩の後だけど、次に要チェックなのは多田李衣菜かな。ロックなアイドル志望らしいけど、どう来るかな」
李衣菜ちゃんは前のオーディションでも一緒だった。
初参加かつトップバッターでありながら、堂々としたパフォーマンスを見せていたっけ。
あれからどう進歩しているんだろう。
「おっと、そろそろ戻らないと。無理せず早く食べてくれ」
「ちょ! それ矛盾してるよ!」
「グダグダ喋りながら食べる方が悪いんでしょっと」
「あー! しぶりん私の食べないでよ! 一気に流し込むぞ!」
「あっ、未央ちゃんそんなことしたら!」
「んがぐぐっ!」
掻き込んだオムライスが喉に詰まり、苦しそうに胸を叩き始める。
475 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:06:19.00 ID:Mne2aDBS0
「言わんこっちゃない。水飲みなよ」
「さ、サンキュ……。いやぁ、お見苦しい所をお見せしちゃった。でも、パフォーマンスに直ちに影響はないからね。あしからず♪」
ウインクしながら自信満々に言う。調子のいい性格の未央ちゃんだけど、
なんだかんだ言っても実力は折り紙つきだ。日本中が認めているところだろう。
今回のオーディション参加者の中でも際立っていて、109人中109人と言うのも、
彼女が望んだ順番のように感じていた。
最後の最後で、彼女は全てをかっさらっていくつもりなんだ。それだけの自信と、実力が彼女には有る。
「んじゃ、行きますか!」
残り74人。結果発表はまだまだだ。私たちは会場へと戻る。
でもその前に。
「あのっ、プロデューサー」
「ん?」
「またパワー、貰っていいですか?」
476 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:11:50.01 ID:QupQHEfu0
「へ? 美穂?」
彼の返答を待たず、私は彼と手を繋ぐ。なんというか、図々しくなってきたかも私。
「もう出番は終わったよ?」
「結果発表までありますから」
「大丈夫だって、美穂は必ず合格する。だから不安に思うことなんてないんだ。どっしりと構えておくんだ」
「でもきっと……。他のアイドルのパフォーマンスを見て、不安になっちゃいますから。だから、勇気を貰うんです」
「何事にも動じない、強いハートを私に下さい」
「こんなので、伝わるのかい?」
「はい。だってプロデューサーは魔法使いですから」
「魔法使い?」
彼が魔法使いで、私はシンデレラ。だったら王子様は……、一人二役。
「こうしているだけで、私は強くなれます」
「そっか。満足した?」
「はい。十分です」
477 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:26:24.51 ID:2pZaYt5W0
――
「それじゃあ戻ろうか」
「はいっ!」
「……」
「……」
「見ましたか、しぶりんや」
「うん。あれはどうなの? アイドルとして、プロデューサーとして」
「いいんじゃないの? 中学生カップルみたいでさ」
「中学生でも、あそこまで恥ずかしいことしないよ」
「しぶりんもプロデューサーが男の人だったならやってたかもよでっ!」
「変なこと言うな! ほら、戻るよ。行った行った!」
「ふぁあい……」
「今は良いかも知れないけど、あの2人の未来は……」
478 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:27:39.18 ID:2pZaYt5W0
――
「あの子、凄いね」
「あー。やっぱそう思う?」
「うん。パフォーマンスの質が他の子よりも高い水準だし、なにより曲にマッチしている」
「だね」
凛プロデューサーが耳元でつぶやく。マッチしている、か。仰る通りで。
エントリーナンバー46番、多田李衣菜。
前回はイケイケのロックだったが、今回は緩めの曲調に落ち着いたみたいだ。
個人的にはこっちの方が彼女に合っている気がする。
言ってしまえば、彼女は美穂にとってのNaked Romanceのように、
自分と共に成長する、生きていく曲を手に入れたのだ。それは、先の川島さんも同じだ。
「凛ちゃんは」
「ん?」
「自分にしか歌えないって歌ある?」
479 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:30:09.40 ID:2pZaYt5W0
「変なこと聞くね。カラオケ行けば入ってんだし、みんな歌えるよ」
そう返されると、返答に困ってしまう。共通認識かと思ってたけど、そうでもないのかな。
「えっと、聞き方が悪かったかな」
「嘘。言いたいこと分かってるからさ」
「要は、私にマッチした曲って事でしょ? あるよ。というかその曲だからCD出したんだし」
「デビューシングルのこと?」
「うん。有名な作曲家の先生に私に合っているだろう曲を数曲作ってもらって、その中からチョイスしたんだ」
「なるほどね。敏腕Pのコネは侮れないな」
「まあね。ほら、次の子始まるから静かにしよ」
「すんません」
人生経験はこっちの方が長いけど、業界人としては彼女は俺より1年近く前にデビューしている。
相手は美穂より年下の女子高生なのに、変にへこへこしてしまう。貫禄の違いか?
480 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:31:58.68 ID:2pZaYt5W0
「来たか……」
「どんなパフォーマンスを見せるか、楽しみだね」
「愛梨ちゃん、頑張れっ!」
エントリーナンバー63番、十時愛梨。服部Pの事務所の秘密兵器らしいが、如何なものか……。
「次の方、どうぞ」
「えっ? 私ですか? 十時愛梨です。エントリーナンバーは64」
「十時さんは63番ですね」
「あっ、ごめんなさい。63番みたいです」
タケダさんを前にしても、天然ボケは炸裂する。
「ビジュアルタイプかな。CDで聞く限り歌も上手かったけど、幾分か補正はあるだろうし」
凛ちゃんの言うように、見たところダンスは苦手でビジュアルアピールに強そうだけど……。
音楽が流れだし、パフォーマンスが始まる。ダンスはやっぱり不得手っぽいけど、俺達の予想は大きく裏切られる。
481 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:39:27.69 ID:2pZaYt5W0
「なっ」
「凄い……」
「よしっ」
プロデューサーズは3者3様のリアクションを見せる。
凛ちゃんは感嘆の溜息を溢し、服部Pは始まったばかりなのに大きくガッツポーズをして、
俺は思ってもいなかった切り札に言葉が詰まってしまった。
男性諸君の視線を集めてしまいそうな完成されたスタイル。彼女のアピールポイントはそこだと思っていた。
それは俺以外も同じだろう。きっとこの会場にいる人のほとんどが、愛梨ちゃんの本質に気付いていなかったと思う。
そのスタイルすら、どうでもいいと思えるほどの歌声。それこそが彼女の本当の武器だ。
プロの歌手でも、ここまで歌える人は数少ない。のびやかに通る歌声が会場を包み込む。
愛梨ちゃんは、ここにいる全員を見事に騙したのだ。
「こりゃ驚きだな」
CDで聞いて、彼女の歌は上手だと思っていた。ただ録音技術の発達もあって、ある程度修正が聞くようになっている。
だからライブでの生うたとのギャップが大きいアイドルも少なくない。
実際俺も、彼女についてはそうだと思っていた。だけど生で見た彼女はどうだ? 正直言って、化け物じみている。
482 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:43:20.58 ID:2pZaYt5W0
「ありがとうございました!」
愛梨ちゃんのパフォーマンスが終わると、あちらこちらから小さな拍手が聞こえてくる。
オーディションで拍手が起きるなんて前回今回と見て、初めてのことだった。
アイドルたちの席を見ると、美穂も未央ちゃんも拍手をしていた。
「――」
ただどういうわけか、未央ちゃんは複雑な顔をしている。
「はぁ。私らだってオーデで拍手は貰ったことないのに。これが才能ってやつ? 目に見える才能って、結構エグイね」
凛ちゃんが少し悔しそうに漏らす。なるほど、そいつは複雑だろうな。
NG2に次ぐ超新星、十時愛梨――。とんでもない子がやって来た。
「未央が焦らなきゃいいけど」
最後にそう弱々しく呟いて、凛ちゃんはメモ帳片手に黙って見学するようになった。俺もそれに倣って静かに見守る。
483 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:47:00.06 ID:2pZaYt5W0
――
「ふぅ……」
最後の休憩時間、私はすっかりぬるくなったスポーツドリンクを飲みながらボーっとしていた。
もうすることがないというのは、気が楽だ。
それでも、待ち続けるのも結構辛い。もう一度プロデューサーから勇気貰おうかと考えていると、
「あっ、美穂ちゃん。隣良いですか?」
「愛梨ちゃん。お疲れ様、かな?」
愛梨ちゃんがよいしょと言って私の隣に座る。
(視線感じちゃうなぁ……)
行きかう人々は私たちに視線を寄せる。それもそうだろう。
私はともかくとして、愛梨ちゃんは人を惹き付ける何かを持っている。
それは努力してどうにかなるものじゃない。生まれつき持っている、才能の様なものだ。
484 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:53:09.62 ID:QupQHEfu0
「愛梨ちゃんは、デビューしたのが12月なんですよね?」
「うん。それがどうかしました?」
「ううん、何でもないよ」
2ヶ月ほどでここまでの力をつけているのは、服部Pたちの努力の賜物か、それとも愛梨ちゃんの素質か。
認めるのは少し悔しいけど、私は後者だと思う。
スタイルの良さは言わずもがな、圧倒的な歌唱力は2ヶ月でどうにかなるものじゃない。
元々の素体が優れているという証拠だ。
「ここでゆっくりしていたいですねー。はぁ、肩が凝っちゃった」
どれだけ努力しても到達出来るか分からない世界へ、彼女はほんの少しの時間でたどり着いたんだ。
生まれた時からアイドルになることを宿命つけられていた、そう考えると不思議としっくり来る。
「んしょ、んしょ……」
疲れたように自分の肩をもむ愛梨ちゃんは、可愛いと思うと同時に恐ろしくも感じた。
底が見えない――。彼女はまだまだ進化し続けるだろう。
485 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:56:14.33 ID:40gUGq6Y0
「嫉妬しちゃうなぁ」
「?」
仲良くなった子が褒められるのは嬉しいことだ。だけど、手放しに喜べない自分もいるわけで。なんとも複雑な気持ちだ。
「あっ、そろそろ時間だ。戻りましょう!」
「……えいっ」
飲み干したペットボトルを、ゴミ箱に向けて投げてみる。
勢いよく飛んだそれは、ゴミ箱のふちに当たってコロコロと転がる。
「惜しいですね」
「……上手く行かないなぁ」
ゴミはゴミ箱へ。そのままにせず、ちゃんとゴミ箱に入れる。格好悪い所、見せちゃったな。
「よしっ、気合入れて聴くぞ!」
残り24人。1時間と数分だ。また緊張しちゃうんだろうなぁ。しても何も変わらないのに。
「頑張れ、未央ちゃん」
ここにはいないお調子者にエールを送っておく。
486 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 22:57:36.22 ID:2pZaYt5W0
「108番の方、ありがとうございました」
煩悩の数、終了。そして最後を飾るのは、この人。
「本田未央! です。よろしくお願いします!」
「あれ?」
未央ちゃんも緊張しているのかな。心なしか、焦っているように見えた。
「……ッ」
ぎこちなく審査員の前に立つ彼女に、少し違和感。
「あっ、うん。そうだよね。ふぅ……」
だけどその違和感はすぐに修正される。何かを見つけたのか、震える身体は落ち着いていく。
「にっ!」
「?」
未央ちゃんはこっちに振り向きニコリと笑った。やっぱり、気のせいだったのかな。
487 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:01:49.36 ID:SVjuui8a0
――
「108番松山久美子さんか……」
「?」
先ほどパフォーマンスをしていたアイドルの名前を呟くと、メモを始める。
審査が始まった時から、彼女は時々こうやってメモを取る。一体何を書いているんだ? 採点ごっこ?
「見ないでよ、変態」
「いや、見てないって。って変態ってなんだ変態って」
「女子とお手洗いに行ったとか言う人のこと。ほら、未央の出番……。はぁ、やっぱりこうなるか。休憩中にメンタルケアしとくんだった」
「へ?」
困ったように溜息をつく凛ちゃんは視線をステージの上の未央ちゃんに向ける。
「ああなった未央は失敗しやすくなるの」
「あらま」
似ているのだ。アイドルになりたての頃の美穂に。

488 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:05:18.67 ID:SVjuui8a0
舞台慣れしているはずなのに、ファーストホイッスル特有のプレッシャーのせいか、
未央ちゃんは素人目にも分かるぐらいにガチガチになっていた。
「愛梨のパフォーマンスが毒になったね……」
「へ?」
「未央の悪い癖。自分より出来てると思った相手が出ると、焦ってしまうんだ。現在進行形でその症状が出てる」
逆に言うと、美穂のパフォーマンスは取るに足らないものだったって訳か。うん、複雑だ。
「――」
「手話?」
「うちらのサイン。大声出してエール贈るわけにいかないでしょ?」
凛ちゃんの手が放つメッセージの意味は分からないけど、ちゃんと未央ちゃんに届いたみたいで。
「あっ、うん。そうだよね」
いつもの調子を取り戻したみたいだ。いったん後ろに振り返る。彼女の目線の先は、美穂?
489 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:18:47.42 ID:7mLCnIXc0
音楽が流れると、未央ちゃんはテレビで見た以上に軽快でダイナミックなパフォーマンスを魅せる。
愛梨ちゃんに隠れてたけど、彼女も何気にスタイルがいい。
「これが未央ちゃんか……」
「生で見るのは初めて?」
「恥ずかしながらね」
「じゃあとくとご覧あれ。なんてね」
映像媒体で満足していた自分がバカみたいに思えてきた。アイドルは生で見てナンボだ。
ダンスの完成度、歌唱力でなら他のアイドルが勝っている部分もあるだろう。
とりわけ歌唱力に至っては、愛梨ちゃんと言う化け物がいるし。
「感服するよ」
だけどそれ以上に、彼女のアピール技術は天賦のものが有った。
ベストなタイミングで、ベストなアピールが出来る。簡単そうに聞こえて、かなり難しいテクニックだ。
未央ちゃんはその難しさを感じさせないアピールを連発する。
こればっかりは、現役アイドルの中でもトップクラスの実力と思っていいだろう。
490 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:20:13.58 ID:YN5Lkg5G0
「ありがとうございまーす!」
ウインクを残して、曲が終わる。
「気が利くね」
「そりゃどうも」
2人でこっそりと拍手をしてみる。ブラボーって言っても良かったかな。
「ありがとうございました。それでは、結果発表までしばらくお待ちください」
全てのパフォーマンスが終わり、タケダさんたちはそう言い残して会場を出る。
会場を覆っていた緊張感は一瞬にして消えて、アイドルたちの顔に疲れが浮かんできた。
「ドキドキの結果発表か……」
合格者は未定だが、大体いつも多くても3組だ。美穂はその中に滑り込むことが出来るか――。
「今回レベル高かったですね」
凛ちゃんのいた席に美穂が座る。凛ちゃんは未央ちゃんと話しているみたいだ。
「最後のチャンスだからね。NG2みたいに、再登場って人は流石に居ないみたいだけど」
491 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:23:18.19 ID:BXtAv2ap0
それぞれの思惑、夢、意地がぶつかり合ったハイレベルなオーディション。
それでも、ステージに立つことが出来るのは一握り。
「プロデューサー。私、合格できるでしょうか?」
不安げに尋ねる。パフォーマンスの後はハイな気分だったけど、
その後冷静になっていくにつれて、他のアイドルに引け目を感じてきたのだろうか。
「んーっ。天命さんを待つしかないな」
座りっぱなしだったので、背伸びをするととても気持ちが良い。
「そうですね。私たちに出来るのは、それだけなんですね」
「美穂が望んだ答えじゃないかもしれないけど、それがベストな返答だな」
「いえ。大丈夫です。少し、気が紛れました」
今日まで俺たちは人事を尽くしてきたつもりだ。だから後は、なるようにしかならない。
「大変お待たせしました。これより、結果発表に移ります」
「ほら、席に戻りなさい」
「はい」
492 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:27:58.61 ID:BXtAv2ap0
審査員たちの登場に、騒々しかった会場は一気に静まる。心臓の鼓動は響き、緊張が走る。
「今回のオーディションは非常にレベルの高いものでした。運命の36週が絡んでいるとはいえ、皆様の熱意は十分に伝わってきました」
「私たちも、審査員と言う立場で皆様のパフォーマンスを見ることが出来て、とても誇らしく思います」
「ですが、私たちの理想の音楽を体現したアイドルはまだまだ少ない。どうか、今回合格した方々が、理想に共感して浸透させてくれることを、願っています」
アイドルたちも担当プロデューサーたちも、まだかまだかとタケダさんの言葉を待っている。
「……」
祈るように目をつぶる服部P。
「ふぅ」
あくまで態度を崩さず、余裕を見せる凛ちゃん。
「行けるっ」
そして俺の心臓は爆発寸前。早く行ってくれないと、心臓麻痺で倒れそうだ。
「前置きが長くなりましたね。合格したユニットは……」
493 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:28:54.02 ID:BXtAv2ap0
「18番、25番、47番、63番、109番の5人です。おめでとうございます」
494 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:31:08.19 ID:BXtAv2ap0
「今、18番、って言ったよね……」
おれゆめみてるとかないよな? ほほをつねる。うん、いたい。
「うん、言ったね。おめで」
「いよっしゃあああああ!!」
「うっし!」
「ちょ、2人ともうるさいって!」
女子高生に注意されるいい大人2人。と言っても、凛ちゃんもなんだかうれしそうな顔をしている。
「御三方、喜ぶのは構いませんが、程々にお願いしますね」
アイドルより盛り上がったら、怒られるわな……。
「あっ、すみません」
「……私まで巻き込まれたじゃん」
「後でコーヒー奢るからさ」
「私、言うほどコーヒー好きじゃないんだけど」
495 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:33:30.67 ID:BXtAv2ap0
――
「18番、25番、47番、63番、109番の5人です。おめでとうございます」
ずっと続くかと思われた沈黙の後、タケダさんはそう言った。
「え、えっと……18番?」
自分の番号札を確認する。18番だ――。
「やっ」
「いよっしゃあああああ!」
「うっし!」
「ちょ! 2人ともうるさいって!」
「御三方、喜ぶのは構いませんが、程々にお願いしますね」
「った?」
私以上に喜んでいるプロデューサーたちが微笑ましい。でもこれ、夢じゃないよね?
「いたひ」
頬を思いっきりつねる。痛みはある。つまりこれは、現実だ。
「ここまで、来れたんだね」
不意に目から流れる涙。そっか、今日の私は、嬉しくて泣いているんだ――。
499 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2013/02/15(金) 23:44:42.10 ID:fuSjohgbo
>>1乙です
これからの展開が楽しみだ
それはそうとだりーなの番号が46で合格は47って落ちてもたんですかね(震え声
501 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/15(金) 23:49:21.38 ID:KVD6Rnz70
>>499
素で間違えてもうた……。だりーなの番号を47にしておいてくれると助かります。
46番は誰だろ? ユッキ?
502 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2013/02/16(土) 00:58:22.83 ID:hbWydnVYo
CD第三弾組が揃って合格ね。わかるわ
503 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:08:27.05 ID:sYzhGMjy0
「それではファーストホイッスルのオーディションを終了いたします。合格者とその関係者は打ち合わせがございますので、残っていてください」
そう締めくくられて、今回合格できなかった参加者は会場から出て行く。
「プロデューサー。これ、夢じゃないですよね?」
さっき確認したのに。それでも、自分の置かれている状況がファンタジーじみていて、いまだに信じられない。
彼も同じだったのか、右頬が少し赤くなっている。
「ああ、夢じゃないよ。俺たちは1つ、夢を叶えたんだ」
「あんまり、実感がないです」
「そう言うもんじゃない? 夢って」
今日までどれだけの時間。この日のために費やしてきたのかな。学校以外の時間は殆どかけたはずだ。
だけどオーディションは3分間だけで、ファーストホイッスルも1時間番組。
そのうち、私がピックアップされる時間はさほど長くないだろう。
5人もいるんだ、1人1人の時間は長く取れないはず。
504 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:10:17.64 ID:+2bDKIh10
「皆さん集まりましたね。まずは合格、おめでとうございます。素晴らしいパフォーマンスでした、掛け値なしに」
「さて、打ち合わせと行きたいのですが、その前に説明しておきたいことが。今回は5人と言う本番組始まって以来最大の合格者数が出ました」
やっぱり5人って言うのは珍しいことなんだ。他の番組ではそうでも無いけど、
この番組に関しては合格者は人数は決まっていないと謳っていながら、多くても3組ぐらいだったのに。
「私どもとしても嬉しいことですが、同時に尺の問題を機にされている方もおられると思います」
私の心を見透かしているかの様な発言に、ビクリとしてしまう。
「そこは心配いりません。今回の放送は2時間枠の特別編成と言うことになりましたので」
急な話で少し驚く。2時間番組ってことは、それなりに時間を使ってくれるってことだよね?
「ファーストホイッスルの後に放送される番組でトラブルがあったみたいで、放送延期と言うことになりました。そこで生放送をしている私たちに、尺埋めをしてほしいということで話が来ました」
「あまり手放しで喜んでいいものでもありませんが、折角のチャンスです。皆様には今日以上のパフォーマンスを期待しています。それでは、打ち合わせと行きましょうか」
打ち合わせが始まると。私は頷くことしか出来なかった。
難しい話は、プロデューサーがしてくれるから、とりあえず、『はい』と言っておけばいいんだ。
505 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:12:59.42 ID:7p5hTnAy0
「それじゃあこの方が……」
「なるほど。それではこれで。問題は有りませんか?」
「いえ、大丈夫です」
そんな私と対照的に、大人たちに混じってあれこれ意見を言う凛ちゃんの姿が格好良く見える。
「皆様、お疲れ様でした。それでは本放送もよろしくお願いします」
長い打ち合わせが終わって、背伸びをする。体中の緊張がどこかに飛んでいく気がして、すっきりとする。
「結構な時間だね」
時計を見ると、19時過ぎ。10時間近くこの場所にいたんだ。
「えっと、結構家から遠かったから……」
今から家に帰るとなると、21時前になるかな。疲れないわけがなかった。
「そうだ、プロデューサー。お弟子さん見ました?」
「あー、そう言えば来てたっけ。話しかけようとしたんだけど、忙しそうだったから結局話せなかったな。ファーストホイッスルの収録の時にでも会えるんじゃないか?」
506 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:14:55.92 ID:7p5hTnAy0
「そうですね。その時にちゃんとお礼しないと」
「だな」
このオーディションを乗り越えることが出来たのは、Naked Romanceを作曲して、私に託してくれた彼の力が大きい。
だからちゃんと私の口から言いたかった。ありがとうございましたって。
「いないっぽいし、長居するのもあれだな。帰ろうか」
「はい。えっと、失礼いたしま」
「あーっと、ちょい待ち!」
晩御飯をどうしようかなと考えていると、未央ちゃんが両手を広げて通せんぼをする。
「それされちゃ出れないんだけど……」
「折角だよ? 折角こうさ、事務所も経歴も違うアイドルたちが集まってんだよ?」
「それも何の因果か、同じ日にCDデビューしたアイドルばかりね。未央の場合はソロとしてだけど」
そう言えばそうだった。李衣菜ちゃんも川島さんも、1月23日にCDを出したんだ。
本当に偶然と言うのは恐ろしい。私たち5人は、1月23日会とでもいうべきかな。
507 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:18:37.86 ID:7p5hTnAy0
「親睦を深めないというのは、どうかと思わない? だから私は思うわけですよ! 食事会開こうと。ビバ、情報交換の場だよ!」
「アンタは外食したいだけでしょうが」
「良いじゃんかぁ。祝勝会だよ、祝勝会」
「収録が終わった後も打ち上げとか言ってそうだね」
「どうする美穂?」
祝勝会か……。
「ん? どうかした?」
「い、いえ。プロデューサー、私たちも行きませんか?」
「だね。俺も皆さんのプロデュースに興味が有りますし」
「んじゃ決定だね。良い場所知ってるからそこにしよう! きっと満足するよ?」
とりあえず未央ちゃんに任せておこう。祝勝会は楽しみだけど、本当は――。
「お酒はナシでな。俺車で来てるし」
彼と2人でしたかったけど、今日はわいわいはしゃいじゃおう。
508 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:24:10.78 ID:7p5hTnAy0
「さぁ着きましたよ!」
会場から歩いて3分ほど。緑の看板が目印だ。
「ここが未央ちゃんの一押しなわけ?」
「ここ、ファミレスじゃん」
噂のサイ○リアだよね、ここ。初めて見た。
「満足する場所じゃん! 安価で美味しイタ飯が食べれるんだよ? 少なくとも、私はいつものって言えばいつものが届くぐらい通ってるよ」
もっと豪勢な所に行くものと思っていたから拍子抜けしてしまう。
いくら売れっ子と言っても、やっぱり普通の女子高生と何ら変わりないんだ。
「飲み屋か。味と値段は否定しないけどさ。みんなは良いの?」
「私、このお店に入ったことないんです」
「へ? そうなん?」
「仕方ないか。熊本にはこの店ないからな。というか九州じゃ福岡にしか置いてないんだ」
「あらま。それじゃあ、デレプロコンビは大丈夫だね!」
509 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:33:39.80 ID:u33FsEqN0
「プロデューサー、そんなに美味しいんですか?」
「あーそうだね。コスパは良いかな。安くて美味しいってのはクリアしてるかも」
この歳になってサイ○リア初挑戦だ。妙にドキドキする。
「美穂ちゃん見てると懐かしいですね。秋田にもサイ○リアは無かったんですよ。だから初めて入る時、おめかししちゃいました」
愛梨ちゃんって秋田出身だったんだ。九州出身の瞳子さんと東北出身の愛梨ちゃん。逆の方がしっくりくるのはキャラクターのせいか。
「私は大丈夫ですよ! 講義の間とか良く行ってますし」
そう言えば愛梨ちゃんって何学部なんだろう。意外に理系だったりして。
「私は全然オッケーだよ。新しいヘッドホンとギター買ったばかりでお金がヤバかったとこだし」
ロック系アイドルを目指すだけあって、ギターとヘッドホンは必需品みたいだ。
「まぁ、15、6歳の子からすればご馳走なのかしらね?」
川島さんは大人の余裕を見せている。きっといいお店沢山知っているんだろう。
「それじゃあゴーゴー! あっ、10名で禁煙席で良いですよね?」
アイドル5人とそのプロデューサたち。はた目から見ればどう映るのだろうか? お見合い?
510 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:44:29.70 ID:u33FsEqN0
――
「ううん……」
「お疲れさんだな」
ラジオから流れる心地よいクラシックが子守唄となったのか、美穂は深い眠りに落ちた。
赤信号に捕まるたび、隣の寝顔をのぞいてみる。急ブレーキをかけても、起きやしないだろうな。
『はい、チーズ!』
ファミレスでの祝勝会は大いに盛り上がった。殆ど初対面と言っても良かった5人だったけど、
会計を済ます頃には一緒に写真を撮るぐらいには仲良くなったみたいだ。
『それじゃあまずは自己紹介タイムから!』
仕切り上手な未央ちゃんのおかげだろうな。彼女がうまい具合に場を盛り上げてくれた。NG2のムードメイカーは伊達じゃない。
「社長に話してみるか」
未央ちゃんは写真をブログに貼ると言っていたけど、美穂もブログないしTwitterを解禁してもいいかもしれない。
ファンとの交流の場としては最適だけど、使い方を誤れば取り返しのつかないことにもなる。
まぁ美穂はしっかりしてるし、そこん所を外すと思わないけど。
511 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:51:00.50 ID:2gb/6va20
「しかし……、あれはなんだったんだろ?」
良いことばかりに思えた今日だけど、1つ引っかかることが。
それは、凛ちゃんのこと。
『見ないでよ、変態』
彼女のプライベートなことが書かれた手帳なら分かる。だけどあの手帳は……違った。
祝勝会をしめて、会計の後のことだった。支払いを終わらせ、俺たちは店を出る。
その時、凛ちゃんはポケットから手帳を落とした。
「おっ、凛ちゃん。手帳落とし」
いきなり吹く強い風。落ちた手帳は風でめくれて、偶然にも付箋の張られたページで止まる。
「ッ!」
「凛ちゃん?」
「いや……。何でもないよ。さっ、出ようよ。美穂なんかもう眠そうだしさ」
「あっ、美穂? 起きてるかー?」
512 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 14:58:38.98 ID:Km9N3++Z0
慌てたように拾われて、凛ちゃんは何事もなかったかのように振る舞う。
だけど書かれていたのは、嫌でも興味を惹かれる内容。そして、俺に一抹の不安を与えるものだった。見えたページには、こう書かれていた。
Project Southern Cross ファーストホイッスルオーディション報告
108番、松山久美子――Type Passion 未央や先のオーディションに参加していた―――羽と同系統のアイドル。
ビジュアルアピールに特に―――あるみたいで、特に綺麗に見られるという技術については未央と十時愛梨以上。
スタイルも良くダンスも非凡な才を感じたけど、―だけは苦手みたいだ。評価はA。
32番、神谷奈緒――Type Cool 系統としては―や加蓮に近いか。
恥ずかしがり屋な一面があるも、振り切れた後の爆発力のあるパフォーマンスは好感が持てる。
個人的にだけど、照れた顔が案外――――。きっと―たちともうまく行けるはず。
後―が太い。好景気なんだろうか? 評価はA-。
18番、小日向美穂――Type Cute 親友の卯月と同じタイプ。
パフォーマンス自体は際立っているわけじゃないけど、―――節に溢れたNaked Romanceとの親和性が非常に高く、
今回のオーディションの――を最も体現できていたと思う。
――と並んだ時のバランスとも、悪くないか。担当プロデューサーとある種の―――の関係? が気にかかる。
評価はA。
513 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 15:04:45.15 ID:Cu29clJd0
一瞬のことだったから、所々虫食いされてたり、合っている自信はないけど、だいたいこんな感じだった。
今更確認のしようはないけど、網膜に残るほどのインパクトがあったのは事実だ。
自分でもよくここまで憶えれたものだと感心する。
「Project Southern Crossってなんだ?」
その一文がなければ、俺は凛ちゃんが参加アイドルたちの評価を個人的にしいているものだと考えていただろう。
だけど、余りにも怪しすぎる。そのせいで、彼女に疑念が生まれてしまった。
何故その3人なのか?
なんたらかんたら羽? と加蓮って誰だ?
あの反応は一体?
南十字星プロジェクト? どういうこっちゃ。沖縄にでも行くのか?
「なんだかなぁ」
メモ帳を一切手放さなったのは、俺の隣で同じように参加者を採点していたからだろう。
それに一体どういう目的があるか分からないけど、俺は得体のしれないもの不安を感じていた。
虫の知らせと言うのか? なんだか、嫌な予感がする。
514 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 15:05:58.99 ID:Cu29clJd0
「気にしても仕方ないか……。ほら、美穂。着いたよ」
家に着いたのは22時半だ。この後俺は帰って溜まっていた仕事をしなくちゃいけない。
眠る時間も惜しいぐらい、忙しくなっていく。
「んん……。あれ、私寝ていたんですか?」
「それはもう、気持ちよさそうに。よだれついてるよ」
「へっ? み、見ないでください!」
そっぽを向いて口元を拭く。反応が小動物みたいで可愛く、さっきまでの不安も少しだけ和らいだ。
「えっと、送って下さり有難うございます」
「今日は疲れただろ? 早く寝て明日の活動に支障が出ないようにしないとな。本番当日になって風邪ひきましたじゃざまぁないからね」
「はい。それじゃあプロデューサー、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
515 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 15:09:13.10 ID:Cu29clJd0
彼女の部屋まで送る。管理は徹底されているけど、もし悪質なファンが出待ちしていたら洒落にならない。
「誰もいないよな?」
まだいないと思うけど、パパラッチがうろついている可能性も無きにしも非ず。
厄介なことに巻き込まれる前に、立ち去ろう。
「ふぅ……」
車に戻って一息つく。ここでたばこでも蒸かしていれば、絵になっていたかもしれないな。
そんなガラでもないし、アイドルを預かる立場としちゃタバコはご法度だ。
「よし、俺ももうひと頑張りすっかね」
事務所に戻ってしなければいけないことは山ほどある。流石にちひろさんも帰っているだろう。
こういう時、事務所の鍵はドアの前に置かれた植木鉢に埋められている。なんと古典的な隠し技だろうか。
「行くかっ」
色々と思うことはあるけど、まずは美穂が一つ夢を叶えたことを素直に喜ぼう。
「おめでとう、美穂――」
516 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 15:11:04.56 ID:3WWwKLw+0
――
電話の向こうから流れる待ち歌は、私のソロデビューシングル。彼女のこういう気の利いたところが、私は好きだ。
「もしもし、プロデューサー? 私だけど」
「うん。今日のことはさっきメールした通りだから。十時愛梨はどうだったって? うん、未央が焦ってたよ。経験の差で何とかなったけど、結構ヤバかったかも」
「うん。彼女はユニット向きじゃないかな。残念だけどね」
「でも収穫も多かったよ。その3人は実際に見て貰う方が早いかな。きっといい感じにマッチすると思うよ。そっちは収穫有った? そう、それは残念だね」
「報告遅くなってごめんね。それじゃあまた明日。お疲れ様です」
ええ、さようなら。そう言って彼女は電話を切る。
「ふぅ。これで、後は帰るだけだね」
「しぶりん、プロデューサーと電話してたの?」
「うん。報告をいくつかさ」
「ご苦労様だねぇ」
517 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 15:15:52.72 ID:IP0djuFD0
私がプロデューサーに代わってオーディションを見に来ていたのは、未央の付き添いという理由だけじゃない。
この場に来れない彼女に代わり、任務を果たしていたところだ。
任務と言うと、言い過ぎな気がするけど。まぁ視察って所だ。
「うーん。あれにみほちーを巻き込むってのはどうなんだろうね?」
「巻き込むって人聞きが悪いね。間違ってはないけどさ」
立場で捉え方が変わってくる。もし私が美穂たちの立場なら、迷惑な話と思うのだろうか。
「こう言っちゃなんだけど、みほちーは……、あれだよ、あれ。ほら、あれだって。分かるでしょ?」
未央は語彙力が有る方じゃない。あれだよあれと言って私たちを悩ますけど、付き合いは長いんだ。
アンタの言いたいことは大体分かる。
「プロデューサーに依存してるって言いたいんでしょ?」
「そうそれ! それが言いたかった! しかもプロデューサーの方もみほちーにべた惚れって感じだし。良いなぁ、ああいうの」
「うん。見てて面白かった。だから、気が引けるよね」
518 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/16(土) 15:23:52.10 ID:cFB5QiZf0
恋は盲目、乙女の原動力とは良く言ったものだ。色恋沙汰は私にはよく分からない感覚だけど、私らも似たようなもの。
ここまで頑張ってこれたのも、彼女がプロデューサーだったからだ。
でもあの2人は、互いに依存し合っているようなもの。プロデューサー自身は自覚が無いのかも知れないけど、
話してみて分かった。彼も大概美穂に依存している。
「あの人からしたら、そんな都合知っちゃこっちゃないんだろうけどさぁ。どうなるかな? しまむーは喜びそうだけど」
どうだろうか。卯月の性格なら、却って申し訳なく感じそうだ。
私たちと違って、あの2人のことをよく知っているから。
当然、美穂の想いにも気付いているだろう。それが、彼女を突き動かしているということも。
「さぁね。先のことなんて、誰にも分からないよ」
どう転がるか分からない。私たちは、プロデューサーが振ったダイスに身を任せるしかない。
例え良くない方向に転んでも、あの人と心中する覚悟は出来ている。卯月と未央も、同じ気持ちだろう。
でもそれに、彼女たちを巻き込むのは……、ううん。あの人のことだ、上手くやってくれる。
いつだって、最良の結果を掴んで来たんだから。
「アンタらは、どう出る?」
気分は悪の組織の幹部。うん、案外こういうのも悪くない。
522 : 10話 ショコラ~変わる世界と変わらない想い~ ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:17:20.29 ID:2vZMyEXY0
――
「バレンタインディキッス♪」
ラジオから昔のアイドルソングが流れる中、私達は甘いチョコレートの匂いに包まれる。
「まだまだ混ぜなきゃダメっぽいですね」
「チョコを作るのも大変ですよ?」
明日2月14日はファーストホイッスル収録日、そしてバレンタイン。
『そんなものお菓子メーカーの陰謀ですよ』
だなんてプロデューサーはぼやいていたけど、
『え? 欲しくないですか? 残念です、作ってこようと思ったのに』
『喜んでもらいますとも!』
と、ちひろさんがあげると言うと、イヌみたいに喜んでいた。
『あだっ!』
『ごめんなさい、足踏んじゃいました』
何とも嫉妬深くなったものだ。それもこれも、彼が悪い。
523 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:20:50.93 ID:Hkm3QVIs0
欲求には素直な彼と、悪意はないけどチラチラ煽るように見てきたちひろさんにムッとして、
ならば私も! と気合を入れて朝からチョコレートを作ってみることにした。
幸いと言うべきか、今日は仕事がない。失敗しても、夜までに何とかなるだろう。
「少し温度下げますか……」
だけど私は生まれてこの方チョコレートを作ったことがなく、勝手もよく分からなかったので、
大学のお菓子作りサークルに所属している愛梨ちゃんに手伝ってもらうことになった。
「ところで美穂ちゃんは誰に渡すんですか? あの人とか?」
「ほ、他にもいますよ! もちろん、プロデューサーにもあげますけど!」
「あの人ってだけしか言ってないですよ? と言ってもあの人って呼べるほど共通認識している男性はいない……ってなにいってるんだろ、私!?」
「さぁ? 分からないです」
愛梨ちゃん的にはカマをかけたつもりだったみたいだけど、逆に本人が混乱してしまった。
524 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:25:26.47 ID:Hkm3QVIs0
お父さん、プロデューサー、服部P、社長、会えればお弟子さん。親しい男性はこの5人だ。
後、友チョコも作ろう。卯月ちゃんはもちろん、共演する皆に用意するのもいいかも。
ただお父さんだけは郵送って形になるから、郵便局が閉まるまでに出来なさそうなら、市販のものを送るしかない。
「あっ、服に付いちゃった」
この部屋暑いですねぇ、という理由でなかなか際どい格好をしている愛梨ちゃんの胸のふくらみに、
溶けたチョコレートがポトリと垂れる。
しかもそれがホワイトチョコだったから……、なんというか、扇情的?
「舐めちゃえ。うん、甘い」
「……愛梨ちゃん?」
愛梨ちゃんの恐ろしい所は、一切の計算なくすべて天然だということ。
もしここにいるのが私じゃなくて、男の人だったなら? 想像するのも恥ずかしい展開が待っているに違いない。
「どうかしました?」
愛梨ちゃんのサークル、男性多いんだろうな。
525 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:29:40.12 ID:bxTxdVg30
「そう言えば愛梨ちゃんはチョコを作らないんですか?」
「私はもう作ってますから! これだけど……」
「凄い、本格的だ……」
「こう見えて、ケーキ作りは得意なんですよ? ケーキ作りでトップアイドル目指すなら、すぐになれるんだけどなぁ」
写メられていたのは、可愛らしくデコレートされたハート形のチョコレートケーキ。
街のケーキ屋さんでも売ってそうな出来だ。流石製菓研と言うべきか。
パティシエアイドルってのも彼女らしくていいな。
「美穂ちゃんも作ります?」
「えっと、ここまで本格的なのじゃなくてもいいかも……」
それこそ明日までに出来るか分からない。
「残念。じゃあどんな形が良いとかは?」
「そうですね……」
ハート形は流石に恥ずかしい。でも彼には、特別なチョコをあげたい。乙女心は複雑だ。
526 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:32:10.69 ID:bxTxdVg30
「あっ、プロデューサーくん」
周りを見渡すと、ベッドで寝ている彼の姿が。
「うん?」
「プロデューサーくんです!」
「へ? プロデューサーくんって……、あの人? 流石にヒト型は難しいです……」
「え? あっ、その……。プ、プ口リューサーくんってのは、あのクマさんのことでして! ちょうどホワイトチョコも溶かしてるからちょうどいいかなぁって!」
自分でもテンパって何を言っているか分からない。鏡に顔を映せば、トマトが映っているはずだ。
「あー、クマさんの名前ですか。良い名前ですね!」
「そ、そうですよね! ねっ!」
愛梨ちゃんが天然でよかった。心からそう思った。
「クマの型紙なら、直ぐに作れますね。作っちゃいましょう」
慣れた手つきで型紙をクマの顔の形にする。ネズミとかには見えないはずだ。
527 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:36:42.91 ID:wAtttuLQ0
「ここに流し込めばいいんですよね?」
「そうですよ。それであとは冷蔵庫に入れれば、完成です!」
本当ならもっと早く終わったんだと思うけど、私の手つきが拙いこともあって必要以上に時間がかかってしまった。
「美味しく出来たかな……」
「美穂ちゃん、こういうのって心がこもってたら美味しくなるんですよ。そうテレビで言ってました」
「テ、テレビでですか……」
「あれ? 製菓研の先輩だったかな? えっと、とりあえず料理はハートなんです! ハートイートなんです! ラブイズオーケーってリーダーも言ってました!」
「リーダーって誰ですか?」
「リーダーって……誰でしょ?」
どこかピンとのずれた励ましだけど、そう言ってもらえると助かる。
料理は愛情が最高の調味料だ! とは母親の談。
私なりに、心を込めて作ったんだ。きっと美味しいはず。
528 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:38:28.21 ID:wAtttuLQ0
「そういえば、愛梨ちゃんは誰に渡すんですか?」
「サークルの皆とか、後プロデューサーさんかな。いつもお世話になってますし。あのチョコレートケーキは、プロデューサーさん用ですよ」
あんな凄い物を渡されて、本命だと思わない人はいないだろう。つまり愛梨ちゃんは彼のことを――。
「でもプロデューサーさん、一途だからなぁ……。分が悪いかも」
「へ?」
「あっ、こっちの話です! やることなくなっちゃいましたね」
誤魔化すように取り繕う愛梨ちゃん。彼女も彼女で乙女しているんだ。
「そうですね、テレビでも見ますか?」
この時間は何をやってたっけ? 適当にザッピングしてみる。
「あっ、川島さんだ」
「温泉リポートですね。良いなぁ、温泉」
たまたまついたチャンネルでは、タオルを巻いた川島さんが温泉リポートをしていた。
湯気の中映る彼女は、なんとも色っぽい。
529 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:42:16.23 ID:wAtttuLQ0
「川島さんトーク上手いなぁ。尊敬しちゃいます」
愛梨ちゃんが言うように、川島さんはトークが抜群に上手い。
当然人生経験の差もあるんだろうけど、アナウンサー出身と言うこともあってか、
時間通りに話をまとめることも出来て進行を妨げないトークは凄いと思った。
でもどうしてアイドルに転向したんだろう。気になる。
「他には何やってるんだろ」
これまた適当に変えると、今度は李衣菜ちゃんが映っていた。スタジオのセットを見るに、クイズ番組かな?
『残念不正解! お前は本当にロックのことを理解しているのかーっ!?』
『へ? ぶはっ!』
ブブーとブザーが鳴ったと思うと、頭上から大量の粉が降ってきて李衣菜ちゃんは真っ白になる。
『正解はBのリップ&タン! ローリング・ストーンズのロゴマークですね!』
『けほっ、けほっ……。これまたロックですね……』
何を言っているか分からなかったけど、どうやらロック関係のクイズに不正解だったということらしい。
そう言えば前の祝勝会でも、ロックが好きだと再三言う割には、同じくロック趣味の凛ちゃんの振る話題にあまりついて行けてなかったっけ。
530 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:50:43.60 ID:dMuu+1JB0
『私の本気、見てみない? ホンダ味噌……って五月蠅いな!』
つけっぱなしのテレビから、未央ちゃんの声が。彼女の明るいキャラクターが人気のお味噌のCMだ。
ソロでのCDデビューを果たしてから、彼女もピンの仕事が増えてきた。
もう誰も、NG2のオレンジだなんて呼ばないだろう。
それは卯月ちゃん凛ちゃんにも言えることだ。ファーストホイッスル合格後、2人もピンの仕事が倍増したらしい。
『来た仕事は全部受けるようにしてるんだ。おかげで体がいくつあっても足りないかな?』
とは卯月ちゃんの談。疲れたと言いながらも、本人は忙しい日々に満足しているみたいだった。
「みんな頑張ってますね」
「他人事……?」
「私も頑張ってますよ! でも、色々実感が湧かないんですよねー。つい2か月前まで、私もテレビの前で次のドラマの主役誰だろって思いながら見てたんですし。変な感じです」
のんきなことをいう愛梨ちゃんだけど、彼女もファーストホイッスル合格と言うことで、
ドラマの主役と言う大きな仕事が入ったのだ。
デビュー間もない新人アイドルがドラマ主演と言うだけでも話題になるのに、それも天下の月曜9時だ。
ファーストホイッスルの放送が終わった後には、どれだけの反響があることか。
531 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 00:58:33.70 ID:YS+GyKaT0
「美穂ちゃんも大きな仕事入ったじゃないですか?」
「うん。熊本の方だけどね」
周りの皆の世界が変わって行く中、かく言う私も合格後仕事が増えてきた。
その中で最も大きいのが、ホームグラウンド熊本での仕事、銀幕デビュー。
「私に出来るかな?」
「お似合いだと思いますよ?」
熊本で撮影される時代劇映画に、私はお姫様役として出演することが決定したのだ。
『この役は貴女しかありえない!』
『えええ!?』
オーディションを見に来ていたらしい映画のスタッフさんが、109人のアイドルの中から私を選んでくれた。
『えっと、小早川さんの方がお姫様っぽいと思いますけど……』
驚かないわけがない。だってあのオーディションには、現代のかぐや姫こと(勝手に私が呼んでるだけだけど)小早川さんがいたんだ。
私なんかより、数百倍お姫様役に適任だ。
532 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 01:07:59.57 ID:uOS8Ia8f0
それでもスタッフさんは、熊本を舞台にするとのことで地元生まれの私を使いたいと言うこと、
そのお姫様役に小早川さんはマッチしないなど説明をして、プロデューサーの説得の元、仕事を引き受けることにした。
後で知ったことだけど、この映画は結構なお金がかかっているみたいで、放映どころか撮影もまだまだ先なのに、
既にあちこちで話題になっているらしい。
『有名な監督に、主演俳優も大物俳優とイケメンアイドルのコンビだ。美穂の役もかなり重要な役回りを持ってるし、これは波が来たか? 乗るしかないぞ、このビッグウェーブに!』
映画に初挑戦ということで緊張している私を尻目に、プロデューサーは自分のことのように喜んでくれた。
撮影が始まるのは桜が咲くころ。熊本城に咲き乱れる桜は、それはもう圧巻の一言。
その中でお姫様の服を着るんだ。なんとロマンチックなことだろう。
「あの服可愛かったな」
可愛らしい赤い着物を着ると、はるか昔にタイムスリップしたみたいな感覚に陥った。
撮影が楽しみで、私の心はすでに弾んでいる。
でもその前に、ファーストホイッスルを忘れちゃいけない。
「明日の放送、楽しみですね」
「はい」
533 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/17(日) 01:15:14.42 ID:Z0TPSJFv0
2時間――、実際にはCMが有るからもっと短いけど、その間丸々私たちのために使われる。
緊張するとともに楽しみでもある。それは他の4人も一緒だろう。
「皆見てくれるかな?」
明日の放送のためにレッスン風景の撮影を行ったり、東京と熊本の2つの学校にも撮影クルーは向かったみたいだ。
インタビューを受けたよ! とテンションの高いメールが届いていたことを思い出した。
お父さん、お母さん、学校の皆。明日私は、全国放送デビューを果たします。
きっと、明日の放送が終われば、私の周りの世界はすっかり変わっていることでしょう。
もう、普通の女のじゃない。アイドル小日向美穂だ。その姿、見てください。
「瞳子さん、見ててくださいね」
ううん、瞳子さんだけじゃない。今夢を見ている人、挫折しかけている人にも見て欲しい。
夢は叶う物だってことを、私の手で証明したいから。
それと――。
「プロデューサー、私頑張ります」
今まで私のそばにいてくれた貴方に、感謝の思いを込めて。
538 : ◆CiplHxdHi6 [sag] :2013/02/18(月) 21:17:33.33 ID:/pcHgEj60
――
「プロデューサーさん、チョコレートですよ!」
「ちひろさん、ありがとうございます」
世間は男も女も浮かれる2月14日。つまりバレンタインだ。
お前たちはお菓子会社の手のひらに踊らされているだけだ! と強がってみても、
貰えたら貰えたらで結構テンションが上がる。
要は参加できるかどうかでしかないんだな、うん。
「ちなみに、もっとチョコが欲しいなら有料になりますけど」
「それは……結構です」
「冗談ですよ。プロデューサーさんにそんな商売しませんよ」
「あはは……」
どうだか。でも市販の奴じゃなくて、手作りなのはとても嬉しい。義理だとしても感激するレベルだ。
539 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:18:46.45 ID:/pcHgEj60
「開けてもいいですよ?」
開けてみると、抹茶パウダーが撒かれたトリュフチョコレートが。色合いも目に優しい。
「疲れた時にはチョコレートが一番ですからね!」
「1つ頂きますね。うん、美味しいですよ」
「喜んでもらえたならなりよりですね」
「ちひろさんも食べます?」
「それじゃあ1つ貰いましょうか! あーん」
「ちひろさん?」
餌を欲しがる雛鳥みたいに口を開ける。これ、入れて欲しいのかな……。
「あーん」
「あ、あーん」
1つつまんでちひろさんの口に入れてやる。事務所に来るなり何をしているんだろうか俺たちは。
540 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:23:13.48 ID:/pcHgEj60
「我ながら良い出来ですね! でも、口移しの方がよかったかも?」
「意味分かってますか、ちひろさん」
「~♪」
この人は茶目っ気が過ぎるところがある。俺も彼女が冗談で言っているのが分かっているから、本気にしてはいないが。
チョコレートをスタジオに持って行くわけにもいかない。事務所の中の冷蔵庫に保存しておく。
今日も残業になりそうだし、事務所に戻ってから食べよう。
「ん? 美穂、どうかした?」
学校帰りの身のまま、自然と俺の隣にいたけどさっきから一言も喋らない。静かなること林の如し。
「い、いえ! 別に何でもないです!」
「?」
で、声をかけたらかけたで慌てるし。どうかしたんだろうか?
「今日の収録は19時からだね。それまでレッスンの時間だね。特に忙しくなってくると、レッスンの時間がおろそかになりがちだ。限られた時間を有効に使おう」
美穂は小さく頷く。俺、何か隠されてる?
541 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:27:30.01 ID:/pcHgEj60
「小日向さん、プロデューサー。これあげます」
レッスンスタジオに着くと、トレーナーさんから可愛くラッピングされた長方形を貰う。
「今日はバレンタインですから。レッスンの後にでも食べてくださいね」
意外な人からチョコレート。トレーナーさんもイベント事には参加する人なんだな。
こういう浮ついたことには興味なさそうだったから意外だ。
「ありがとうございます」
「私も貰っちゃっていいんですか?」
「何時も頑張ってますからね。所謂友チョコって奴ですよ」
微妙にニュアンスが違うような。
「ごめんなさい。私、トレーナーさんに用意できてなくて」
「気にしなくていいですよ。これ、さっきデパートで買ってきたやつですし」
「えっと、今度持って行きます!」
「そうですか? じゃあ楽しみにしておきましょうか? でも、レッスンは手を抜きませんので。それじゃ今日は……」
542 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:32:00.83 ID:/pcHgEj60
――
「はぁ、上手く渡せないなぁ」
テレビ局の近くの公園のベンチで、1人箱と睨めっこする。
「気持ちはだれにも負けていないのに……」
どうにもこうにもタイミングが合わない。渡そうとすれば、誰かが渡してチャンスがなくなってしまう。
事務所じゃちひろさんがこれ見よがしに私を仰って来るし、レッスンスタジオでもトレーナーさんが持ってきてるし。
「何で車の中で寝ちゃったんだろ」
彼の隣は安心できる。だから気持ちよく眠れるんだけど……。車の中で渡しておけばよかったと後悔しちゃう。
さっきだってそうだ。テレビ局なら大丈夫かと思っていたけど……。
「あのっ、プロデュー」
チョコレートあげます! 場所が変な気がするけど、気にしないで渡そうとすると、
「あっ、美穂と変態P」
「変態P言うなし」
楽屋の裏からファサっと、渋谷の凛ちゃん登場。
543 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:35:21.20 ID:/pcHgEj60
「凛ちゃんも仕事?」
「今日も未央の御守。今月は卯月強化月間なの。だからプロデューサーはいないよ?」
「なんじゃそりゃ。でもま、今日もよろしく」
「よろしく」
この2人のことだけど、オーディションの時隣に座っていたらしく、
いつの間にやら互いに遠慮なしで物事を言える関係になっているらしい。
そういう関係じゃないのは分かっているけど、担当アイドルとしては少し複雑だ。
「そうだ。2人に良いものあげようか?」
「お金くれるの?」
「違うよ。アンタ結構ゲスイよね、発想が。まっ、オークションに出せばそれこそ高値で売れるかもね。アイドルお手製チョコレートとかさ。今日はバレンタインだからさ」
「へ? くれるの?」
「アンタのは余りものだからね。美穂のはちゃんと作った奴だから安心して。それじゃ、また後で」
私たちにチョコレートを渡して、凛ちゃんは去っていく。
544 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:42:08.06 ID:c3rzcAQU0
「余りものって言っても、これは凄いぞ?」
プロデューサーの言うように、凛ちゃんのチョコレートは手間暇かけて作ったであろうチョコレートケーキだ。
愛梨ちゃんのそれに比べると大きさは小さいけど、それでもクオリティは高い。
余りものと言うよりも本命チョコにしか見えなかった。
「早めに食べた方が良さそうだな。食べようよ」
「は、はい」
そう言って彼はカフェテリアの椅子に座わる。
「そう言えば、さっき美穂何か言おうとしていたけど、何だったんだ?」
「あっ、いえ。何でもないです」
「? しかし悔しいけどおいしいなこれ……」
向かいの席で、首をかしげながらチョコケーキを食べるプロデューサー。私もフォークを貰って食べてみる。
「美味しいけどなんだろう、この味は」
少し不思議な味がするけど、フォークは止まらない。後で歯を磨かなきゃ。
芸能人は歯が命、昔から言われていることファ。
545 : タイプミス言われていることファ→言われていることだ ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:47:17.88 ID:c3rzcAQU0
「私だって負けてないと思うけどな……」
形はアレかもしれないけど、味には一応自信は有る。お菓子作りの申し子たる愛梨ちゃん監修で作ったし、
学校の皆や事務所の2人からは好評だった。
『ど、どうかな?』
『美穂ちゃん筋が良いよ! きっとプロデューサーさんもイチコロだよ!』
『こ、声が大きいよー!』
と卯月ちゃんも褒めてくれた。だから渡して恥ずかしくない出来だと思う。
だけどこんなものを見せられたら、とてもじゃないけど私のチョコレートは渡せそうになくなる。
「はぁ、何やってるんだろ私」
渡せないんじゃない、渡そうとしていないだけだ。
タイミングが悪いからって言い訳を続けて、逃げているだけなんだ。誰かと比べられるのが怖いだけなんだ。
「まだまだ時間はあるよね」
そろそろファーストホイッスルが始まる。この番組にはタケダさんの意向で台本がない。
ありのままの姿のアイドルと仕事がしたいという考えらしいけど、緊張しいな私からすれば結構大変なことだ。
546 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/18(月) 21:53:53.96 ID:VISTR6d60
「練習したから大丈夫だよね?」
だから私は、過去の放送のDVDをトレーナーさんから借りて、番組の傾向を予習しておいた。
毎回毎回同じことを言っているわけじゃないけど、それでも何となくタケダさんの振る話題の傾向はつかめたと思う。
ここまでしている人はまずいないだろう。人より緊張しやすい性分なので、徹底的にしないと心配なんだ。
それを卯月ちゃんに話すと、美穂ちゃんらしいねって笑われたっけ。
「試験みたい」
プロデューサーをタケダさん役にしてシミュレートも行った。対策もバッチリだ。
――多分。
でも最終的には、アドリブでなんとかしなくちゃいけない。そう思うと早速緊張してしまう。
過去の放送を見ても、私ほど緊張している人はいなかったはずだ。
いくらありのままの姿と言っても、噛み噛み緊張系アイドルなんて誰も望んじゃいないだろう。
「チョコを渡すのも緊張しちゃうし……。なんてみんな心臓が強いんだろう」
本当のところは私が蚤の心臓過ぎる、の間違いなんだろうけど愚痴らずにいられなかった。
聞いてくれる人なんていないけど。
547 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/18(月) 21:57:59.24 ID:VISTR6d60
「おーい、美穂ー。そろそろ始まるぞー?」
「今行きまーす!」
私を呼びに来たプロデューサは1人。よし、今がチャンス……。
「プロデ」
「あっ、美穂ちゃんのプロデューサーさん! ハッピーバレンタインです!」
「へ? くれるの?」
「お世話になった人に配ってるんです! それじゃあ私はこれで。またいつか会いましょう!」
「いや、同じ仕事に美穂が出るんだけど……行っちゃった。さっき美穂俺のこと」
「な、なんでもないですよ!!」
「のわっ! そ、そう強く言わなくてもええやないですか……」
今日の運勢、最下位だっけ? 思わずため息をついちゃう。
ことごとくタイミングというタイミングが外れて、チョコを渡せそうにない。
548 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/18(月) 21:59:16.09 ID:VISTR6d60
「この部屋暑いですねー。脱いで良いですか?」
「ちょちょ! 服全部脱げてるよ!?」
「放課後ポヨヨンアワー、ロックだねぇ」
「なるほど、ニンジンはアンチエイジングにいいのね。勉強になるわね」
「はぁ……」
その後もチャンスはあったけど、どうにも上手く行かず、本番まで残り30分になってしまった。
「どったのみほちー。溜息付いちゃって」
アイドルたちの控室。私たちは更衣を終わらせて、本番が始まる瞬間を待つ。
格好だけは準備万端だけど、浮かない顔をしている私は心の準備がまだだった。
「あっ、味噌ちゃん」
「残念未央ちゃんです! みほちーは信じてたのにとんでもない裏切られ方しちゃったよ! これだから本田味噌のCM嫌だったんだよね……」
557 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:09:46.52 ID:hu7IoBBy0
>>548
放課後ポヨヨンアワー×→放課後ボヨヨンアワー○
ですね。某ゲームのけいおん!キメラです
それでは書いていきます
549 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/18(月) 22:00:23.62 ID:VISTR6d60
「ごめんなさい。少しボーっとしちゃって」
「後少しで本番だよ? そんなんじゃ、テレビの前のファンは喜ばないって! ほらっ、スマイルスマイル! シャキッとしないとね!」
パシンと背中を叩かれる。そうだよね、これとそれとは別のこと。、ちゃんと割り切って頑張らないと……。
「あら、小日向さん。どうかしたの?」
「悩み事ですか?」
「本番前だけど、相談に乗ろうか?」
思い思いの行動をしていた3人も、私の周りに集まってくる。
皆心配そうな顔して私を見ているけど、その悩みの内容が、他の人からすれば至極しょうもない
(私からすれば死活問題だけど)ことなので、なんだか申し訳なくなる。
「あっ、もしかしてチョコレート渡せてないとか?」
「え、えっと……」
流石に愛梨ちゃんには見透かされていたか。どう言葉を紡げばいいか分からず、詰まってしまう。
550 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/18(月) 22:04:20.79 ID:VISTR6d60
「ビンゴみたいね。若いっていいわねぇ、ホント……。はぁ、私まで鬱になって来たわ」
「いやいや、川島さんも十分イケてますって!!」
「チョコレートねぇ。もしかしなくても、あの人だよね。いやぁ、乙女ですなぁ」
「うぅ……」
「あ、やっぱりそうだったのね」
「もしかして隠してるつもりだった? 顔に出てたよ?」
どうにもこうにも周知の事実だったみたいで、余計恥ずかしくなる。
プロデューサーがプロデューサーならアイドルもアイドル。私たちに隠し事は無理なのかな……。
「青春だねぇ、まさにロックって感じだね。Fコードでカートコパーンみたいな?」
「い、いまいちロックが何のことか分からないかな……」
「それ、カート・コバーンの間違いよね。全然意味が分からないわ」
頷きながら李衣菜ちゃんは1人納得している。どのあたりがロックだったのだろうか。
551 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/18(月) 22:05:34.04 ID:VISTR6d60
「なら話は早いわね。チョコレートを渡せばいいのよ」
「でもそれが出来ればこんなに悩んでませんもんね。その気持ち、よく分かりますよ?」
「小日向さんのキャラクターじゃ、難しい話かもしれないわね……。どうしたものか」
「すみません。変な話に付き合わせちゃって。その、皆さんありがとうございます」
本番まで時間がないのに、みんな私のために悩んでくれる。申し訳なさで一杯になるけど、同時に嬉しくも思った。
「気にしなくていいよ! みほちーが心地よく仕事するために必要なことだしさ」
「なんなら呼び出しちゃうとかどうですか? 私ら空気呼んで出ていきますよ?」
「思い切って生放送で愛を叫ぶとか! すっごくロック!」
「同時にアイドル生命も終わるわね、それ」
川島さんの言うとおりだ。テレビで告白せずとも、彼に特別な思いを持ってしまった時点で、
私はアイドルとして失格なのかもしれない。
そう言われたら受け止めるしかない。だけど難儀なことに、この気持ちはどうしようもない。
552 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/18(月) 22:07:14.95 ID:VISTR6d60
彼の笑顔を思い出すだけで、私の心は満たされる。部屋の暑さが、私を火照らせる。
「でもあなたぐらいの歳なら、仕方ないかしら? かく言う私も、高校のときは恋に恋をして日常が輝いて……」
「かーわーしーまさーん? あー、ダメだこりゃ。自分の世界に入っちゃった」
「美穂ちゃん。私たちは皆、美穂ちゃんの仲間です! 美穂ちゃんの恋を応援していますよ?」
「まー、うん。邪魔する理由なんてないかな?」
彼女たちの応援が私の背中を押す。本番開始まで10分ちょい。
行くなら今しかない!
「えっと! わ、私! 今から渡してこようと思います!」
「行ってらっしゃい、美穂ちゃん!」
「よし来たっ! 頑張れー!」
「そう、あれは音楽室で先輩と2人っきりに……」
「川島さんは放っておいていいと思うよ? ほら、時間ないんだしゴーゴー!」
彼のいる楽屋へ走る。もう逃げない、このチョコを、気持ちを届けるんだ。
558 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:12:09.96 ID:hu7IoBBy0
――
「凛ちゃん、チョコ美味しかったよ」
「そう? 気に入ってくれたなら良いけどさ。ホワイトデー、期待しといてあげる」
「現金な子だなぁ」
プロデューサーたちの控室で、俺たちは本番を待つ。
ちゃっかり凛ちゃんも混じっているけど、俺よりも芸能界は長いんだよな。この部屋じゃ俺が一番の下っ端だ。
『まあ色々あるの。問題ある?』
と言っていたが、前のメモ帳の件もあって、その色々が気にかかって仕方ない。
担当Pは卯月ちゃんについているみたいだけど、一体どういうつもりだろうか?
ひょっとして凛ちゃんはプロデューサー志望なのか? メモ帳に書かれた3人をプロデュースしたいとか?
「んなわけないよな」
そこまで考えてみたけど荒唐無稽すぎて呆れてしまう。
渋谷凛プロデューサーと言うのも面白いけど、あの子の性格からしたら、
今はトップアイドルという目標しか見据えていないだろうし。
559 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:15:37.65 ID:hu7IoBBy0
「そう言えばあれって、ブランデーか何か入れた?」
「うん。少し大人向けにしてみたかな。間違えて入れすぎたかなって思ったけど、そうでもなさそうだね」
「程よい感じだったよ」
芳醇でまろやかな味はそれが原因だろう。芳醇な味って言っておいて、自分でもよく分からないんだけど。
「私のほかからチョコもらえた?」
「貰ったよ? 事務員のちひろさんに、トレーナーさん。後、愛梨ちゃんとか局のスタッフの人にもね」
「なんだ、結構モテるんだ。やるじゃん」
「まさか。義理でしょ」
「まっ、そうだよね」
「聞いといてその反応は酷いなぁ」
来月の14日は出費がかさんじゃいそうだ。そう思うと、何とも言えない気持ちになる。
560 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:22:38.52 ID:kC3yNoMt0
「あれ? 美穂からもらってないの?」
「ん?」
「あの子のことだから、真っ先に渡しそうなものなのに」
貰えて当たり前というスタンスをとるのもどうかと思うけど、
言われてみれば、美穂から貰えていないのは少し残念な気持ちになる。
「そんな悲しそうな顔しないでよ。見てるこっちも気が滅入るし」
「そのつもりはなかったんだけど」
「分かりやすいよ? 愛梨のとこのプロデューサーに聞いてみなよ。きっと顔に出ますよねって答えるからさ」
「いや、良いよ。しかし、もうここまで来たんだな」
後数分で本番だ。美穂のパフォーマンスが全国に流れることになる。
一緒に頑張ってきた身として、これ以上嬉しいことは無い。
だけど同時に、寂しくも思ってしまう。親の気持ちってこういうものなのかな。
561 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:28:53.38 ID:kC3yNoMt0
「感無量?」
「まあね」
デパートの屋上での大失敗も、挫折しかけたオーディションも、クリスマスパーティ-も全てが懐かしく感じる。
これからもっと、彼女は思い出を作っていく。その傍らに、俺がいることが出来れば。それだけで十分だ。
「私らもさ、初めてこのステージに立つ前は緊張したよ。美穂程じゃないかもしれないけどさ」
「卯月が衣装を忘れてプロデューサーが取りに帰ったり、未央が緊張のあまり気を失いかけたりさ。私も本番2分前にお腹が鳴って、大変だったな。流石にあの時はプロデューサーもてんやわんやしてたよ」
「2回目はこっちも慣れたもんだったから、100点の出来だったと思うけどね。それでも緊張はするよ」
「今日なんて未央が出るのに、私も緊張している。プロデューサーの気持ちがよく分かるね、これ」
凛ちゃんは懐かしそうに目を細める。その表情はいつもの彼女より柔らかく感じた。
「ん? 未央からメールだ。はぁ? あのアホ、何考えてんだか」
「どうかした?」
「いや、どうにも。ちょっと私ら部屋離れるから。貴重品見といてね。後さ」
「後?」
「この部屋の監視カメラって壊れてるんだよね。それじゃよろしく」
そう言って凛ちゃんは楽屋を出る。うん? 私ら?
562 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:35:50.90 ID:kC3yNoMt0
「あっ、僕らのもお願いしますね」
「へ? みなさん出てくんですか?」
「ええ、まあ。呼ばれちゃったもので」
「はぁ……。行ってらっしゃい」
服部Pと一緒に他の2人も部屋を出てしまう。担当アイドルの方で何かあったのか?
急に心配になって携帯を確認する。
「俺は来てない、な」
来ていたのはメールマガジンが2件。美穂からは来ていな――。
「え、えっとプロデューサー。いますか?」
と思ったら、メールじゃなくて本人が来ました。
「えっと、何かあった?」
ドアを開けて中に入れてやる。走って来たのか衣装が少し崩れて、顔もいつもより赤くなっている。
563 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:38:10.78 ID:kC3yNoMt0
「そ、そのですね……」
「顔も赤いし。大丈夫か? 熱が有るとか」
「ち、ちち違います! その! ど、どうしても! 今、プロ、プ、プロデューサーにお渡ししたいものがあったんです!」
「俺に? まさか……」
「はい。そ、そ、そのまさかです! 受け取ってください!! うぅ、やっと言えたよぉ……」
「お、おい!?」
安堵の表情を浮かべると、へなへなとその場に崩れ落ちる。
「すみません、ようやく言えたと思ったら、力抜けちゃって……」
「もうすぐ本番だぞ!? 立てる?」
「あはは……。ごめんなさい」
力なく笑う彼女の手を取り立ち上がらせる。
564 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:44:45.36 ID:Xblp3Xnk0
「ずっと渡そう渡そうとしていたんだけど、なかなか渡せなくて。だから今、渡します」
そう言うことだったのか。しかしプロデューサーズといいアイドルズといい空気を読み過ぎだ。
もっと気楽に渡してくれたら良かったのにと思ったけど、美穂にとっては、
生放送番組に出ること以上に緊張することなのかもしれない。
「ありがとう、美穂。開けて良いかな?」
「はい、良いですよ」
リボンをほどいて、箱を開ける。中から出てきたのは、少し溶けた白クマのチョコレート。
「あ、あれ? チョコが溶けてる……。そんなぁ」
「楽屋とか暑かったからね」
「せっかく作ったのに……」
目からこぼれる一筋の涙を、サッとハンカチで拭ってやる。彼女に影響されたのか、ハンカチに書かれた絵はクマさんだ。
「そんな顔しないでよ。俺はさ、美穂から貰えたことが凄く嬉しいんだ」
「本当ですか?」
565 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:56:37.82 ID:B25JS1S60
「そりゃあもう。一生自慢できるよ」
「ちひろさんとか、凛ちゃんよりも嬉しいですか?」
「もちろんだよ」
優劣をつけるのも失礼な話だけど、それだけは譲れなかった。彼女は俺にとって、特別なんだから。
「えへへ。すっごく嬉しいです」
美穂の頬を濡らした涙は止まり、いつもみたいに恥ずかしそうに笑顔を見せてくれた。
きっと誰もを魅了し、優しい気持ちにさせるその笑顔を、もう少し自分のものだけにしていたかったと思うのは、
プロデューサー失格なんだろうか?
そんなことを考えていると、不意に体に心地良い重みが。
「み、みみ美穂!?」
「少しだけ、こうしていていいですか?」
ぬいぐるみのように抱き着かれた――。柔らかな身体も、彼女の暖かさも。彼女を構成するすべてが俺を困惑させる。
「か、監視カメラある……」
『この部屋の監視カメラって壊れてるんだよね』
凛ちゃん。俺にどうしろと言うんですか――。
566 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 00:59:01.14 ID:cA9B4RG80
――
「もちろんだよ」
彼は意地悪な問いに対して即答してくれた。ちひろさんも凛ちゃんも。私より魅力的な女性だ。
だけど彼は私が一番だって言ってくれた。
それは私がプロデュースしているアイドルだからじゃなくて、1人の女の子として彼に選ばれたみたいに思えて、
私は言葉に出来ない思いで胸がいっぱいになる。
だって彼は嘘がつけないから。顔に全部出ちゃっている。気恥ずかしそうにしている彼が愛おしくて。
「えへへ、すっごく嬉しいです」
「み、みみ美穂!?」
「少しだけ、こうしていていいですか?」
「か、監視カメラある……って壊れてるんだっけか……? 美穂、このままじゃダメになる。だから……」
「今だけは、一緒にダメになりましょう。大丈夫です、ちゃんと頑張りますから」
誰かに見られているとかどうでも良かった。ただ今は、こうやって彼の匂いを、暖かさを感じていたかった。
567 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:04:10.69 ID:0BXlSo+V0
「ねぇ。チョコ、食べて良いかい?」
彼は私の身体を優しく離すとチョコに目をやる。このまま置いていても溶けちゃうだけだ。
なら、まだ形がしっかりしているうちに食べて貰いたい。
「はい。食べてみてください」
「でもよく出来てるなぁ。食べるのが勿体無く感じるよ」
「チョコは食べるための物ですよ」
程よい部屋の暑さが、体中をめぐる熱さが私を少し大胆にさせる。
私はチョコを掴んで彼の目の前で止めてやる。
「美穂?」
「今日ちひろさんとしたこと、私にもしてください」
「ちひろさんとしたことって……」
「あーん」
「ははっ、もうどうにでもなーれ。あーん……」
彼は一瞬躊躇したけど、観念したように乾いた笑いを漏らし、そのまま耳の部分を齧る。
568 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:07:05.42 ID:cA9B4RG80
「美味しいですか?」
「うん、美味しいよ。良く出来てるし。美穂も食べてみなよ」
「それじゃあ……。願いを1つ使っていいですか?」
3つ願いをかなえる。そう言ったのは彼だ。本番前の高揚感と、部屋に2人っきりと言う事実が私を突き動かす。
きっと、今までで一番慌てた彼の顔が見れると思うから。私は少し、いじわるをするんだ。
「へ?」
「目を瞑って、その場から動かないでくださいね」
「そんなので良いの?」
彼はキョトンとしている。そんなことで願いを使っていいのか? そう思ってそうだ。
「はい。何が有っても、驚かないでくださいね」
「あー、うん。目、瞑った」
「んっ……」
彼の言葉をさえぎるように、私は唇を重ねた。
569 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:11:36.38 ID:cA9B4RG80
「み、みみみみみ美穂?」
「は、初めてのキスは、チョコの味です、ね……」
「そ、そそそそうでしゅね!?」
甘くて、溶けちゃいそうで。もう一度したい欲求に駆られるけど、何とか自分を律する。
「とても甘かったです。プロデューサー、私頑張れそうです」
「そ、それはぁ! よ、よ良かったね? え、えっと! その! テンションで!? 本番行こうか!!」
「ふふっ」
ぎこちなく我を取り戻そうとする彼が可愛くて、笑いがこぼれちゃう。
「行きましょう、プロデューサー!」
「あっ! 鍵! 鍵締めさせて!」
本番5分前。今日の私は、何でも出来ちゃいそうだ!
570 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:13:02.77 ID:cA9B4RG80
「あっ、帰って来ました!」
「ちゃんと渡せたかしら?」
「はい!」
舞台裏ではすでにみんなスタンバイしていた。
「おっ、やりますね! そんじゃその調子で、愛も叫んじゃいましょうよ!」
「いやいや! ファーストホイッスルも終わりかねないからねそれ!」
「ふふっ」
私は幸せに包まれている。きっと今の私なら、歌に乗せて幸せな気持ちを届けることが出来るはずだ。
「そうだ。折角だし、円陣組まない?」
「あっ、良いねそれ!」
「エンジンを組み立てるんですか?」
「エンジンじゃなくて、円の陣ね」
「あー、それですか。組みましょう組みましょう!」
571 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:20:18.02 ID:XcdboBzl0
未央ちゃんの合図で私たちは円陣を組む。こういう体育会系のクラブみたいなノリは初めてだけど、
これからこの5人で番組を盛り上げるんだと考えると、もっともっとテンションが上がる。
「えっと、かけ声はどうしますか? ヘイヘイホー! とか?」
「十時さん、それは木を伐る時にだけした方がよさそうね」
「Hey Hey Ho! あれ、イケてません?」
「それは演歌ね」
「あはは……」
本番前と言うのに、この緩やかさ。この5人の持つ、独特の空気は好きだ。
「コホン! 僭越ながら、私が音頭を取らせてもらうよん! それじゃあ番組、盛り上げるぞー!」
『おー!』
気合は入った。一生一度かもしれないファーストホイッスルを、全力で楽しもう。
一期一会。最高のパフォーマンスを、みんなに。
「行きましょう。私たちの、夢の舞台へ」
572 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:22:26.22 ID:XcdboBzl0
――
「どうしたの、顔真っ赤だよ? キスでもされた?」
「ぶふっ! な、何を言いますか」
「冗談だったんだけど……。ホント嘘つけないね」
全ての元凶は、おそらく彼女のチョコケーキだ。ほんの少量のブランデーで、美穂は酔ってしまったのだろう。
馬鹿げてるけど、親父さんを見るとそれしか考えられない。彼女の家系は代々お酒に弱いのだろうか。
「後で賠償請求するからね」
「却下。あんたも逃げなかったんじゃないの?」
「逃げれなかったよ。目を瞑ってください、動かないでくださいって命令されたし」
「アンタらそう言う関係なの? 流石に引くよ。近づいたら社会的にやっつけちゃうよ?」
「違うよ! 美穂の願い3つ聞くことになってるの」
「なに? ランプの魔人?」
「そういうこと」
573 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:25:50.63 ID:XcdboBzl0
美穂のお願いは残り2つ聞かなくちゃいけない。
とりあえず今回みたいなことの無いように、ガイドラインを作っておかないと。
いくら酔っていての大胆な行動と言われても、俺はとんでもないことをしてしまったんだ。
腹を斬れと言われたら、斬らないといけないぐらいの重罪だ。
「本番始まるよ?」
よしっ、今は忘れよう! 美穂の晴れ舞台をちゃんと目に焼き付けないとな。
『とっても甘かったです、プロデューサー』
「止めてくれえええ!」
「うわっ!?」
あはは、あの感触を忘れろだなんて方がむーりぃ……。ほら、また鮮明に浮かんできて……。
「ムワアアアアアア!」
「うるさいって!」
「デレプロさんと渋谷さん! お静かに!」
スタッフさんに怒られてしまう。またもや凛ちゃんは巻き添えだ。
574 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/20(水) 01:30:52.80 ID:XcdboBzl0
「す、すみません」
「気を付けてくださいよ?」
「私、また巻き込まれたんだけど……」
「いやホントすみません」
凛ちゃんは蔑むような目で俺を見る。一部の人からすればご褒美なんだろうか。
「アンタ本当にこらえ性ないよね。騒ぐならカラオケにでも行けばいいよ。奢ってくれるなら、付き合ってあげるから」
「結局奢らないといけないんですか……」
言い換えれば、1000円弱で未来のトップアイドルとカラオケに行けるということなんだよね。
それはそれで凄いことを言ってるんだけど、凛ちゃんは気付いているのだろうか。
「ほら、黙って見ようよ。私らに出来ることって、それだけだからさ」
「だね。頑張れ、美穂」
年下の子に怒られて、目が覚める。さっきのことはさっきのこと。
今は美穂の全国デビューを喜ぼうではないか。
577 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2013/02/20(水) 01:50:32.11 ID:urekvDhvo
なんだろ、いつもなら「P!そこ変われ!」とか「死刑」とか言うのに、2人が初々しすぎて逆に応援したくなる
579 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:26:20.46 ID:D/l3Tsec0
――
19:00。ファーストホイッスルが始まった。
「極上の音楽と、新たな可能性を貴方に。ファーストホイッスル、司会のタケダソウイチです。世間ではバレンタインと言うことで、なにやら町は浮かれていますね」
「バレンタインデイキス、誰もが一度は口遊んだことが有ると思います。この曲のように、世代を超えて愛される曲と言うものが、私たちの理想です」
「今宵このステージに立つ5人は、私の理想を近い将来体現してくれる、新たな時代を切り開いてくれると確信しています」
「それでは紹介しましょう。本日のゲスト、川島瑞樹さん、小日向美穂さん、多田李衣菜さん、十時愛梨さん、本田未央さんの5人です」
「よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします!」
「あっ、私の番? よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす!」
「本田さんは先の放送の渋谷さん、島村さんと続いて2度目の登場ですが、後の4人は初めてですね。こちらこそよろしくお願いいたします。今宵も素敵な歌声とエピソードをお楽しみください」
タケダさんの落ち着いた進行は耳によく、緊張も不思議と溶けていくように感じた。
それでも、まだ足はガクガクと震えているんだけど。
580 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:27:44.08 ID:D/l3Tsec0
「あっ」
CM中周囲を見渡してみると、プロデューサーと目が合った。
冷静になるにつれて、さっき私はなんてことをしてしまったんだと恥ずかしくなってしまう。
浮かんでくるフラッシュバックは、この舞台に立っていることよりも私の心臓をドキドキさせた。
「ううん、後悔はしていない」
我ながら卑怯だと思う。彼の虚を突いてキスをして、何事もなかったかのように振る舞って。
ちょっとした悪女だ。私には似合わない称号だけど。
「CM明けまーす!」
「よしっ、頑張るぞっ」
私のメインは名前の順で2番目。まずは私たちのお姉さん、川島さんのターンだ。
「ふぅ、やっぱり緊張するものね……」
「川島さん、頑張ってくださいね」
「ええ。貴女もね」
ウインク1つ残して、彼女はメインの席へと向かう。
タケダさんは表情を変えず、そのまま動こうとしない。実に省エネだなと変なことを考えてしまった。
581 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:29:16.34 ID:D/l3Tsec0
「ファーストホイッスル。まず最初のお客様は、地方局アナウンサーから異色の転身を果たした川島瑞樹さんです。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします」
基本的にこの番組は、タケダさんとのトークと、アイドルのライブで構成されている。
落ち着いたトーンで話すタケダさんとは対照的に、大舞台であわあわするアイドルの初々しい姿が見れるというのも、この番組の魅力らしい。
「関西に仕事で行ったときに、テレビのニュースで一度拝見したことが有ります。まさかこのような形で会うことになるとは。人生予測がつかないものですね」
「ではここで、川島さんのアナウンサー時代の映像を見てみましょう」
こちらが準備をしてきたように、タケダさんも出演アイドルのことを勉強してきているようだ。
「へ?」
『17時のニュースです。毎年恒例の褌祭が今年も行われ、多くの観光客でにぎわいました』
川島さんもアナウンサー時代の話題を振られることは予測していても、タケダさんが見ていたこと、
しかも当時の映像をそのまま持ってこられることまでは考え付かなかったみたいで、珍しく狼狽えている。
だけど真面目な番組なのに、チョイスしたニュースの内容が褌祭の開催という、
何とも言えない話題なので、笑っていいのか悪いのか反応に困っちゃうな……。他になかったのかな。
582 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:30:39.19 ID:D/l3Tsec0
「そ、それはありがとうございます。本当に縁と言うものはどう転がるか分かりませんね」
「ええ、全くです。しかしアナウンサーと言う仕事もやりがいはあるはず。それでもアイドルに転向したというのは、何か目的があってのことでしょうか?」
私もそれは知りたいな。
「何かをみんなに伝える手段の1つとして、私は報道の道に進みました。確かに毎日が充実していましたが、それでも伝えきれない何かがあると気付いてしまったんです」
「その時でした。担当プロデューサーに声をかけられたのは。私が取材に行った芸能事務所のオーディションで、アイドルになりませんか? と」
「流石に面喰いましたね。後2,3年で30歳になるっていう女子アナ捕まえて、スカウトしてくるなんて」
「でもアイドルとしてなら表現できる、伝えることが出来るものもあると感じたんです。そればっかりは、直感なんですが」
「なるほど。もしアナウンサーになっていなければ、アイドルにもなっていなかったと」
「ええ。実際局アナ時代の経験は生きていますから。そう考えると、私は運が良かったんでしょうね」
「川島さんの楽曲、Angel Breeze。物語性の強いこの曲が、貴女に出会えたこともまさしく幸運と言えるでしょうね。この曲は川島さんをイメージして作られたと聞きましたが?」
「そう聞いています。作曲家の先生が私の局アナ時代を知っている方で、仕事はやりやすかったですね」
「それはピッタリな曲になるはずですね。それでは準備のほど、よろしくお願いいたします。川島瑞樹で、Angel Breeze」
583 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:35:56.28 ID:D/l3Tsec0
「ふぅ……」
川島さんのステージが始まった。次は私だ。大丈夫、行けるに決まっている。
「――」
舞台裏からひょっこりと、プロデューサーはこぶしを突き出す。
「えいっ」
私も彼と同じように突き出して、コツンとぶつける振りをする。
「川島さん、ありがとうございました。CMの後は、小日向美穂さんにお話を聞いてみましょう」
「CM入りまーす! 小日向さんはスタンバイお願いします!」
「みほちー、行ってらー」
「行ってらっしゃい」
「愛を叫んできなよー!」
「あ、あはは……。遠慮します」
夢のステージに、私は立つ。見ていてくださいね、瞳子さん――。
584 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:39:18.90 ID:D/l3Tsec0
「本日2人目のゲストは、デビュー以来地道な活動を経て、このステージへの切符を手に入れた小日向美穂さんです。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたしましゅ!」
あぁ、いきなり噛んじゃった。
「緊張していますか?」
「は、はい……」
「気を楽にして楽しんでくださいね。ありのままの小日向さんで大丈夫ですよ」
それがなかなか難しい。うん、平常心平常心……。
「さて、小日向さんと言うと、先の放送でゲストで来られた島村卯月さんと同じ学校に転入したと聞きましたが」
「卯月ちゃんは熊本から来たばかりの私に優しくしてくれました。事務所が出来たばかりで、所属しているアイドルは私だけなので、卯月ちゃんの存在は大きかったと思います。NG2の2人とも仲良くなれましたし」
「なるほど。小日向さんのパフォーマンスは島村さんの影響が大きいように感じましたが、それが関係しているのかもしれませんね」
自分ではそう思ったことは無いけど、無意識のうちに真似ているのかも。一番テレビで見ているのが卯月ちゃんだし。
585 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:41:29.79 ID:D/l3Tsec0
「さて。昨年の12月16日、小日向さんの熊本の母校である津田南高校にてクリスマスパーティーというイベントが行われました。その時の映像をお借りしているので、一緒に見てみましょうか」
「へ? クリパの映像?」
突然スクリーンに、クリスマスパーティーの映像が映し出される。これ、事務所で見たやつだ!
「可愛らしい服ですね。これは、自分で用意されたんですか?」
「こ、これはあの……、熊本の友達が作ってくれたんです!」
「ほう。離れていても仲が良いというのは、羨ましいですね。デビュー曲であるNaked Romanceはこのステージで初披露だったということですが、元々あった曲に、小日向さんがマッチしていたから託した。と弟子は言っていましたね」
「初めてのファーストホイッスルオーディションの時に、私を見てこの人しかいないと感じたんだそうです」
「運命とでもいうべきでしょうか? 事実、小日向さんとこの曲の組み合わせは見事と言ってもいいでしょう。実にマッチしています」
「私も仕事柄、曲を提供することもありますが、普通は歌手を見て曲を作りますね。しかし、彼女の場合は違う。Naked Romanceに足りなかった最後のピースこそが、彼女だった。こればっかりは、奇跡以外の何物でもありません」
「そうですね。この曲との出会いに感謝しています」
奇跡か。もしもあの日オーディションに行かなかったら、この曲に出会えなかったのかもしれないな。
586 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:42:22.19 ID:D/l3Tsec0
曲のこと、アイドル活動のこと。トークはゆるやかなテンポで進んでいく。
「小日向さんの方から言っておきたいことはありますか?」
「えっと、1つだけいいですか?」
「ええ。どうぞ、お構いなく」
私の言葉が、誰かの心に響くならば――。
「私は……。1つ夢を叶えました。ファーストホイッスルのステージに立つ。アイドルになってから最初に出来た目標で、私を動かす原動力でした」
「もし今、途方もない現実にぶち当たって、夢を諦めてしまいそうなら、見つめ直して欲しいんです」
「その夢は本当に叶わないものなのか、逃げているのは夢じゃなくて自分じゃないかって」
「何を偉そうに、そう思うかもしれません。ですが、誰かが夢を叶えることが出来たなら、誰だって夢を叶えることが出来る。そう信じています」
「だから……、瞳子さん。待っています」
「……。小日向さん、準備のほどをよろしくお願いいたします」
タケダさんは黙って聴いてくれた。私の話が終わると彼はステージに立つように促す。
「それでは聴いていただきましょう。小日向美穂で、Naked Romance――」
アイドルならば、パフォーマンスで語れ。誰かの言葉らしいけど、その通りだよね。
587 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:49:40.09 ID:D/l3Tsec0
「あっ、小日向さん!」
「お弟子さん! お久しぶりです」
収録終了後、お弟子さんが声をかけてきた。
実年齢より(何歳かは知らないけど)幼く見えることもあってか、スーツがいまいち似合っていない。
「こちらこそ。前はすみませんね。挨拶も出来なくて」
「いえ。私の方こそちゃんと報告が出来なくて申し訳ありませんでした。あっ、チョコレート」
「ん?」
「今日、チョコレート作って来たんです。よかったらどうですか? 楽屋から取って来ます」
「良いんですか? それじゃあお言葉に甘えちゃおうかな?」
楽屋に戻ってチョコを取ってくる。この時私は、プロデューサーに渡したチョコが既に溶けていたことを忘れていた。
「あっ、溶けてますね」
「そ、そうでした。暖房がきいていて、それで……」
588 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:51:19.42 ID:D/l3Tsec0
「あの楽屋の空調壊れたみたいなんですよね。ホント、早く直せばいいのに。でも、僕はこういうのも好きですよ? うん、十分食べれますよ。ホワイトデーは何かお返ししないといけませんね」
相も変わらずニコニコとしている。人柄の良さがにじみ出てくるようだ。
『so I love you I love you♪』
「あっ、ちょっとすみませんね。もしもし、――ちゃん?」
懐かしい曲が流れたと思うと、彼の着信音だったらしい。
そう言えば、あの歌を歌ってたアイドルと、何となく似ているような……。
「うん、終わったから今から帰るよ。楽しみにしている。じゃあ切るね」
電話しているときの彼は、いつも以上に優しそうな表情を見せていた。
相手はきっと、彼の特別な人なんだろう。
「えっと、お邪魔しちゃいました?」
「いえ! 気にしなくて大丈夫ですよ。そうだ、あのスピーチですけど」
589 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 00:58:03.74 ID:mDUpCBWj0
「スピーチ?」
歌う前に言ったあれのことだよね。
「僕もああやって、テレビで私信を流したことあるんですよ!」
「へ? それ、どういう……」
「Welcome to the Dazzling World! 輝く世界へようこそ! それじゃあ小日向さん、また会いましょうね!」
「あっ、アキヅキさん! 行っちゃった……」
手を振りかけていく彼の背中を見送る。輝く世界か。私をそんな世界に連れて行ってくれたのは、彼なんだね。
「おーい! 美穂ー!」
「プ、プロデューサー……」
キラキラ輝くステージが終われば、私はただの女の子に早戻り。
さっきまであれだけ大胆なことが出来ていたのに、彼を見ただけで私の身体と心を羞恥心が支配する。
蛇に睨まれたカエルの気持ちが少しだけわかった。動けないのは恐怖じゃなくて、恥ずかしさゆえだけど。
590 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 01:02:28.27 ID:mDUpCBWj0
「あー、正気に戻っちゃったか」
「へ?」
「いや、こっちの話。なんかさ、未央ちゃんが川島さんの家に泊まろうとか言ってたけど、美穂は行くかい?」
「川島さんの家ですか? 皆行くんですか?」
「みたいだね。明日学校休みだしさ」
川島さんの家か――。皆行くみたいだし、楽しそうだ。
「じゃ、じゃあ私も! 私も行きます」
「そう? それじゃあ川島Pが送ってくれるみたいだから、今から合流すれば良いよ」
「プロデューサーはどうするんですか?」
「俺は仕事が有るからね。それに、女子会に介入するほど空気が読めない人じゃないよ」
「そ、それじゃあプロデューサー! お、お疲れ様でした!」
591 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 01:03:35.91 ID:mDUpCBWj0
「ああ、お疲れ。それと美穂」
「何ですか?」
「変なこと言うかもしれないけどさ、俺嬉しかったんだよね。ファーストキスが美穂でさ」
顔を赤らめて、恥ずかしそうに言う。ファーストキス――。それは私にとっても、彼にとっても変わりない事実だった。
「ふぇ!? ど、どどどういう!?」
胸を突き破りそうなぐらいのドキドキは加速する。
「その……、さ。美穂がトップアイドルになって、俺が一番のプロデューサーになってさ。その時美穂を……」
「えっ?」
一瞬の静寂。世界が私たち2人を置き去りにしたような感覚に陥る。
「俺は……」
「みほちー! いたいた!」
592 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 01:07:17.63 ID:JhM1bxj30
だけどそんなことは有り得ない。元気いっぱいな未央ちゃんの声が、私たちの世界を破壊する。
「のわっ! み、味噌ちゃん……」
「アイドルがアイドルならプロデューサーもプロデューサー!? おたくら私になんか恨みでもあるの!?」
私と同じ間違いをしたことが、何故か嬉しかった。
「い、いや。急に未央ちゃんが来たもんで……」
「QMK!? それは置いといて! みほちー、今から川島さんの家でパジャマパーティーするんだけど、どう?」
「うん。行くよ」
「オーケーオーケー。それじゃあ、行きますか。あっ、でもみほちーは着替えてからね」
「あっ」
「そのままでもいいけどさ、風邪引いちゃうよ? んじゃ早くしてねー!」
未央ちゃんに言われてステージ衣装のままでいたことを思い出す。
このまま外を歩くのは流石に恥ずかしい。
593 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 01:08:29.94 ID:mDUpCBWj0
「それじゃあ美穂、お疲れ様。明日迎えに行くよ」
「あっ、はい。プロデューサー、おやすみなさい」
「おやすみ、美穂」
「じゃーねー! 言い忘れてた! 着替え終わったら入り口に来て! 待ってるからさ!」
「あっ、うん」
結局、彼と2人で祝勝会が出来るのはいつになるんだろう? 気長に待つとしよう。
「うぅ……」
思い出すだけで顔が真っ赤になる。きっと今夜は、それを追及され続けるんだろうな。
「あっ、メール来てる」
着替えを終えて携帯を確認すると、卯月ちゃんと相馬さんと見たことのないアドレスからメールが来ていた。
594 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 01:13:07.20 ID:FVYnaIir0
『お疲れ様! 美穂ちゃん凄く可愛かったよ! 見ていてこっちが幸せになったぐらい!』
幸せそうな卯月ちゃんの笑顔が頭に浮かぶ。ちゃんとテレビの向こうに伝わったんだ。
『お疲れ様。やっぱり先輩なだけあって、凄かったわよ。私も今度ファーストホイッスルのオーディション受けてみようかしら?』
相馬さん、頑張ってくださいね。諦めずにいれば、きっと上手くいきます。
『おめでとう、小日向さん。貴女のステージ、凄く輝いていたわ』
「? 誰だろう?」
名前が書かれておらず、誰からのメールか分からない。
「みほちー! 早く早く!」
「あっ、今行きまーす!」
携帯をポケットに入れて待ってくれている4人に合流する。
もしかしたら前にアドレスを教えて貰って、登録していないままの人かもしれない。
後で確認しておこう。それで無かったら、ちゃんと名前を聞かないと。
「それじゃあ突撃! 川島さんのお宅訪問へレッツラゴー!」
「あんまり騒ぎすぎないようにね?」
今日は寝ずに盛り上がるんだろうな。楽しみだ。
595 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/21(木) 01:15:27.92 ID:fws/FWtw0
今日はここまでです。川島さんの話は作曲家の人のtwitterネタを使いました。
書き溜めが尽きたので、明日は更新しないです。金曜日はするつもり。
読んでくださった方、ありがとうございました。
596 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2013/02/21(木) 03:00:23.74 ID:dBlXDgK0o
乙
涼ちんなにしとん
601 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 22:25:45.57 ID:0/GxdVmL0
――
「ふぅ、どうしたものかね……」
暖かいコーヒーを飲みながら、局の近くのベンチで物思いに更ける。
『今日はお疲れでしょうから、そのまま直帰で大丈夫ですよ!』
仕事が終わった後携帯を確認すると、ちひろさんからメールが来ていた。
本当ならやらないといけない仕事はあるけど、なんとなくする気にもならなかったので、
今日は彼女の好意に甘えることにした。
メールといえば。
「美穂に届いたのかな?」
彼にアドレスを教えていいかと聞かれて、俺はこっそりと教えた。
アイドルの個人情報だ。本当は許されることじゃないけど、教える相手が彼女なら問題はないだろう。
美穂も彼女の連絡先を知らないんですと寂しそうにしていたし。メールの差出人を見て驚く彼女の顔が容易に浮かぶ。
603 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 22:30:47.21 ID:ewNDOCTq0
「あの顔に弱いんだよな、俺」
いや、美穂の全部に弱い、の間違いだ。
彼女と思い出を作っていくにつれて、彼女の全てが愛おしいと思えるようになってしまったのだ。
今日だってそう。
美穂達の躍動感あふれるパフォーマンスを生で見たことと、美穂からキスをされたこと。
その2つの出来事が、俺の心を逸らした。
もしあの時未央ちゃんが来なかったら、俺は止まっていなかっただろう。
『その時美穂を……』
「俺の恋人にする、か……」
俺と美穂は、プロデューサーとアイドル。その言葉の意味は軽いものじゃない。
実際アイドルと結婚したプロデューサーも少なくはないが、それは同時にその子のアイドル生命を奪うことと同意義だ。
美穂はまだまだ輝ける。トップアイドルという途方もない夢も、少しずつ現実味を帯びてきた。
だけど俺はどうだ? 美穂の未来を、チャンスを奪ってしまいそうなぐらい、彼女に惹かれてしまった。
605 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 22:36:13.52 ID:qWPV03uO0
「ホント、ダメダメプロデューサーだな」
コーヒーを一気に飲み干す。甘みが口の中に広がるけど、俺の表情は苦々しいものだったに違いない。
「えいっ」
放たれた空き缶は大きく弧を描いてすとんとゴミ箱に落ちた。
「へー、やるじゃん。ナイスシュート」
パチパチパチと拍手が聞こえたと思うと、俺の目の前に凛ちゃんが月の光に照らされて立っていた。
「なんだ、凛ちゃんか」
「何黄昏てんの」
「別にー。ふと無性に考えたくなるときだってあるんだよ」
「ふーん。年寄くさいね」
女子高生にそう言われると結構傷ついてしまう。これでも一応、若くあり続けようと努力しているのだが。
607 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 22:44:28.85 ID:RzCASZ090
「五月蠅いやい。凛ちゃんは川島さんの家行かないの?」
「ステージに立ってないし。だからあの5人と一緒に盛り上がる資格がないよ。そもそも私明日も朝から晩まで仕事有るし」
「ご苦労なことで」
今年に入ってからのNG2の3人の労働量には、本当に頭が下がる。
チャンネルを変えても、彼女たちが映っているということも珍しくない。
本来ならゴリ押しと視聴者に忌避されてしまうところなのに、彼女たちの実力がそれを許さない。
人気者の宿命かアンチスレがにぎわうことが有っても、それ以上に彼女のファンが多いのだ。
「他人事みたいに言わないでよ」
「凄いのは事実じゃないか」
それぞれの個性を活かして、新たなステージに到達しようとしている彼女たちを止めるものは何もない。
「アンタらも直に忙しくなるよ。ファーストホイッスルの効果は、ビックリするほど凄いんだから」
とびとびの予定が書かれたホワイトボードも真っ黒になるのかね。そう考えると何かこみあげてくるものがあるな。
609 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 22:48:13.63 ID:KqYSEhvy0
「来週だよね。ランキング20位以内に入らないとノミネートされないってやつ」
「運命の36週? 途中にデビューした俺らからすれば不公平この上ないんだけどさ」
アイドルのデビュー時期は同じではない。スタートラインが違うのに、ゴールは同じというのも変な話だ。
「来年狙えばいいんじゃないの?」
「まさか。諦めたわけじゃないよ。今日の放送のブーストで、Naked Romanceが食い込める余地は十分あるよ」
来週のランキングチャートの結果次第だが、美穂もIAにノミネートされる可能性はある。
それがダメだとしても、夏にはIUがあるんだ。そっちに切り替えて、頂点を目指していくのがプロデュースとしては定石だろう。
「楽しみにしといてあげる。でさ、お願いがあるんだけど」
「ん? 何かな?」
「アンタここに何で来た?」
「車だけど……」
611 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:00:59.07 ID:yD1upE5y0
「なら良かった。夜も遅いしさ、車で送ってくれない?」
「へ?」
車で送ってって、プロデューサーが迎えに来るんじゃないのか? 卯月ちゃんの方に付いてるといっても、もう終わっているはずだ。
「ここまでプロデューサー呼ぶのも悪いじゃん」
「先読みされた!? じゃあタクシー呼べばいいんじゃないの?」
「お金かかるじゃん。結構遠いもん」
それはご尤もだ。いくら売れっ子と言っても金銭感覚は女子高生と変わりない。
給料全額が凛ちゃんの懐に入るわけでもないしな。意外と質素な生活をしているかもしれない。
「それに、NG2の渋谷凛が夜のドライブに連れて行ってって誘ってるんだよ?」
それはまぁ魅力的な話だ。1000人に頼めば1000人とも車を出してくれるだろう。
「そういうのは恋人が出来てから言いなよ。いや、それ以前に俺と2人でいるとこすっぱ抜かれたらどうすんのさ? 仲のいい友人ですが通用すると思えないけど?」
凛ちゃんは将来が約束された人気アイドルだ。ここで俺とのやり取りを記者にでも撮られてみろ、取り返しのつかないことになる。
いくら何もしてませんと説明したところで、世間が納得すると思えない。週刊誌も必要以上に煽って来るだろう。
613 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:02:19.30 ID:yD1upE5y0
「そん時は丸坊主にしようか?」
「やめなさい。黒髪ロングが良いんだから」
ショートヘアの凛ちゃんも見てみたい気もしないでもないが、色々と波紋を呼んでしまいそうなので止めておく。
「冗談だって。まぁそこは任せてよ。私たちだってマスコミ対策ぐらいちゃんとしてるよ。マスコミもあの人相手にケンカ売るようなことはしたくないだろうしね」
「へ?」
「こっちの話。それにアンタだから頼んでるんだけどな。まさかヒッチハイクしろって言う気? どうなっても知らないよ?」
「それは困る! 洒落になんないよ! はぁ……」
どうかなられたら大変なことになる。これ以上言っても無駄か、仕方ない。
観念したように溜息が自然と出てしまう。
「乗せてってくれる?」
「はいはい、分かったよ。ガソリン代、そっちに請求しとくからね」
「ケチだね。そんなんじゃ女子にモテないよ?」
いちいちキツイことを言わないといけない性分なのか?
「あーあー聞こえない! ほら、駐車場に止めてるから行くよ」
「了解っと」
615 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:04:33.44 ID:yD1upE5y0
「ねえ、凛ちゃん」
「何?」
「俺は凛ちゃんの家に送るよう頼まれたはずだよね」
「そうだったっけ? 家って言った覚えはないんだけど」
「そういう屁理屈は聞いてないよ! えーっと、ここ。どこですか?」
「夜景綺麗でしょ? 私たちのお気に入りの場所」
ここは小高い丘の上。どこを見渡しても渋谷家は見つからない。というか民家がない。
「私の家、あそこだよ。花屋やってる」
そう言うと凛ちゃんは遠くの方に指をさす。あー、うん。全然見えない。
「へぇそうなんだ、じゃあ薔薇の花でも買いに行こうかな……って遠いよ! 豆粒みたいな大きさじゃんか! 見えるわけないって!」
「それとうちの店さ、薔薇の無い花屋なんだよね。お母さんがバラ科の花のアレルギーでさ、取り扱ってないんだ」
「それはまぁ難儀なことで」
勝手な想像だけど、薔薇って花屋で一番売れるんじゃないのか? それを置いてないのは、花屋としては痛手な気もする。
618 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:06:53.98 ID:yD1upE5y0
「私は好きなんだけどね。棘があるけど、それでも愛される花。なんか私に似てるなって思って。愛されるってのは願望だけど」
「言い得て妙だね」
確かに刺々しくクールな性格の彼女にはピッタリだな。凛ちゃんは自信が無いのかもしれないけど、
十分なくらいファンからも愛されていると思うけどな。
「良い所だよ、ここ。こうやって星を仰ぐとさ、自分の悩みはちっぽけなものだなぁって感じるんだよね」
服が汚れるのもお構いなく、凛ちゃんは仰向けになって寝転ぶ。
「アンタも寝転がってみたら? 気持ちいいよ?」
「よっと……。東京でも、こんなに星が見れるんだな」
いつから夜が明けて来たか分からなくなる都会のネオンから離れて、小さな星々で出来た海を仰ぎ見ると、
ここが同じ東京だということを忘れてしまいそうになる。
ただただ綺麗で――、ロマンチックな気持ちにさせる。
「田舎から来たばっかの人みたいなこと言うね」
隣の子が毒舌を吐かない限りは。
620 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:11:17.13 ID:b9Fq4I+K0
「一番最初のオーディションの後、プロデューサーが私達3人を連れて来てくれたんだ」
「見てご覧、あの町の光の数だけ人が生きている。貴女たちはあの光に負けないぐらい輝きなさい、光の数だけファンを増やしなさい。ってね」
「可笑しいよね。私たち3人の初オーディションは、本当に散々だったのに。3人が3人とも自己嫌悪に陥って、解散しちゃうんじゃないかって思ったのに。プロデューサーはそんなこと言うんだよ?」
「君たちもそう言う時が有ったんだね」
「むしろ無い方が有り得ないよ。愛梨みたいな天才だって、いつかは壁にぶち当たる。才能が有っても、1人で何かを成し遂げるなんて不可能だよ」
「だね。良く分かるよ」
「話戻すね。レッスンの時とか厳しくて怖い人だと思ってたから、怒られるのも覚悟してたのに、自信満々に私に任せなさいって言ってくれてさ」
「この人は私たちを信じてくれている、だから信じようって決めたんだ」
もしプロデューサーが男の人だったら、今頃3人とも恋い焦がれていたかもね、と小さく呟く。
「オーディションに受かった時も、落ちた時も、CDデビューが決まった時も。私たちはここに来て寝転がった。最初の頃の気持ちを忘れたくないからね」
「ここは、私たち4人にとって大切な場所なんだ」
テレビでも見たことがないぐらい、柔らかな表情で語る。クールで格好良いアイドル渋谷凛は1つの姿、これが素の彼女なんだろう。
622 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:14:17.49 ID:b9Fq4I+K0
「そうか……。3人とも本当にプロデューサーのことが好きなんだね」
「うん。好きだよ。だからあの人と一緒に、トップを目指したい。そのためには、後ろを向かないって決めたから」
「もたもたしてたら、アンタら置いてくからね? 悪いけど、止まる気がしないし」
「奇遇だね。俺らもここで満足するほど目標は低く設定していないよ」
「ふふっ、期待しといてあげる。それじゃ、行こっか。そろそろ家に帰らないと、お母さんが心配しちゃうし」
「今度はちゃんと家まで送らせてくれよ?」
2人同時に立ち上がり、服に付いた土を叩き払う。
「あっ、流れ星」
車に戻ろうとすると、キラリとこぼれる一筋の流れ星。
「――」
「願い言えた?」
「心の中でね。なんとかギリギリ」
624 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:18:25.20 ID:b9Fq4I+K0
トップアイドル、トップアイドル、トップアイドル。色々省略してるけど、伝わってくれただろう。
これで俺がトップアイドルになるなんてオチは勘弁願いたいが。
「ねぇ、凛ちゃん」
「ん? 何?」
「どうして、俺をここに連れて来たの?」
NG2とそのプロデューサーにとって、ここは犯すことの出来ない聖域のはず。なのに彼女は、俺を招待してくれた。
「……何でだろう? なんとなく、かな」
「なんとなくって」
「なんとなくはなんとなく。それ以上でも以下でもないよ。私もよく分からないや。良いじゃん、私が良いって言ったんだしさ。でも、アンタは特別なのかな」
「へ?」
「そうだ。美穂でも連れてきたらいいよ。きっと喜ぶから」
「その一言が余計だって……」
でもまぁ、美穂は喜ぶだろうな。
626 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:21:20.37 ID:b9Fq4I+K0
『メープルナイト。この番組は高垣楓がお送りします』
丘から車で走ること20分。ラジオから流れるしっとりとした音楽が良いムードを作るけど、俺たちは会話を交わすことなかった。
「ここで良いよ」
凛ちゃんの指示に従って車を走らせていたが、花屋に着く前に止めて欲しいと言われた。
「ん? 良いの? 花屋はまだ先じゃ」
「大丈夫。花屋の前にスタンバってるかもしれないし」
パパラッチか。いつもと違う車で、しかも別事務所のプロデューサーが送っていたとなると、
あちらさんに好き勝手邪推されちゃいそうだしな。
「あー。そういうことね。でも大丈夫? ストーカーとかいたら」
「これでも私たち、護身術は教えて貰ってるから。アンタより強いと思うよ?」
卯月ちゃん未央ちゃんはともかく、凛ちゃんは本当に強そうだから困る。
『キェェェェェ!!』
木刀とか持って暴れてても違和感があまりないな。言ったら怒られそうだし黙っておこう。沈黙は金だ。
629 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:27:29.25 ID:b9Fq4I+K0
「そうですかい。それじゃあ、またね」
「うん。ありがとう。おやすみ」
「おやすみ」
手を振る彼女が家に入ったことを確認して、俺も帰ることにする。
「とりあえず明日は美穂を迎えに行かないとな」
川島Pから送られていたメールを見て住所を確認する。なんだ、川島家結構近いじゃん。
『ブラックホールに消えたやつがいる~』
「懐かしい曲だな……」
ラジオから流れる歌を口ずさみながら、俺は闇夜の中を車で駆けて行く。
何となく今日は、1人で当てもなく流したい気分になったのだ。
631 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:32:03.99 ID:b9Fq4I+K0
――
「ブラックホールに消えたやつがいる~」
デレデレデレデレデ
「あ・れ・は なんなんじゃ なんじゃ なんじゃ にんにんじゃ にんじゃ にんじゃ」
「川島さんやっぱり上手いなぁ」
「でもなんでこの曲歌ってるんだろ……。時代を感じるよ」
「ノリノリですねー」
「三味線ロック……。有りですね!」
夜も遅いというのに何盛り上がっているかというと、川島さんの部屋には家庭用カラオケがあったのだ。
『今日は寝ずに恋バナ大会だよ! ま・ず・は! 恋するはにかみ乙女みほちーから!』
『わ、私!?』
『そりゃあねぇ。あの後何が有ったか、根掘り葉掘り聞かせてもらいますよ!』
最初こそは乙女のパジャマパーティーらしく、私に対して集中砲火を放っていたけど、
川島さんがゲーム機を持ってきた頃から雲行きが変わってきた。
633 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:35:40.55 ID:b9Fq4I+K0
『あれ、これカラオケじゃないですか!』
『ストレス発散にはちょうどいいのよ。折角だからする?』
『え? 良いんですか? 近所迷惑とか』
『このマンション防音がしっかりしているから、どんなに騒いでも聞こえることは無いわよ』
『良いですねー! 私カラオケ好きですよ! 何歌おっかな……』
『それじゃあ一番! 本田未央! 持ち曲歌いまーす!』
『待ってましたー! フッフー!』
と言った風に恋バナはいったん中断、川島さんプレゼンツのカラオケ大会が始まったのだ。
『あ、あれ!? み、みんなの恋の話は!?』
『カクレンジャー 忍者 忍者』
『え、えー!? 酷い!』
私に聴きたいことだけ聞いておいて、自分たちの話題には全く触れなかったことにムッとしたけど、
カラオケなんて久しぶりだ。騒いでも問題がないというのなら、目一杯楽しんじゃおう。
635 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:38:09.12 ID:8QFbjOP/0
『忍者戦隊カクレンジャー』
「ふぅ、気分が良いわね。スッキリしちゃうわ」
「流石川島さん! 実にロックで痺れましたよ!」
「どの辺がロックなのかしら?」
「次みほちーだよ?」
「あっ、うん。それじゃあ……」
この曲にしよう。リモコン取出しポパピプペ。
『Dazzling World』
「おっ、ダズリンじゃん」
「コホン。so I love you I love you♪」
ああ、そうだったんだ。今になってようやくパズルがそろった。気付くのが遅いぐらいだよ。
タケダさん、アキヅキさん、そして私。世代を超えて、思いは受け継がれていく。グルグルと輪り、人々の心に残っていくんだ。
アキヅキさんの託した思いを、私は大事にしていかなくちゃ。
637 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:39:55.39 ID:8QFbjOP/0
「え、えっと。ありがとうございました?」
「美穂ちゃん良かったですよ。次は私ですね!」
「あれ? メール来てる」
歌い終わって一息つくと、携帯が光っていることに気付いた。アドレスは……、さっきの名無しさんだ。
『ごめんなさい。名前を書くのを忘れていたわね。服部瞳子です』
「瞳子さん!!」
予想外の名前に思わず叫んでしまう。もしこの部屋の防音設備が整ってなかったなら、隣の部屋の人が怒って殴り込みに来ていただろう。
「へ? トウコサン?」
「あっ、ごめん。大声出しちゃって」
「そう言えば、本番中も瞳子さんって言ってましたよね」
「小日向さんの知り合い?」
「はい。私にとって、初めての先輩なんです」
639 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/22(金) 23:40:51.21 ID:8QFbjOP/0
本当は卯月ちゃんだけど、彼女は同級生なのであまりそんな気にならない。
「服部さんのことですか? 私のプロデューサーが、私の前にプロデュースしていたアイドルなんです」
「とときんの前の女ってとこだね!」
「その言い方はどうかと思うわよ」
「えっと……。これ、瞳子さんが見てくれてたってことだよね? 良かった……」
ホッと一息ついて、彼女に返信する。
『見てくれたんですね! ありがとうございます! もし今日の放送で、またアイドルに戻りたいって思ってくれたなら凄く嬉しいです』
「かえって来るかな……」
歌え騒げと皆が盛り上がる中、私は落ち着いた気持ちでいた。
今日の放送で、彼女を勇気づけることが出来たなら。
眠くなるまで宴は続く。私は彼女からの返信を待ち続けたけど、プロデューサーが迎えに来ても、返事は来なかった。
644 : 11話 Time after time~花舞う城で~ ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:02:11.56 ID:lFXqKYyj0
――
「き、緊張するな……」
「そ、そそそうですね!」
「2人とも、緊張しても仕方ないですよ。ほら、堂々と待ちましょう!」
「うむ。人事を尽くしてきたはずだ。後は、天命を待つしかないよ」
「そ、そうですね。よーし、深呼吸深呼吸……」
私と彼は思いっきりちひろさんに背中を叩かれる。それでも私のドキドキは止まることを知らず、加速していく。
世間では大学の合格発表が行われているのだろうけど、私にとっても合否発表の日だった。
IAノミネートのカギを握る、運命の36週。それが今日のランキングだ。
「どっとっぷTV今週のランキング発表!」
「来たっ!」
「うぅ……」
天に祈るような気持ちで、私は結果を待つ。お願い、どうか――。
645 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:08:15.17 ID:LZSWfxJX0
43位 New 小日向美穂 Naked Romance
「43位……」
今まで積み上げてきたものが、砂のように崩れ落ちていくように。私はガックシと項垂れてしまう。
「クソッ、力及ばず、か……」
「落ち込まないでくださいよ、2人とも。初登場でこれは結構すごいことですよ? ね、社長!」
「ちひろくんの言うとおりだよ。たらればの話をするのは趣味じゃないが、もし君たちが出会うのがもっと早ければ、20位以内には入っていただろうね」
「それでも、デビューで43位というのは誇ってもいいことだよ。胸を張りたまえ。君たちは良く頑張った」
社長たちはそう言うけど、私は嬉しさよりも悔しさが勝っていた。
「私、悔しいです」
「悔しいと思えるのは、それだけ必死で頑張って来たってことだよ。私たちは、君たちの活動をよく知っている。私から賞を与えたいぐらいだよ」
「それに、これで君たちのプロデュースが終わったわけじゃない。これからリベンジのチャンスはいくらでも有る。IUでトップを目指して、頑張って行こうじゃないか」
「……はい!」
646 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:10:28.75 ID:/C8ZBh1Q0
IAはダメだった。したくないけど、時間が足りなかったと言い訳ができるかもしれない。
だけどIUはそうもいかない。純粋な実力勝負だ。
私だって、もう新人という括りにはならないだろう。
「美穂、今まで以上に大変な日々を過ごすことになると思うけど、1つ1つ着実にこなしていこうな」
「プロデューサー、お願いしますね!」
「それにさ……。こういうこと言うと怒られそうだけど、IAに受からなくてよかったかなって思ってるんだ」
「へ? どういう意味ですか?」
「IAにノミネートされたアイドルのプロデューサーには、ハリウッドで1年間研修を受ける権利を得るんだ。だからノミネートされていたら、彼はアメリカへ飛び立っていただろうね」
初耳だった。IAにノミネートされたら、何かしらご褒美が有るんじゃないかと思ってたけど、
プロデューサーがアメリカに行くことになっていたなんて。
凄く名誉なことのはずなのに、私は受からなくてよかったかな、なんて思ってしまった。
本当に甘いよね、私は――。
647 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/02/24(日) 00:15:24.52 ID:LZSWfxJX0
「ふむ、1位はNG2か……。それに21位に十時君も入っている」
「本当に恐ろしいですね。愛梨ちゃん、普段はポンコツな子なのにステージ映えするしなぁ」
「ポンコツって……言い過ぎですよ」
ランキングはホームページでも見ることが出来るそうで、1位から100位までサッと眺めてみる。
栄えある1位はやはりというべきかNG2だ。そして個人として、3人とも20位以内に入っている。
言い換えれば、20ユニット中4組がNG2というわけだ。流石としか言いようがない。
「過去にユニットと個人でランクインするということもあったけど、3人というのは初めてかもしれないね。新たな世代、か。私も歳を取るわけだ」
感慨深そうに社長は漏らす。
「でも、愛梨ちゃんは凄いです」
「うん。こいつは驚いたよ。あの子は本当に底が知れないな」
驚くべきは、21位の愛梨ちゃん。ボーダーラインの20位までにギリギリ入っていないけど、
デビューしてわずか2、3ヶ月でここまで上り詰めたことが、彼女の才能の恐ろしさを物語っている。
言い換えれば、愛梨ちゃんの才能と努力以上に、20位以上のアイドルは努力しているってことだ。
648 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:26:53.90 ID:rnkhTBvv0
「服部Pも鼻が高いだろうな」
「この勢いで、瞳子さんも戻ってきてくれればいいけど……」
「そうだね。服部Pにとって、服部さんは特別なアイドルなんだろうしね。もちろん、愛梨ちゃんがおざなりってわけじゃないよ?」
服部Pも愛梨ちゃんに真摯に向き合っていることぐらい分かっている。そうでもないと、ここまでの結果は残せない。
だけど愛梨ちゃんのことを思うと、歯がゆくも思う。
愛梨ちゃんの原動力であるプロデューサーの原動力は、今でなお瞳子さんなんだから。
携帯のバイブが着信を知らせる。一瞬だけ彼女から返事が来たことを期待したけど、内容はくだらない迷惑メールだった。
瞳子さんから返信は未だに返って来そうにない。こちらから催促する話でもないし、
彼女の気持ちが整理出来るまで、気長に待つしかないよね。
「さぁ、今日は帰りなさい。明日から、また頑張ろうではないか」
「はい。失礼いたします」
「バイバイ、美穂」
事務所を出て、誰もいない最終バスに乗る。私1人だけ乗せているのに、わざわざ一番後ろの席を選んでしまうのは、
誰に対して遠慮してしまっているのだろうか。
649 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:30:36.68 ID:LZSWfxJX0
――
美穂が帰った事務所で、残った仕事を片付けていると社長が声をかける。
「さっきのことだが」
「? なんでしょうか?」
「君は、本当にアメリカに行く気はなかったのかい?」
ハリウッド留学は非常に魅力的な話だ。ショービジネスの世界で生きる者なら、
一度は夢見る輝かしい世界だ。
事実俺も、プロデューサーという仕事をしていくにつれて、ハリウッドへの憧れは生まれてきた。
ポンとお金を出されたら、喜んで飛ぶだろう。英語だって必死で勉強し直す。
だけど皮肉なことに、ハリウッドへの憧れが強くなると同時に、美穂に対する思いも変質していった。
俺は彼女に恋している、独占したいと思っている。それは否定しようのない事実。
「俺のすべきことは、美穂をトップアイドルに導くことですから」
その言葉に他意はない。彼女に出会った時から、変わることのない願いはたった1つだ。
650 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:32:27.99 ID:rnkhTBvv0
「そうか……。しかし、君も分かっているはずだ。いずれ、小日向くんだけを見ることが出来なくなる日が来ることを」
「事務所の経営の軌道が乗ってこれば、新たなアイドル候補生とプロデューサーをスカウトしようと考えている。君にとっては耳にタコが出るぐらい聞いた話だろうが、我が事務所は小日向くんの個人事務所じゃないからね」
「それは……、分かっています」
何度も言われて、何度も自分に言い聞かせたことだ。
俺たちは現状に満足しちゃいけない。美穂にも偉そうに言ったことなのに、自分に跳ね返ってくる。
「でもまあ、逆に言えば他に手を回す余裕が出来たぐらい、小日向くんは活躍してくれているということ。彼女を導いたのは、他でもない君だよ」
「ありがとうございます」
「さてと、私も帰るとしようか。どうかね? 一杯」
「奢っていただけるのなら」
「言うようになったじゃないか。ちひろくんも来るかい?」
「いえ。今日中に仕上げないといけない仕事が有りますので。御2人で楽しんで来てください!」
「では、今日は男同士の飲みと行こうか!」
「お供します」
あーだこーだ考えても進まない。今はIUに向けて、頑張って行かないと。
651 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:37:31.04 ID:LZSWfxJX0
――
3月20日。天候は晴れ。熊本城は満開の桜に包まれていた。
「カーット! 小日向さん今のは最高だった! それじゃあいったん休憩取りましょう!」
「ふぅ……」
春の強い風が吹き、桜のシャワーが私たちに降りかかる。
「なんというか、なかなか幻想的な光景だな。タイムスリップしたみたいだ」
「やっぱりそう思いますか?」
今回は歴史ものの映画の撮影なので、出演者は皆時代劇衣装を着ている。カメラが回れば、一瞬にして戦国時代にタイムスリップしちゃうんだ。
「うん。しかし……よく似合ってるよ、その着物」
「えへへ。紗枝ちゃんに着付けを教えて貰ったんですよ。どうですか?」
くるりくるりと回ってみる。この歳になって自分で着付けが出来ないのもどうかなと思っていたところなので、
紗枝ちゃんの存在は実にありがたかった。
「紗枝ちゃんって……。あぁ、小早川さんね。一緒のレッスンスタジオにいた着物の子……で当ってるよね?」
「そうですよ。私の後輩アイドルです」
後輩の部分を強調して答えてやる。
652 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:39:46.44 ID:rnkhTBvv0
小早川紗枝――。京都言葉を流暢に操り、マイクの代わりに扇子を持ち舞い踊る、前代未聞の純和風アイドルだ。
彼女の名前を知ったのはファーストホイッスルオーディション。私の後にパフォーマンスをしたのが彼女だった。
その時はそんな子もいたなぁって程度だったけど、ある日のレッスンスタジオにて。
『あれ? あなたは……小日向はんではおまへんどすか』
『へ? おまんがな?』
『私です。憶えてはりますか? 小早川紗枝どす』
『小早川紗枝……あっ、前のオーディションにいた!』
名前が分からなくても、姿を見れば一発で思い出せる。レッスンスタジオというのに、彼女は着物を着ていたからだ。
『光栄どす、小日向さん』
『えーと、でも小早川さんがどうしてここに……』
『それはレッスン以外にないでしょう!』
トレーナーさんが言うには、彼女がいつもレッスンをしているスタジオが、急な都合で使えなくなったらしく、
今日だけレッスンを代わりに見て欲しいと頼まれたらしい。
確かに、レッスンスタジオにアイドルが来る理由なんて、それしか無いだろうけど。
653 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:44:31.26 ID:LZSWfxJX0
『そういうことです。よろしゅう頼んます』
『こ、こちらこそよろしくお願いします! 小早川さん』
『紗枝でええですよ』
『そうですか? じゃあ、紗枝ちゃんって呼びますね』
『そうだ! これも何かの縁。折角ですので、小日向さん。小早川さんに色々教えてあげてください』
『わ、私がですか!?』
『ええ。教えるのも良いレッスンになりますよ、先輩さん』
『あんじょう頼んます』
と交流が生まれて今に至る。
ちなみに紗枝ちゃんは佇まいから大人っぽく見えるけど、
私の方が芸歴も年齢も上だったみたいで、いろいろ教えて欲しいとちょくちょくメールが来る。
本当の意味での後輩は、彼女が初めてだ。
相馬さんも愛梨ちゃんも私より年上だったしね。
654 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:50:28.56 ID:n6CXJYLk0
『れっすんみてもらえまへんか?』
見た目に違わないというと失礼な気もするけど、機械関連は苦手なのか、
メールはいつも全文字ひらがなというのが、なかなかに微笑ましい。
「紗枝ちゃんも一緒に仕事できれば良かったんですけどね」
「今回は縁がなかったな。小早川さんに合う役が有るかと聞かれあら、微妙なところだし」
「残念です」
流石に紗枝ちゃんのためだけに役を作ってくださいとは言えない。今のスタッフ、キャストがベストメンバーであれば、
私はそれに恥じない演技をするまでだ。
「まっ、小早川さんもこれから台頭してくるだろうし、今後に期待だね」
「ですね」
いつか一緒のステージに上がることが出来るのかな? 想像しただけで楽しみになってくる。
「休憩終わりまーす! それじゃあシーン72から……」
「よしっ、美穂行って来なさい」
「はい。プロデューサー」
撮影再開。台本もちゃんと読み直したし、みんなの足を引っ張ら無いよう頑張らなくちゃ!
655 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:54:34.08 ID:LZSWfxJX0
――
「カーット! カットカーット!!」
「ホント、可愛いな」
赤い着物を着こなし手毬をつく彼女を見て、心の中で思ったことがそのまま出てしまう。
「IAのノミネート発表が良い感じに作用してくれたかな」
IUで戦える力をつけるべく、美穂と毎日を全力で駆け抜けてきたが、ここ最近の彼女の仕事に対する情熱は並々ならぬものじゃない。
やっぱり親友たちがノミネートされたことが、美穂にとっていい刺激となったのだろう。
ダントツの支持を得てノミネートされたNG2と、20位以内に食い込むことは出来なかったものの、
IA協会による予備選考を1位通過したことで選ばれた愛梨ちゃん。
特にこの2組のノミネートは、美穂のハートに火をつけるのには十分なぐらいだった。
『愛梨ちゃんにも先を行かれちゃって悔しいですけど、IUでは絶対リベンジして見せます! プロデューサー、一緒に頑張りましょう!』
656 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 00:56:01.91 ID:n6CXJYLk0
愛梨ちゃんの超スピードノミネートに少なからずショックを受けてしまうんじゃないかと危惧したが、
そう力強く宣言する美穂を見ると、杞憂に終わってしまった。
「強くなったのかな」
いや、初めて出会った時からそうだった。彼女は自信なさげで気の弱い性格だけど、
これと決めたら貫き通す芯の強い子だったじゃないか。
高校も卒業して、美穂はより一層大人へと近づいていく。いつの日か、一緒にお酒を飲んだりするのだろうか。
「発想がお父さんだな……」
ここ4か月ほどで一気に老けたような気がする。気のせいかな?
ああ、お父さんといえば。
「母さん! 美穂が! 美穂が!」
「美穂ちゃーん! 可愛いぞー!!」
「お父さん、あまりはしゃぎすぎると怒られちゃうわよ? ねえ、プロデューサーくん?」
「ほ、程々にお願いしますね? 君らも、あんまり叫ばないの!」
657 : ◆CiplHxdHi6 [SAGA] :2013/02/24(日) 01:01:52.91 ID:LZSWfxJX0
撮影場所が美穂のホームグラウンド熊本ということで、小日向パパとママ、小日向美穂応援団の皆様が応援に駆け付けてくれました。
彼らとはクリスマス以降だけど久しぶりに会ったけど、相も変わらず美穂バカっぷりを発揮していて安心してしまう。
今日は生で美穂の仕事振りを、しかも戦国姫小日向美穂を見れるということで、みんなテンションが高く、
さっきも騒がしくし過ぎてスタッフさんに注意を食らったところだ。
どうにも美穂の周りには、本人以上に喜び騒ぐ人が集まるみたいだな。俺も含めて。
「でも七五三も恥ずかしがってた美穂が、お姫様の服着て映画に出るなんてね」
「美穂ちゃんは最高です! よ」
「ああ、涙腺が弱くなってきたよ……」
「もう、お父さんったら」
恥ずかしからと七五三を嫌が口リ美穂か……。容易にシチュエーションが想像出来て頬が緩んでしまう。
「やっぱり、君に美穂を預けて正解だったよ。ありがとう、プロデューサーくん」
「そうね。最初は少し不安だったけど、美穂とも上手くやってるみたいだし。合格点を上げて良いかしらね?」
658 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:05:50.93 ID:n6CXJYLk0
「合格点?」
御袋さんはニタニタといやらしい笑みを浮かべる。あー、この笑顔は良くないことが起きる前兆――。
「それはもちろん、美穂の旦那さんに決まってるじゃない」
「許さんぞおおおおお!! 一〇〇年早いわあああ!」
「のわっ!」
案の定親父さんが噴火する。そういや最近阿蘇山噴火してないなぁ。
「美穂を嫁にしたければ、私を倒してからにしろおおお!!!」
「お、落ち着いてください!!」
「ラウンド1……ファイッ!」
「君らも煽らないで!! お願いだから!」
「一撃で仕留めてやるぞおおおお!」
「カーット! その人たち! 騒ぐんならどっかに行ってくれ!! 撮影の邪魔!」
659 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:11:37.64 ID:LZSWfxJX0
「あっ、すんません」
そりゃ監督も怒るだろう。ちらりと美穂を見ると申し訳なさそうに俯いていた。美穂は悪くない、悪いのは俺たちだ。
「はいはい、お父さん。殺り合うなら邪魔にならない所でしてくださいね」
「良し分かった!」
「解説は私がしますよー!」
「いやいや止めてくれませんか!? ぎゃおおおおん!」
「カーット! いい加減にしてくれー!」
その後俺と親父さんは監督にこってりとしぼられましたとさ。
「もう……。プロデューサー、お父さんが迷惑かけてごめんなさい」
「いや、俺も同罪みたいなものだよ。クランクアップお疲れさん」
撮影がひと段落ついて、美穂の登場パートの撮影は終了する。
初の大役ということで、最初の内は緊張のあまりガチガチだったけど、次第に場の空気にも慣れていき、
小日向美穂にしか出来ない、お姫様を演じることが出来たんじゃないかと俺は思う。
監督も、この役は美穂が演じたことで命が生まれた! と太鼓判を押してくれた。もしかしたら、次回作にも呼ばれるかもな。
660 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:15:11.40 ID:n6CXJYLk0
「それ歩きづらくない?」
「歩きづらいですけど……、でももう着ることがないのかなぁって思うと寂しく思えちゃって。ちゃんとスタッフさんの許可は得てますよ?」
桜散る道をぎこちなく姫装束で歩く彼女は、とても現実離れした可愛さを持っていて。
着ている服が物珍しいのもあってか、観光客の視線を集めてしまう。
「ママー、お姫様がいるよー!」
「あら、本当ね」
ふふん、ボウヤ。この子をアイドルの世界に連れて行ったのは俺なんだぜ。と心の中で自慢する。
「私がお姫様だったなら、プロデューサーはお殿様かもしれませんね」
殿様かぁ。殿様って言ったら、真っ先にバカ殿が出て来てあまりいい印象が無いんだよな。
でもこんな可愛いお姫様と一緒に入れるなら、殿様というのも悪くない。
「その服、汚さないように気を付けなよ? えっと、この辺に……。おっ、いたいた」
「こっひはほー!」
「お父さん、もうお酒飲んでる……。プロデューサーは飲み過ぎないでくださいね」
父親のだらしない姿に呆れたように溜息をつく。でもその言葉、ブーメランだよ。
661 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:20:04.46 ID:LZSWfxJX0
「ああ、うん。美穂も間違えて飲んじゃわないようにね」
「?」
あの日みたいなことが起きたら、言い訳のしようがない。間違いなく親父さんに阿蘇山に投げ込まれてしまう。
咲き誇る桜の下、小日向家と小日向美穂応援団は花見をしていた。撮影を見て帰るだけじゃ味気ないと、御袋さんが提案したみたいだ。
「さぁ! プ口リューシャーくん! 君も飲たまへ!」
「は、はぁ。ではいただきます」
親父さんにお酌してもらいちびちびと飲む。今日は車じゃないので、お酒は解禁だ。
しかし何でこう桜の下で飲むお酒は美味しいんだろうね。
「こうやってお花見するのって久しぶりです」
「俺もだな。地元民なのに熊本城で花見したことなかったし」
「それは、熊本県民失格ですね」
「そ、そこまで言われるとは思ってなかったな……」
「ふふっ、冗談です。プロデューサーの熊本城での初花見を一緒に過ごすことが出来て、私は嬉しいですよ」
662 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:25:25.59 ID:n6CXJYLk0
お酌を注ぎながらそんなこと言う彼女に不覚にもドキリとしてしまう。
「なぁ、美穂」
「どうかしましたか?」
「今からさ、2人で」
「よーし! お父さん歌っちゃうぞぉ!」
「フー!! お父さーん!!」
「曲はぁ、マイプリティドーターの持ち曲のぉ、Naked Romance!」
「待ってましたぁ!!」
「お父さん!?」
言葉の続きはかき消されて、黄色い声援が残る。
小日向美穂応援団はわいわいと騒ぎ、親父さんはどこから取り出したのかマイク(ラムネ)片手に、娘の曲を歌い始める。
カラオケ音源はというと、スマホから流れているみたいだ。
663 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:30:45.42 ID:LZSWfxJX0
「チュチュチュチュワ! 恋しちゃってるぜぇ!」
「いよっ! お父さん日本一ー!」
「お、お父さん……」
美穂からすれば堪ったもんじゃないだろうが、この光景は笑われても仕方ない。
顔を真っ赤にしたおっさんが、あの恥ずかし可愛い歌を熱唱するというシチュエーションの破壊力は抜群だ。
どこからかともなく写メられた音もしたし。着物を着ている美穂よりも目立ってしまっている。
撮るべきはむしろ美穂じゃないのかね。まぁ隠し撮りしてるようなら、プロデューサーとしてガツンと言うけどさ。
「チュチュチュチュワ! テンキュー!」
歌い終わると周りから笑いと喝采が生まれる。親父さんは至って満足げだ。娘の方はというと、
「あ、穴が有ったら入りたいです……」
スコップを渡したら、そのまま掘り進んじゃいそうなぐらい顔を真っ赤にしている。
「あー、なんと言うか……。ドンマイ?」
「プロデューサぁ……。逆勘当ってありますか? もしなければ願いを1つ使ってお父さんを一撃でシトメテ……」
訂正、スコップを渡したら切りかかってしまいそうだ。だんだんと彼女の瞳からハイライトが消えていく。ヤバいって!
664 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:35:09.34 ID:vZA7jksj0
「早まるな! そ、そうだ! この辺散歩しないか? あの人らは勝手に盛り上がるから、俺らだけでさ」
親父さんたちに邪魔されて言えなかったけど、ようやく言えた。
「2人でですか?」
「そう! ほら、撮影も終わってるだろうし、城に行ってみない? 撮影じゃなくて、普通に。観光客としてさ」
「え、えっと。分かりました。2人でか、えへへ……」
なんとか思いとどまってくれたみたいだ。美穂にそんな病んだ表情は似合わない。
誰かを幸せにする笑顔こそが、彼女の最高の武器だ。
「おじ様素敵ー!」
「アンコール行くぞー! だいたいどんな雑誌をめくったってダーメー」
「溜め息出ちゃうわー! フォー!!」
そんな俺の苦労はどこ吹く風、諸悪の根源の親父さんと、煽り続ける応援団はさらに盛り上がる。
あの子ら、酒飲んでないよな? 素面だよな?
「私もうここにはいたくないです。恥ずかしい……」
「……ですな」
665 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/24(日) 01:40:24.07 ID:LZSWfxJX0
「あら、2人でどこかに行くの? 良いわねぇ、青春よねぇ。私もこういう服着てデートしてみたかったわねぇ」
「あはは……」
「こっちは気にしなくていいわよ。お父さんマイクを持つとなかなか離さないから」
こっそり抜け出そうとするも、御袋さんに捕まってしまう。どうやら邪魔する気は更々ないようだ。
「あっ、ちゃんと節度を守ったお付き合いをしてね! プロデューサーくんもオオカミさんにならないようにね!」
「じゃあ美穂、行こうか」
「あっ、はい」
御袋さんの戯言は無視するのが一番だ。きっと振り向けばあの悪戯っぽい笑顔をしているんだろうな。
「ギリギリじゃないと僕ダメなんだよぉ!」
異様な盛り上がりを見せる小日向パパリサイタルをBGMに、俺たちは歩き出した。
目指すは熊本城。お姫様の帰還だ。
668 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 17:03:29.53 ID:WS8XI9rC0
――
「はぁ、お父さん……」
どうにも私の周囲には私以上に騒がしい人が集まるみたいで、やはりというべきか、
騒ぎ過ぎて何回も撮影が中断してしまったぐらいだ。
『カーット!』
あの時の監督の顔は思い出したくない。鬼と形容するのも生易しい位の形相だった。
その怒りを向けている相手が、スタッフや私たち出演者じゃなくて、私のお父さんとプロデューサーだったというのも、なんとも情けなくなる。
撮影は無事終わり、監督さんも、
『娘の晴れ舞台だから舞い上がったのかね?』
と笑ってくれたけど、それでも申し訳なさでいっぱいだった。
「もういっちょ行くぞー!」
お酒に酔って熱唱する父親と盛り上がる友達を背に、プロデューサーと一緒に歩き出す。目指すは熊本城だ。
あの場所に居続けたら、羞恥心のあまり我を失ってしまいそうだった。
669 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 17:09:20.30 ID:YM2VWW+t0
「やっぱり歩きにくいですね」
着物が似合うのと着慣れるのはまた別の話だ。私はこれまでてんで着物に縁が無かった。
有ったとしても七五三ぐらいで、だいぶ前の話。
撮影中は動くシーンも少なく、なんとか出来たけど、はた目から見れば、ぎこちなく歩く私は滑稽に映ることだろう。
「着替えた方がよかったんじゃないの?」
「い、いえ! 今日はこの着物でいるって決めたんです」
1日中着続けたら願いが叶うなんてことは無いけど、なんとなく返却するのが勿体無く感じた。
どうか今日1日だけは、戦国姫でいらせてください。
「まぁそう言うなら無理強いはしないよ。そうだなぁ……。背中、貸そうか?」
「へ?」
「ほらっ。おんぶする形になれば美穂も歩かなくて済むでしょ? こけて足をくじく前にさ」
そう言って彼は、乗ってくれと言わんばかりに手を後ろに回してしゃがむ。
670 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 17:14:48.90 ID:WS8XI9rC0
「え、えーと……」
「ほら。お乗りくださいまし、お姫様」
「わ、分かりました。それじゃあ、失礼します」
こうやって負ぶってもらったのって、小学校の時以来だ。
足をくじいて泣いた私を、お父さんは背負って歩いてくれた。
調子外れな鼻唄を一緒に歌いながら、家へと帰る。あの時のお父さんの大きな背中は忘れることが出来ない。
ふとお父さんの背中と、目の前の彼の背中が重なって見えた。
もちろん2人は別人だ。共通しているのは、私に対して厳しいようで甘いところ。私の喜びを、私以上に喜んでくれる人。
だからこそ、私は彼に惹かれていったのかな。
「よっと」
「重く、ないですか?」
ホイホイ言われるままに乗ってみたけど、大丈夫だよね? 最近少し太った気もするけど……。
「いや、全然。気にするこたぁないよ。軽い軽い」
「そ、それなら! 良かったです!」
彼も強がっているようには見えないので、一安心。
671 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 17:26:07.27 ID:YM2VWW+t0
「それでは美穂姫、お城へと参りましょう」
紳士的な口調でそんなことを言うもんだから、急に恥ずかしさがこみあげてくる。
顔は見えないけど、彼は笑いながら言っているんだろう。
「み、美穂姫は恥ずかしいです!」
「あはは、ごめんごめん」
私が来ている衣装のせいもあるけど、プロデューサーが馬のように思えてきた。
ニンジンを吊るせば走ってくれるのかな?
「プロデューサーの背中、大きいですね」
「そう? 中肉中背とは言われるけど、背中が大きいなんて初めて言われたや。というより、こう誰かをおんぶしたこと自体そう無いから、言われようもないんだけど」
「お父さんみたいです」
「お父さん、か。喜んでいいのかな?」
「はい。喜んじゃってください」
きっとそれは、私から彼へと送る最大級の褒め言葉だ。
672 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 17:35:02.06 ID:WS8XI9rC0
「~♪」
「鼻唄歌って。上機嫌だね」
男の人の背中に負ぶさっているだなんて、恥ずかしくて気がどうにかしちゃいそうなシチュエーションなのに、
服越しに伝わる彼の温度が私の心を落ち着かせる。
彼の体温の効能はランダムだ。ある時は私をドキドキさせて、またある時は安らかにしたり。
本当に不思議な生き物だ。学会に提出すれば、きっと人類の役に立つことだろう。
「ふふっ」
「どうかした?」
ノーベル賞を受賞する彼の姿を想像するだけでおかしくて、笑ってしまう。
「お城に着けば」
「ん?」
「お殿様の服って借りれますか?」
「さぁ。どうだろうね。そもそも有るのかな? スタジオじゃないし」
「もし借りれたら、プロデューサー、着てみてください」
「オレェ?」
673 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 17:48:38.29 ID:YM2VWW+t0
「あだっ! 筋違えるかと思ったよ」
素っ頓狂な声をあげてこちらに振り向くけど、首が曲がりきらず痛そうな顔をする。
「はい。私が着ても、仕方ないと思います」
「それは違いないけどさ」
「それに、お姫様がいれば、お殿様がいてったいいじゃないですか」
「俺なんかで良いの?」
「プロデューサーだから良いんですよ」
「まっ、借りれたら着てみるか。似合わないからって、笑わないでよね」
「笑いませんよ」
熊本城は撮影スタジオじゃないから貸してくれると思えないけど、
彼がお殿様の服に着替えたら、お城の高い所から夕暮れの桜並木を2人っきりで見下ろしてみよう。
「さてと、着いたよ」
きっと、何物にも代えることの出来ない光景が待っているはずだ。だって隣に、彼がいるから。
674 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 17:54:55.52 ID:WS8XI9rC0
「夕暮れやっとあの子といい感じ、ってか」
「それ、どこかで聞いたことあります」
川島さんが歌ってたっけ。不思議と今の状況にマッチして、恥ずかしさがこみ上げてきた。
「昔の戦隊ヒーローの歌だよ。しかし、壮観だなぁ」
「はい。こんな光景を今まで見てこなかったなんて、勿体無かったです」
「同感だよ」
2人揃って地元民失格だなと小さく笑う。
結局お殿様の服を借りることは出来なかったけど、隣に彼がいることに変わりはない。それだけで十分だ。
沈みゆく夕日が照らす桜並木は、ほんのりと紅に染まり神秘的で。
ここから飛び込んだら、そのまま異次元へと飛び込んで行けるんじゃないかと思えたぐらい。
「えいっ」
こんな光景はもう二度と見ることが出来ない。そう思うと自然に携帯を取り出して、何枚か写メっていた。
675 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 18:17:50.17 ID:YM2VWW+t0
「少し遠いですね」
「写真に残すより記憶に残したいよね、こういう光景はさ」
距離があるので、大きくは撮れなかったけど、私はこれでも満足だった。
網膜に深く焼きついた光景は、忘れろという方が無理な話だ。
そうだ。後でブログにアップしてみよう。記念すべき初投稿にふさわしい写真だ。
「そうだ」
「ん? どうかした?」
いつまでも見ていても飽きの来ない光景だけど、ここに来て桜を見るだけと言うのも何か勿体なく感じた。
だからこんな突拍子のない提案もしちゃうのも、仕方ないことだろう。
「ここで踊ってみて良いですか?」
「踊る? その恰好で?」
「いえ。折角の衣装なんですし、踊ってみようかなって思って」
676 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 18:28:08.09 ID:WS8XI9rC0
激しい踊りは無理でも、紗枝ちゃんのように緩やかな舞は問題ないよね。
何回かレッスンを一緒にしたので、それっぽい動きは出来るはず。
「じゃあ見てて上げるよ」
「はい。それじゃあ……」
BGMは遠くから聞こえる花見客の喧騒。きっとお父さんはまだはしゃいでいるんだろうな。
記念だからと貰えた撮影小道具のセンスを開き、紗枝ちゃんっぽく踊ってみる。
アイドルたるもの、何事にもチャレンジだ。余裕が出来てきたら、日舞を学んでみるのも面白いかも。
「あっ、プロデューサー。お酒、どこから持ってきたんですか?」
「ん? 本当はダメなんだろうけどさ、気分だけでも殿様になろうかなって」
「もう、殿。飲み過ぎはダメですよ?」
「ふふっ、苦しゅうないぞ」
なんて言ってみるけど、目の前の彼にちょんまげが生えたみたいで、お城で2人っきりという異常な状況も手伝って、
私もムードに酔ってしまう。身も心もお姫様になって、彼を喜ばすように舞い続ける。
今だけはお殿様だけのお姫様、あなただけのアイドル。
678 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 18:35:18.41 ID:YM2VWW+t0
「どうでした?」
緩やかな舞も、見ていた以上にしんどいもので、息も切れ切れに彼に尋ねてみる。
「うん。舞も結構良かったね。今後のプロデュースの参考になったよ」
うんうんと頷く彼も満足そうで、小さくガッツポーズをする。
「さあて、あんまり長くいるわけにもいかないし、そろそろ親父さんが禁断症状おこしそうだ」
どうだろう? お父さんのことだから、歌い疲れて寝ているんじゃないかな?
「帰りますか。ほいっ」
行きと同じように、おんぶをする準備は万全だ。
「それじゃあお言葉に甘えて……」
正直に言うと、負ぶってもらう必要は全くない。
歩きにくいのは確かだけど、そこまで距離があるわけでもないし、彼も軽いと言っても、
女の子1人背負って歩くんだ。しんどいことに変わりないだろう。
だけどこう、彼とくっつくと心が満たされるようになってしまったので、
私からすれば願ったり叶ったりだったりする。
日に日に意地悪な女の子になっていくのは、貴方のせいですよ?
681 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 21:04:15.21 ID:WS8XI9rC0
「あら、美穂。足怪我したの?」
「何々? 美穂ちゃんプロデューサーに乗っちゃってるの?」
「え、えっと。着物だと歩きにくいだけ、だよ」
「ぐごー、ぐごー。美穂はわたしゃない……ぐごー」
花見のシートに戻ると女性陣が迎えてくれた。周りを巻き込んで騒ぎ倒したお父さんはというと、
気持ちよさそうにいびきをかいて眠っている。
起きていても騒音、寝ていても騒音。普通にしている分には真面目な人なんだけどな。お酒って怖い。
「嘘だぁ。本当は美穂ちゃん。プロデューサーさんの背中に胸を押し付けてたんじゃないの?」
どうなんどうなん? と小突きながら、友達が囃し立てる。
「え、ええ!? そ、そそそんなことないよ! で、ですよね!?」
「そ、そうだね! な、何もなかったね!」
目は泳ぎ、声は上ずるプロデューサー。本当にこの人ときたら、正直な人だ。
って私無意識のうちに押し付けてたってことだよね!?
682 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 21:14:01.02 ID:YM2VWW+t0
「プ、プロデューサー!?」
「お、俺は知らないよ! 何も!」
声から顔まで、彼のあからさますぎる対応は、周囲を煽るのに十分な材料だった。
「ははぁん。これはクロですなぁ」
「美穂も女の武器を自覚し始めたころかしら?」
「うぅ……、そんなつもりなかったのにぃ」
「あはっ! あははははっ! 笑っとけ笑っとけ!」
「プロデューサーも笑ってないで助けてくださいよー! 気をしっかりしてください!」
お母さんたちに囲まれて逃げ場を失った私たちは、やいのやいのと良いように弄られる。
「ぐごー、ぐごー」
救いがあるとすれば、迷惑なぐらい騒ぎ立ててもお父さんが起きなかったことかな。
もしお父さんに胸を押し当てていたなんてことが耳に入ったら、プロデューサーは桜の下に埋められちゃう。
683 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 21:17:05.09 ID:WS8XI9rC0
「ふぅ、今日も疲れたなぁ」
花見から帰って、久しぶりに実家に帰る。
殆どの荷物は東京にあるけど、やっぱり17年間過ごした部屋は落ち着く。
懐かしい匂いが有ると言えばいいのかな? いつ帰ってきても、私を優しく迎え入れてくれるのだ。
「直ぐに東京に戻らないといけないか……」
ファーストホイッスルに出たことで、私のスケジュール帳はギッシリと埋められるようになった。
仕事が増えてウハウハなんだけど、こう実家に帰る時間が取れなくなったのは寂しい。
今回だってそう。映画の撮影という仕事で熊本に来ただけ。
ホテルよりも実家の方がいいだろうと言うプロデューサーの配慮があって、私は実家に帰ることが出来た。
この仕事がなければ、東京で他の仕事をしていたはずだ。
毎日忙しいけど、アイドル活動も軌道に乗って来て、とても充実している。
だけど悲しいことに、人間は満足できない生き物。売れ始めたら売れ始めたで、いつもどおりの日々が恋しくなってきた。
それは単なるわがままだ――。自分にそう言い聞かせてベッドに横になる。
684 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 21:40:41.57 ID:YM2VWW+t0
「あっ、ブログだ」
今日撮った写真を眺めていると、ブログに投稿しようと考えていたことを思い出す。
小日向美穂Official blog。投稿件数は0。出来立てだから仕方ないよね。
タイトルの名前は、事務所のみんなで考えて決まったものだ。こういうのって、名前決める時が一番楽しかったりするよね。
『クマさんダイアリー』、『美穂さんは明日も頑張るよ』、『こひなたですが?』……と色々な案が出たけど、
悩みに悩んで私が選んだのは、
『小日向美穂、一期一会』
映画のタイトルから名前を借りたけど、自分でもいいタイトルだと思う。
この業界に入ってから、私は多くの出会いと別れを経験した。
それは私たちが生きていくうえで、これからも避けては通れないことだ。
確かに別れは辛いことだ。だけどその度、新しい出会いに期待する。
これからも素敵な出会いがたくさんありますように、本気の私を見て貰えますように――。
そんな願いを込めてブログのタイトルに決めた。
「うーん、でもどう書けばいいかな? 日記なんてつけたことないし……」
685 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 21:58:34.90 ID:WS8XI9rC0
プロデューサー曰く、業界内ではゴーストライターを使って、ブログをやっていることの方が多いみたいだけど、
私は自分の言葉でファンと交流を持ちたいから、助けを借りずに自分で書くことにした。
プロデューサーも私ならそう言うと思っていたみたいだったけど、いざ書こうとなるとなかなか言葉を紡げない。
「他の皆はどういうこと書いているんだろ?」
そう言えば未央ちゃんはブログやっているって言ってたよね。本田未央と検索っと。
本田未央 不憫
本田未央 ブログ
本田未央 ミツボシ
本田未央 NG2
本田未央 本田味噌
検索結果には思わず首を傾けたくなるようなワードもあったけど、ブログはキチンと見つかった。
『ガチャをひいたら私です!』
「どういう意味なんだろう、このタイトル……」
プロフィールには語感で決めたと書いてるけど、妙にリズム感が有って面白いタイトルだ。
686 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 22:10:58.54 ID:YM2VWW+t0
「えっと、顔文字かぁ……」
タイトルの意味は分からなかったけど、ブログの書き方は非常に参考になる。私も真似してみよう。
仕事のこと、友達とのこと。テレビでは見られない素の未央ちゃんが、ありありと書かれていた。
コメント数もビックリするぐらい多く、彼女の人気っぷりを物語っている。
「あっ、オーディションの後の写真だ」
参考として読むつもりだったけど、読んでいくうちに夢中になっていき、最初の投稿まで読破してしまった。
『今日から頑張ります!』
そう名付けられた初投稿には、卯月ちゃんと凛ちゃんと見覚えのある女性が写っている。
というよりも、この写真は見覚えがある。卯月ちゃんに見せて貰ったものと同じだ。
だから4人目の彼女はNG2のプロデューサーさんだよね。結局今の今まで会ったことは無いけど、
3人の話を聞くに、厳しいけど優しい人と言うのは共通認識みたいだ。
「このころはまだコメントが無いんだね」
デビューして数ヶ月の間は、コメントも片手で数えるぐらいしかなかったけど、徐々に増えていって、
IAノミネートした今となれば、コメント数も4ケタをゆうに超えている。
「凄いな……」
何気ない彼女の日常に、これだけ多くの人がコメントしている。実際見ているだけの人もいるから、
読者はもっともっといるだろう。ただただ感嘆の溜息だけがもれるばかりだ。
687 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 22:24:10.11 ID:WS8XI9rC0
「いけない! 夢中になっちゃった!」
時計を見るとまだ日は変わってないものの、どうやら長い間読み更けいたようだ。
「えーと……。変に難しい言葉使わなくていいよね?」
頭の中で思いつくままに書いていく。
「こんな感じで良いかな? プロデューサーに確認してもらおうっと」
書き上げた内容をコピペして、彼にメールする。一応誤字脱字は無いよう確認したつもりだ。
「~♪」
音楽プレイヤーで李衣菜ちゃんおススメの洋楽ロックソング集(実は同じ事務所の別の子が作ったらしい)を聞きながら待っていると、
曲が終わったと同時に彼から返事が帰って来た。何と言うナイスタイミング。
『読んだよ。問題はないと思うよ? 美穂らしさが出てて。強いて言うなら、初投稿だからこれから応援してくれる人に向けて自己紹介的なのをした方がいいかもね』
「あっ、本当だ。忘れてた」
いきなり投稿して桜が綺麗でしたって言うのも変だよね。自己紹介文も考えなくちゃ。
事務所のHPに載っているプロフィールを引用して……、こんな感じで良いかな?
688 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 22:35:58.14 ID:YM2VWW+t0
自己紹介
シンデレラプロダcクション所属アイドルの小日向美穂 (コヒナタ ミホ)と申します!
主にお仕事情報や、日常のワンシーンの写真を載せて、コメントとかを書いていこうかなと思ってます!
タイトルの一期一会は、私の好きな言葉です。これからもたくさんの出会いがあること、
そして読んでくださった皆様にも素敵な出会いがあって欲しいと願って付けました。
よろしくお願いします!
プロフィール
ニックネーム 美穂
性別 女性
誕生日 20??年12月16日
血液型 O型
職業 アイドル
出身地 熊本県
将来の夢 目指せ、トップアイドル!
711 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2013/02/26(火) 05:22:52.86 ID:IF1Y7meWo
>>688
いきなりtypoしてる美穂ちゃんかわいい
689 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 22:51:07.59 ID:exWCFwMn0
20XX年 3/20
『初めてでドキドキしますね!』
始めまして、小日向美穂ですっ(*´(ェ)`)ノ
アイドルやってます!
こうやってブログを書くのも、少し恥ずかしいんですけど、ファンの皆様と近い距離で交流出来たらなと考えています
お仕事情報とか、写メが中心になるかなと思いますが、頑張ってやっていきたいです
この写真は今日私の地元熊本で撮った写真です! 熊本城から見る桜って、凄く綺麗ですね。ロマンチックでお勧めです
後この姿は、今年の夏に全国で放映される映画『戦国SAGA』での私の役どころ戦国姫です!
初の映画出演と言うことでドキドキ(/(エ)\)していますけど、凄く面白い映画になっていますので、公開を楽しみに待っててくださいね!
ブログのこともアイドルのことも、まだまだ始まったばかりですが、よろしくお願いします!(。・(エ)・。)/
690 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 23:06:57.34 ID:fzxEJmZw0
完成したものをもう一回彼に送る。今度はOKの指示が出たので、そのまま投稿する――
「こ、このボタンを押せば……」
はずだったけど、やれ見られるのが恥ずかしい、やれコメントで文句言われたらどうしようと葛藤して、
書き込むまでに洋楽ロックが2曲終わってしまった。
「せーのっ」
投稿。最初だから緊張しているだけ、次からはちゃんと出来る! と自分を鼓舞する。
「コメントとかちゃんとつくかなぁ……」
未央ちゃんのブログを見た後なので、余計心配になってくる。
「み、見ない方がいいよね! うん! 明日見よう!」
反応が有れば嬉しいけど、もしコメントが無かったらと思うと怖くなり、布団に潜り込ん夢の世界へと逃げ込もうとする。
「眠れない……」
ひだまりの下じゃいくらでも寝れるのに、こういう時に限って眠れなくなるのはどうしてだろう。
「確認……しちゃおうかな?」
691 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 23:25:22.46 ID:exWCFwMn0
投下したのが2時間程前。おっかなびっくり携帯を開けて、ブログへと飛ぶ。
『初めてでドキドキしますね!』コメント(373)
「ええっ!? ウソっ!」
多くて10有れば良いかなぐらいで考えていたから、この数字には驚きを禁じ得なかった。
「え、えっと……。どういうこと? え?」
予想外のコメント数に意識が飛んでしまいそうになるけど、何とか持ち直す。最初の投稿なのに、なんでこんなに……。
「ま、まさか……。炎上している!?」
炎上するような要素は無いはずだ。それなのに、このコメントの数。一体何がどうなって……。
「確認しなきゃ……」
恐る恐るコメント欄を見る。
1 トミコさん
ブログ開設したんですね
小日向さんの姿、いつもテレビで見ています
頑張ってください。私も頑張ってます
2 F見Y衣さん
初コメです! 小日向さんのブログが始まると公式HPに書かれていたので、飛んできました
毎日が忙しいと思いますが、お体に気を付けて頑張ってくださいね!
3 キバゴさん
キバー!(頑張ってください!)
692 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 23:41:00.56 ID:fzxEJmZw0
「炎上、してない?」
一通りのコメントを確認して、ホッと一息。事務所の方でフィルターがかかっているのか分からないけど、
私に対する中傷コメントは今のところ0だった。
「公式HPに書かれていたって……。もしかしてリンク貼ったのかな?」
正直なところ突発的にブログを始めたようなものだから、方々にアナウンスが出来ていなかったけど、事務所のHPを確認すると、
私のブログへのリンクが新しく出来ていた。こんな遅い時間なのに、ちひろさんがしてくれたのかな。
「ありがとうございます、ちひろさん」
このお礼はお土産でしよう。く○モングッズとか喜ぶかな?
「私も世間に認知され始めたってことだよね?」
373件。もしかしたらこれからも増えていくと思うけど、これだけのファンが私を応援してくれている。
「えへへっ、やる気出ちゃうな」
このまま小躍りしたい衝動に駆られたけど、夜も遅いのでやめておく。
「これ1件1件コメント返しってのは、難しいかな……」
出来ることならしてみたいけど、一度やると今後も続けなくちゃいけないし、プロデューサーも首を縦に振らないだろう。
直接交流できるツール故に、それに伴う危険も重々承知している。
693 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/25(月) 23:50:36.09 ID:exWCFwMn0
「今考えても仕方ないかな?」
流石にこんな時間に彼にメールをするのも気が引ける。疲れているだろうし、明日相談してみよう。
「結構時間立っちゃったな。起きれるかな?」
目覚まし時計をちゃんとセットしたことを確認し、布団を被る。
明日も朝の便で帰らなくちゃいけないし、心配事も解消されたので、今度こそ眠気に従って夢の世界へ飛び込もう。
「ごめんね、眠かったでしょうに」
枕元には東京から持ってきたプロデューサーくん。結構大きな荷物で持ち運びには不便だけど、
これが有ると気持ちよく眠れる気がするので、遠くの仕事の時は持って行くようにしている。
「おやすみなさい」
「」
当然彼はしゃべらないけど、なんとなくおやすみって言ってくれている気がして。
心地良い眠りへの切符を持って、夢の世界に。良い夢見れると良いな――。
694 : 11.5話 Dream×Dream ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:05:07.54 ID:FxRNNXYJ0
??
ゴーン、ゴーン……
「あれ? ここ、どこだろう?」
「みほちー、なにボーっとしてるの?」
「そうだよ。今日の主役なんだから、シャキッとしないと」
「へ? 何が?」
「またまた惚けちゃって! 今日は美穂ちゃんの結婚式でしょ」
「えっ、結婚式!?」
鏡を見ると、私の着ている服は一点の穢れの無い真っ白なウェディングドレス。
一緒に映るNG2の3人も大人っぽくなって……。
「ユメってことで良いんだよね?」
じゃないとこんな突拍子もない展開はやってこない。結婚式って……、誰と?
「美穂も綺麗になったわね。いきなり我が血族の定めとか言って、吸血鬼を狩りに行ったきり帰ってこないお父さんも喜んでいるでしょうね」
「お父さん居なくなったの!?」
そもそも吸血鬼って何? どういうこと?
695 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:10:28.95 ID:/oQmBj3h0
「そう言う設定なのよ」
「意味が分からないよ……」
夢だからなんでもありってことで良いのかな?
「美穂ちゃん、時間ですよー」
「相変わらずでかいよねー、とときん」
「肩凝っちゃうんですよ?」
未来の話だから、周囲の皆も成長している。愛梨ちゃんの胸はまだ成長しているみたいだ。
「じゃあ私たち、客席で見ているね」
「じゃねー」
「美穂ちゃん、可愛いよ!」
「本当はお父さんとバージンロードを歩くはずっだったんだけどね……。プロデューサーくんさんと一緒に、ね?」
「クマー」
あっ、プロデューサーくんだ。お父さんの代わりなのかな。
「……よしっ」
何がよしっなのか自分でも分からないけど、とりあえず式場へ行こう。
696 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:24:17.03 ID:FxRNNXYJ0
「小日向さん、おめでとう。先越されちゃったわね……分からないわ……」
「川島さん、顔怖いですって! にしても結婚かぁ。なんつーか、ロック魂を感じるね」
「おめでとう! 新婚旅行の際は、○○航空をお願いね!」
「小日向さん、あなたの頑張りで私はもう一度アイドルとして輝けたわ。本当に、ありがとう」
「結婚おめでとうさんさん。新婚旅行に京都はいかがどすか?」
「良い結婚式だ、掛け値なしに」
「おめでとう、小日向さん。旦那様と幸せにね。今度は結婚ソング作ってみようかな?」
「今なら2倍ケーキと合わせて6倍のブーケをGETできます!」
「小日向美穂応援団は永遠に不滅だよー!」
「えへへ……」
両脇の皆から祝福の言葉を投げかけられて、私はバージンロードを歩いていく。
「クマー」
隣を歩くのは何故かお父さんじゃないけど、きっとお父さんもどこかで私の結婚を喜んでくれているはずだ。
「コホン! これより、挙式をとりおこないますアーメン」
神父役は社長だ。妙に似合っているのが何ともおかしい。
697 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:31:06.47 ID:ssI7i8cT0
「……」
神父様の前で隣に立つ彼は、私以上に緊張しているのかガチガチに固まっている。
タキシード姿も似合っていて、
「ふふっ……。緊張してるんですね。私もですっ」
「一緒、だな」
「はい」
いつも2人で緊張して、喜んで悲しんで。時々仲たがいすることもあったけど、それでも最後には彼が隣がいて。
これからも、そんな素敵な思い出を増やしていくんだね。
「新婦、小日向美穂。貴女は、うんたらたらして、永遠の愛を誓いますか?」
「誓います」
「新郎、プロ田デュー太郎。貴方は以下略して、永遠の愛を誓いますか?」
「誓います」
「それでは、誓いのキスをアーメン」
698 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:39:37.45 ID:FxRNNXYJ0
「行くよ、美穂」
「はい。あなた」
小日向美穂、改めプロ田美穂。
彼の顔が近づいてきて、距離が無くなり影が1つに――。
「キャンユーセレブレイッ? キャンユーキスミトゥナイッ?」
「へ?」
「ウィーウィルラブロングロングアゴー」
「永遠と言う言葉なんて知らなかったよねぇ……」
突然ドアが開くと、ウェディングドレスを着た妙齢の女性が……、誰?
「だ、誰かね!?」
「わ、わくっ、和久さん!?」
「へ? わくわくさん?」
和久さんと呼ばれた女性は、プロデューサーを睨みつけるように見ている。
「あの時の言葉は……、何だったのかしら?」
「えっ、あのっ、その……」
「私より彼女を選ぶと言うの?」
「な、何この展開…?」

699 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:44:03.75 ID:ssI7i8cT0
「プロデューサー、これは……」
「いや、そのですね……」
「Pは誰とキスをするー? わーたしそれともわーたし?」
和久さんは歌いながらこちらへとにじり寄ってくる。夢とはいえ、あまりの超展開についていけなくなる。
「クマー!」
「噴ッ!」
「クマー!?」
「プロデューサーくーん!?」
取り合抑えようとしたプロデューサーくんが和久さんの放ったブーケに吹き飛ばされる。
「もしかして、私以外に好きな人がいたんですか?」
「違うよ! 俺が好きなのは、美穂だけだよ!」
「プロデューサーさん……」
現実では絶対言ってくれないだろうセリフだ。夢の中のお話だけどそう言って貰えただけで、
天にも昇りそうな気持ちになる。
700 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:50:12.52 ID:FxRNNXYJ0
「どうして私じゃなくて、彼女なの?」
自失呆然状態で取り押さえられる和久さん。その表情はとても物悲しげで。
不謹慎だけど、それがとてもセクシーに思えた。
「和久さん。美穂は……」
「私は?」
「俺にとって大切な人なんだ。だから、他の誰かを選ぶなんてできない.。ごめんなさい」
「……そう、私は負けたのね……。お幸せにね」
「ありがとうございます、和久さん」
「私たち、こんな形じゃなかったら、いい友達になっていたでしょうね」
「……はい」
固く和久さんと握手を交わす。
「アーメン! ちょっと変なことになったけど、気を取り直して誓いのキスを」
『チッス! チッス!』
701 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:53:31.47 ID:ssI7i8cT0
会場の皆が囃し立てて、2人して赤くなる。本当に、私たちはそっくりだ。
「行くよ、美穂」
「はいっ、貴方」
そして2人は幸せなキスを……
ポロッ。何かが落ちた音。
「え?」
「美穂……」
えっと、プロデューサーの、お面?
「プロデューサーかと思った? 残念、小日向パパでした!」
超至近距離に、吸血鬼を追って消えたはずのお父さんの顔が――。
「いやああああああ!!」
~~
「いやああああああ!!」
「あだっ!」
702 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 00:57:47.29 ID:FxRNNXYJ0
「はぁ、はぁ……夢で良かった……。って何か頭にぶつけちゃった……」
恐ろしい夢だった。それだけしか言えない。
「いたたた……」
「お、お父さん!?」
「お、おはよう美穂……」
「な、なんでお父さんが部屋にいるの!?」
「何でって、美穂が一向に起きないからだよ。時間見てみなさい」
「へ?」
目覚まし時計を見ると、8時過ぎ。飛行機に乗る時間は、9時24分。
「ええええ!!」
「昨日夜更かししただろう? 目覚ましが鳴っていても気付かなかったみたいだし。ほら、着替えなさい。来るまで空港まで送ってあげるから」
「う、うん……」
どうも私は夢の世界に長くいすぎたみたいだ。
703 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 01:02:00.49 ID:ssI7i8cT0
「空港までって、プロデューサーは?」
「彼は一度迎えに来たんだが……。美穂が起きなかったんだ。彼まで遅刻させるのも悪いと思って、先に空港に行ってもらったよ」
「そうなんだ……」
それならちゃんと起きるべきだったかな。
「あの夢で起きろって方が難しいよね、プロデューサーくん?」
「」
返事が無い。ただのぬいぐるみの様だ。
実際にはお父さんの変装だったとはいえ、プロデューサーから好きと言って貰えたことは嬉しかった。
「いつか言わせることが出来るのかな……」
そのためにも、もっともっとアイドルとして輝いて、誰もが認める女の子にならないと!
「美穂、朝ごはんはパンを用意しているから。それを持って行きなさい」
「ありがとう、お母さん! それじゃあ行ってきます!」
「行ってらっしゃい、頑張ってね」
次いつ熊本に帰ってこれるか分からない。でもこの町には、私の居場所が有る。
704 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 01:07:07.74 ID:FxRNNXYJ0
「ビックリしたよ? 美穂の家に言ったら、まだ寝ててさ」
「うぅ、ごめんなさい……」
なんとか予定していた便に間に合って、彼と2人で飛行機に乗ることが出来た。
「でもあんなにぐっすりと寝てて。良い夢見てたかな?」
「良いと言えば、良いんでしょうか?」
「? なんだ? 釈然としないな」
最後の最後で台無しになったから評価するには微妙なところだ。
だけど、和久さんなんてどこから出てきたんだろう……。
「ところでプロデューサーは! 和久さんってご存知ですか?」
「和久さん?」
「はい。名前は分からないんですけど、物憂げな美人です。ウェディングドレスが良く似合う……」
「随分アバウトな説明だな。和久さんねぇ……。俺の交友にはいないな。もしかして」
「もしかして?」
心当たりあるのかな?
「最近結婚式雑誌のCMやってるの知ってる?」
705 : 結婚式雑誌×→ウェディング関連雑誌 ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 01:16:12.55 ID:ssI7i8cT0
「えっと、最近テレビ見れてないんで分からないです」
忙しくなって露出が増えたがいいものの、そのせいでテレビを見る時間も減ってしまった。
家にいるのは大抵寝るための時間だ。
「忙しいから仕方ないかな? まあもしかしたら、街頭のテレビとかで見たことあるかもしれないけど……。あっ、ナイスタイミング」
「あっ! この人です!」
機内のテレビをつけると、ウェディングドレスを着て、女性向け雑誌のCMに出ている和久さんが映っていた。
確かにどこかで見たことが有るかもしれない。下の方にも和久井留美と書かれている。
あれ? 和久井?
「和久じゃなくて、和久井さんだったね。まぁうろ覚えでしたって話か」
私がうろ覚えだったため、夢の中の彼は和久さんと呼んでいたのか。
「ごめんなさい、和久井さん……」
「名前は知らなくても、顔は知っているって人の代名詞かな。このCMの評判が良くて、和久井さんも売れて来ているんだけど」
「プロデューサーは知り合いじゃないんですね!」
「う、うん。でも同業者だから、何時かは一緒に仕事することもあるかもね」
「良かった……」
706 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 01:25:23.74 ID:FxRNNXYJ0
予知夢にはならなさそうなので今のところは一安心。
「そうだ、プロデューサー。私のブログ、凄いことになっていました」
「ああ。俺も驚いたよ。あの時間帯で、あれだけのコメント数。今でも増えていってるんじゃないかな? コメント数は……、おお、400超えてる。投稿し始めがピークだったみたいだね」
「な、なんだか実感が湧かないです」
「そんなものだよ。それだけ美穂が注目されているってことだよ。だから自信持って!」
「えっと、そのことなんですけど」
「?」
私は寝る前に考えていたことを彼に話した。コメントに返信するのはどうか? ファンとの交流としては一番手っ取り早い方法だと思っていたけど、
「やらない方がいいと思うな。難しい所だけどさ、10件とかならまだ大丈夫だけど、これだけのコメントを毎回捌くのは相当疲れるよ? 今だってテレビ見る余裕すらないでしょ?」
「それに、ちひろさんがある程度フィルターをかけてくれてるとは言え、どんなコメントが来るか分からないからね。匿名の怖いところで、無責任な発言だってオブラートなしで飛んでくる」
「今はまだないけど、心無いコメントが書かれることだってある。YouTubeの低評価みたいに、ファンがそれに対して怒ってコメントを書いて、マイナスのスパイラルに陥る可能性もあるしね」
やっぱり彼は手放しで頷いてくれなかった。
「そうですか……」
707 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 01:40:14.72 ID:FxRNNXYJ0
「そう気落ちすることないよ。ファン皆もそりゃ美穂からのコメント返しがあれば嬉しいと思うよ? でも、それよりも彼らが望んでいることは、美穂の活躍」
「トップアイドルを目指して日々頑張ることが、美穂からファンの皆に出来る最高の恩返しじゃないかな? ブログアイドルとかプロブロガーとか言われないようにね」
「私の活躍……」
「そっ。でも、その心意気は大切だと思うな。美穂のそう言うところに、ファンは惹かれているんだよ」
王道に近道なし。ブログでの交流も大切だけど、活躍しなくちゃ本末転倒だ。
「アイドルはみんなの憧れだ。ブログやツイッターの台頭で、その憧れとも気軽にコミュニケーションが取れるようになったけど、その全てが上手くいくわけじゃない」
「実際その手のブログではコメントを載せないってのも多いからね。それを否定するつもりはないけどさ。まぁ難しい所だな」
何が正しいか、私達には判断できない。もしかしたら、この先もっと良いツールや手段が生まれるかもしれないし。
今出来ることは、彼らの声を受けて前に進むこと。
「分かりました。私、直接ファンの声に答えることは出来ないかもしれませんけど、皆の期待を裏切らない様に頑張りますっ」
「いや、裏切っても良いんだよ。より良い結果を出せればね」
「……はいっ!」
小日向美穂、一期一会。私たちはまだまだ、始まったばかり。
708 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/02/26(火) 01:46:23.91 ID:ssI7i8cT0
今日はここまでです。長々と書いたけど、夢やらで全然話が進んでないですね
わくわくさんに関しては、素で和久さんと勘違いしていました。和久井さん推しの方、申し訳ございません
とときんの歌唱力と言い、あまり知らないアイドルを使うのは難しいです
次の投下は金曜日ぐらいになるかと。もしかしたら辛抱溜まらず投下するかもしれません。
読んでくださった方、ありがとうございました。
710 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします [sage] :2013/02/26(火) 02:09:26.25 ID:ZPB2GrjAO
乙乙
わくわくさんって呼ばれてるしその気持ちはわかる
とときんはゲーム化してるわけじゃないし別に上手い設定でいいと思うんだ
だけどプロ田にワロタ
713 : 12話 プラダを着たアクマ ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:12:27.42 ID:Bi81cavA0
『それではこれより、第○○回IA大賞授賞式を執り行います』
「み、見ている方も緊張しますね……」
「だな」
「はい、お茶でも飲みながら気楽に見ましょう!」
「ありがとうございます、ちひろさん」
陽気麗らかな4月。世間一般じゃ入学式や入社式と出会いのシーズンだ。
私はというと大学に進学せずアイドル活動に専念しているため、
出会いの春という定型文がいまいちしっくりと来ずにいた。
そろそろ後輩が出来てもいいんじゃないかと、密かに思っていたり。
他の業種も似たようなところだと思うけど、アイドル業界に携わる人からすれば4月は終わりと始まりの節目でもある。
というのも、栄えあるIAの授賞式が行われるのが4月なのだ。
テレビでは連日IAノミネートアイドルが引っ張りだこで、日本全国お祭り騒ぎ。
誰もかれもが浮かれて、あらゆる世代の人々がどのアイドルが受賞するかで盛り上がる。
ある意味この国が最も活気づく時期ともいえるだろう。
714 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:19:08.54 ID:hgCpXxDh0
今この瞬間の日本を沸かしているのが、私とそう年齢の変わらない男女というのもまた不思議な話だ。
うち一人は、隣のクラスの生徒。
『わ、私たちがここまで来れたのは、ひとえに応援してくださったファンの皆様のおかげです! 本当に、ありがとうございました!』
『え? 私の番ですか!? え、えーと……。すみません、特に考えていませんでした……』
「卯月ちゃんも愛梨ちゃんも、緊張していますね」
「日本中が注目しているからね。NG2ぐらいの売れっ子でも震えるってもんさ」
私の交友からは、今年度IA大賞最有力候補のNG2の3人と、今年度のダークホースと呼ばれる愛梨ちゃんがノミネートしている。
こんな凄い人たちと同じステージに上がったんだと思うと、私まで誇らしくなってきた。
『まずは部門賞の発表です。部門賞は、日本全国を5つのエリアに分けて、その地域で最も輝いたアイドルに与えられます』
「えっと、5つの地域って言うのは?」
説明を受けた気もするけど、昔のことなのでおさらいとして聞いておく。
「一応北東、中央、上方、西、南でブロックごとに分けて、そのブロックでの最優秀アイドルを決めるってことだね。トライエイトのうちの5つだよ」
「あっ、思い出しました」
715 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:23:38.01 ID:Bi81cavA0
私も仕事という名目で日本中のあちこちに行ったっけ。その積み重ねが賞に繋がるんだ。
『ではまず、南地域で最も輝いたアイドルに送られる、OCEAN BLUE賞の発表です! 受賞するアイドルは……』
『5番、New Generation Girls!』
アナウンサーが発表すると同時に、NG2の3人にスポットが当たる。
『へ?』
急にカメラを向けられて3人は一瞬何が起こったか分からないみたいにポカンとしたけど、
直ぐに自分たちが受賞したと分かると大きくガッツポーズをして喜びを表現する。
「やった! 卯月ちゃんたちですよ!」
「流石NG2だな。歴史上2度目の部門賞、大賞全取り行けるか?」
「2度目って……、それまでいなかったんですか?」
「うん。IAが出来てからの歴史で、全部門制覇したユニットは1つしか知らないな。それも俺が小学生高学年ぐらいの頃だし、10年近く出てないはず」
「しかもその頃は、ファーストホイッスルは前番組のオールドホイッスルだったし、トライエイトって言う概念も無かったんだ」
それを聞いてますます親友として鼻が高くなる。
716 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:29:16.82 ID:hgCpXxDh0
このまま彼女たちが新たな歴史を作るのか?
それとも他のアイドルが意地を見せるのか?
解説者みたいに番組を楽しんでるけど、私だって悔しい。本当はあの会場に行きたかった。
選ばれなかった多くのアイドルが思っていることだろう。
だからIUの予選は混戦激戦が予想される。みんな最高に輝けるチャンスを狙って必死になる。
私もそう。持てる力を出し切ってIUに挑みたい。
今度はNG2にも愛梨ちゃんにも勝利したい。
『さぁ、これまでNG2の3人が部門賞を独占しています。果たして、北東地域のSNOW WHITE賞も得ることが出来るのか? はたまた意外な展開が待っているか!? それでは、発表いたします』
『北東地域で最も輝いたアイドルは……、13番十時愛梨さんです!』
『ふぇ? わ、私ですか!? ええ!?』
「愛梨ちゃん! 愛梨ちゃんが受賞ですよ! 愛梨ちゃん秋田出身でしたもんね!」
愛梨ちゃん愛梨ちゃん! と興奮して連呼してしまう。プロデューサーも驚きを隠せないようで、テレビを食い入るように見ている。
「これは……、本当にあの子は化け物だな。NG2とデビュー時期が重なっていたら、どうなっていたか……」
愛梨ちゃんが受賞したことは嬉しい。だけど裏を返せばNG2の全部門制覇が途絶えたということだ。
一瞬映った彼女たちは愛梨ちゃんの受賞に拍手を送っていたけど、それでも3人とも悔しそうな表情を浮かべていた。
717 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:37:16.36 ID:Bi81cavA0
「NG2か愛梨ちゃんか……。大賞はどっちに渡る?」
「部門賞の数で決まるって訳じゃないんですね」
「うん。俺も詳しくは知らないけど、大賞は大賞で選考基準が違うみたいだ。だから部門賞を受賞出来ずに大賞を受賞したユニットだって少なくないんだよ」
成程、最後の瞬間まで分からないのか。
「部門賞はその地域のファンがカギとなる。大賞はそれだけじゃなくて、これまでの活動全部をまとめて評価する。きっとテレビに映らない部分も評価対象なんだろうな」
大賞を受賞するには、品行方正でなければいけないと言うことかな。
アイドルはみんなの憧れだ。良い行動も悪い行動も模範になってしまう。
だからこそ、私たちは常に気を付けていなくちゃいけないんだ。
「他の19組のアイドルにも十分チャンスはあるけど、今回はこの2組が突出している。ここから飛び出てくるのは難しいか?」
「どっちになるんだろう……」
『これにて部門賞の発表を終了いたします、引き続いて、本年度一番輝いたアイドルに送られる、IA大賞の授与を行います』
聞き逃すまいと聴覚をテレビに集中させて、瞬きもせずに画面に見入る。
会場を包む一瞬の静寂の後、司会者は口を開く。
『それでは、発表いたします。IA大賞を受賞いたしましたアイドルは……』
718 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:39:06.51 ID:hgCpXxDh0
『5番! New Generation Girls! おめでとうございます!!』
719 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:40:52.48 ID:Bi81cavA0
「NG2か! こりゃめでたいな」
「おめでとう卯月ちゃん、凛ちゃん、未央ちゃん!」
テレビの向こうに届くぐらいの拍手を2人して送る。ちひろさんが言うには、私とプロデューサーは似てきたらしい。
どっちがどっちに似たのかまでは教えてくれなかったけど、多分私が彼に似てきたんだろうな。
『え、えっと……。夢じゃない……んだよね?』
『うん。未央ちゃん、私たち……』
『やったよ、プロデューサー』
『それではIA大賞を受賞したNG2の3人のパフォーマンスをお楽しみください!』
今まで以上の歓声の雨の中、3人は最高のパフォーマンスを見せる。
1人では出来ないことも、3人なら可能になる、か。
なら私は、3人分頑張らないと彼女たちに勝てないということだ。
「美穂はさ」
「なんですか?」
「仲間が欲しいと思ったこと、ある?」
720 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 01:52:16.20 ID:hgCpXxDh0
祝福ムードから一転、神妙な顔つきで尋ねる。
「急にどうしたんですか。改まって」
「今まで1人で頑張って来たじゃんか。友達はいても、同じステージに立つ仲間じゃない」
「喜びも苦しみも分かち合える仲間がいれば、美穂も……」
そんなことを気にしていたのか。無い物ねだりをしても仕方ないと言うのに。
そもそも私に仲間がいないというのは大きな誤解だ。
「居るじゃないですか。目の前に」
「え?」
「1人より3人の方が、より輝けるかもしれません。ですが、私にはプロデューサーがいます。高め合えるライバルがいます。応援してくれる皆がいます。それだけで、私は頑張れるんです」
「だから、そんな顔しないでください。プロデューサーの困った顔は好きですけど、落ち込んだ顔はあまり好きじゃないですから」
「美穂……。そうだね。少しセンチメンタリズムになってしまったよ」
「ふふっ。今は、3人のパフォーマンスを見ましょう」
「だな。IUでは、彼女たちを超えなくちゃいけない。覚悟は出来ているかい?」
「はい。私負けたくないですから」
721 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 02:00:43.46 ID:Bi81cavA0
『ありがとうございました!』
パフォーマンスが終わり、3人は晴れやかな表情で壇上を降りる。
あの大舞台で歌えるなんてさぞかし気持ちが良いんだろうな。
『NG2の3人でした! ここで、彼女たちのプロデューサーにお話を聞いてみましょう』
『大賞受賞、おめでとうございます』
『ありがとうございます。彼女たちの輝きが、新たな時代を切り開いたということは嬉しく思いますね』
続いて壇上に上がったのはNG2のプロデューサー。卯月ちゃんの写メの通りプラダのスーツが決まっている。
「ふふっ、良く似合ってます」
ちひろさんも同じ意見みたいだが、不思議と嬉しそうにNG2Pを見ている。NG2よりも関心が強いのかな。
「プラダのスーツですか。NG2フィーバーの影響で売り切れそうだな」
「プロデューサーの服まで流行しちゃうんですか!?」
いくらIA受賞アイドルのプロデューサーとは言え、あくまで裏方なんじゃ……。
「NG2の仕掛け人! って文句で取材が殺到するだろうな。それにさ、美人だし。理想の上司ランキングとかに顔見せるんじゃない?」
722 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 02:07:14.86 ID:hgCpXxDh0
『ところで。これは見ている皆が気になっていることだと思いますが。これからの活動方針というのは?』
『惜しくも全部門制覇と行きませんでしたが……、夏にあるIU。その頂点に立ち、NG2は新たなステージへと上り詰めるとでも言っておきましょう』
『新たなステージ?』
『はい。PROJECT SOUTHERN CROSS。現段階ではお話出来ませんが、IU優勝のトロフィーを持って皆様に続報を提供することになるでしょう。その時を、お楽しみください』
『なんとも強気な発言ですね! PROJECT SOUTHER CROSS、気になりますね! 続報とNG2の活躍に期待しましょう!』
「サザンクロス、どういう意味なんだ……?」
「プロデューサー?」
「あっ、うん。何でもないよ」
嘘だ――。プロデューサー、貴方は自分が思っている以上に嘘が下手なんですよ?
彼の嘘は優しさの裏返しなのに、私はどうしてもその裏にある何かを邪推してしまう。
「さぁ、番組も終わったし。今日は帰ろうか」
「そうですね。明日も朝から仕事が有りますし。お疲れ様です」
「お疲れさん」
とは言え、心配よりも親友たちの大躍進の方が嬉しかったわけで。
事務所を出てバスに乗るころには、さっき見た彼の複雑な表情はすっかり忘れてしまっていた。
723 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 02:14:25.01 ID:Bi81cavA0
――
「PROJECT SOUTHERN CROSS、か……。無視できないな」
IAの中継も終わり、事務所で残った仕事を片付けながら呟く。
気にしないようにしていたけど、こうも大々的に言われると気にするなという方が無理だ。
既にネット界隈では、その言葉がどういう意味なのか議論が繰り広げられているようで、スレッドも乱立している。
>新ユニット結成か?
「これ、だろうな」
その答えに行きつくことは決して難しくなかった。NG2PはIU優勝を手土産に、新たなプロジェクトをスタートさせる。
そう考えるのが妥当だ。むしろ他の答えが出てこなかった。
「じゃあ美穂は……なんなんだ?」
松山久美子
神谷奈緒
小日向美穂
それとちゃんと読めなかったけど、2人の名前
凛ちゃんのメモ帳に書かれたアイドルたち、それとPROJECT SOUTHERN CROSS。
その2つが重なる時、俺たちは選択を強いられることになる。
例えそれが俺と美穂を引き離すことになっても――。
727 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 19:27:27.91 ID:IUil+3EI0
――
「『私……ずっと貴方のことが…!』うーん、違うかなぁ……」
レッスンスタジオ近くの公園の木陰で、台本片手に私は悩んでいた。
『今度さ、ドラマのオーディションが有るんだ。受けてみない?』
と彼に言われるままに承諾したが、台本をめくってみると今時珍しい位のストレートなラブストーリーだった。
セリフの1つ1つがド直球で、愚直なまでに恥ずかしいワードのオンパレード。読み進めるたびに私は恥ずかしさにさいなまれていった。
どうやら一昔前の少女漫画の実写化らしく、仕方ないと言えば仕方ないのかな。
『えっと、馬で登校するんですか?』
馬も学生というよく分からない世界だけど、少女漫画ってそう言うものだしね。
Naked Romanceを歌った人が何泣き言を思われるかもしれないけど、今回は相手役がいるんだ。
オーディションはセリフを言うだけだったので、恥ずかしいなぐらいで済んで合格したから良かったものの、
一度カメラが回れば至近距離に相手役のイケメンアイドルの顔が来るわけで。
728 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 19:31:46.56 ID:HX5V8y7T0
「緊張しちゃうなぁ……」
撮影はまだだけど、覚悟しておかないと撮影を何度も中断させてしまいそうだ。
「よしっ。もう一回読んでみよう『私……ずっと貴方のことが……!』うーん、告白なんてしたことないから、よく分からないなぁ。好きな人に向けて、か……えへへ……」
「そんなに頬を緩ませてどうした美穂?」
「はっ! プロデューサー……み、見ました?!」
「何のこと?」
「な、なら良いです!」
良かった、聞かれてなかったみたい。
「えっと、プロデューサーはどうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも。時計見てみ」
「えっと、14時7分です」
「レッスンの時間だよ?」
729 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 19:37:30.31 ID:IUil+3EI0
「へ? あっ、本当だ!」
台本を読むことに夢中で、レッスンのことを完全に失念していた。今頃トレーナーさんの頭には角が生えていることだろう。
一気に全身の血が凍っていくような感覚に囚われる。本能的に私はまずいと感じ取っていた。
「台本に夢中だったみたいだし、あまり強くは言えなかったけどさ。何、トレーナーさんには俺からも謝るよ」
「その……、すみません」
「まあ少し遅れるって連絡しておいたから、焦らなくても大丈夫だよ。えっと、この後のスケジュールは……あっ」
捲られたスケジュール帳から、ふわりと白い羽が落ちる。
「この羽……! 私の頭についていたやつですか?」
「うん。俺たちが初めて会った日に拾った白い羽だよ」
あの日のことは今でも夢に見る。陽だまりのバス停で眠る私の頭に降ってきた白い羽、私を膝枕する彼、アイドルへの誘い。
寝ていて知らないはずの光景でも、夢の中の私は知っている。それがなんだか羨ましかった。
「何となくさ、お守りみたいにずっと持ってるんだ。あの頃の気持ち、忘れない様にってさ。栞にもちょうどいいし。あっ、勿論綺麗に洗ってるよ?」
730 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 19:42:47.40 ID:HX5V8y7T0
あれから何ヶ月が経っただろう。ひとり暮らしにも慣れて、自炊もなんとか出来る様になって。
そう言えば――。
「私、お弁当作ったことないです」
「ん?」
「あっ、いやっ、その……。レッスン場に急ぎましょう!」
「おっと! そうだった! 走るよ、美穂!」
お母さんは冗談めかして言っていたけど、私も彼にお弁当を食べて貰いたいなと思っていた。
学生生活とアイドル活動が忙しく今の今まで作れなかったけど、学生生活が終わったので少しだけ時間に余裕が出来た。
ここは1つ、何時も頑張ってくれている彼に感謝の気持ちを込めてお弁当を作ってみようではないか。
「しかし、腹が減ったなぁ。後でなんか買っとくか」
プロデューサー、基本的に外食かコンビニの弁当で生活しているみたいだし。
多忙な生活で仕方ないかもしれないけど、栄養が偏りすぎるのも困り者だ。
なんだか私、お母さんみたいなこと考えてるな。それならば彼は子供だ。素直だけど手のかかりそうな子供。
731 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 19:51:32.37 ID:IUil+3EI0
時間があれば彼を相手にドラマの練習をしたかったけど、そんな暇はない。
「っと!」
「プロデューサー、負けませんよ!」
「おっ? やるか? 臨むところだ!」
春の香りが鼻をくすぐり心地良い陽光を浴びながら、私たちは全力で駆け抜ける。
この後のレッスンはダンスレッスンだというのに、そんなこと知ったこっちゃないと言うように。ばてたらばてたでその時は謝ろう。
こうやって2人並んで皇居外苑を走ったことも、へばって倒れそうになったことも今では良い思い出だ。
あの頃は右も左も分からずにがむしゃらに頑張って来た。それは今でも変わらない。
「ゴ、ゴール……」
「ぜぇぜぇ……。足速くなったな、美穂」
「プロデューサーこそ」
「何がゴールですか。そこの2人、レッスンに遅れても青春する余裕はあるみたいですね」
レッスン場の床に倒れこむ私たちを見て、トレーナーさんは呆れたように言う。
その後、いつも以上にスパルタなレッスンが待っていたのはまた別の話。
732 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 20:01:55.82 ID:HX5V8y7T0
「えっと、こんな感じかな?」
始めて作ったお弁当は見てくれこそイマイチだけど、味はまぁ大丈夫だと思う。
眠たい眼を擦りながら作ったので、味付けを間違えてないか心配だったけどこれなら大丈夫かな。
肉じゃがの味付けも彼好みの濃い目だ。これは自信がある。
「驚くかな? ふふっ」
困った顔で受け取る彼の姿を想像するだけで、私の心は軽くなる。
『お昼ご飯買わないでくださいね』
メールを送るだけでも躊躇したけど、一度送ればもうどうってことは無い。今日も1日良い日でありそうだ。
「行って来るね、プロデューサーくん」
「行ってらっしゃい」
子供っぽい声でアフレコしてみる。さぁ、靴を履いて今日も頑張ろ……。
「あれ?」
履こうとしたら靴底がめくれて穴が開いていることに気付く。昨日までこんなことなかったのに。
733 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 20:18:54.49 ID:IUil+3EI0
「ショックだなぁ……」
熊本にいたころからのお気に入りのシューズで大切に扱ってきたつもりだったけど、どうにも寿命が来ちゃったみたいだ。
仕方ない、ちゃんと供養してあげないと。
「はぁ、ツイてないよ」
仕方なしに、いつもと違う靴を履いて事務所へ向かう。
「うーん、やっぱり何か違うな」
本当に些細なレベルだけど、いつもと違う履き心地にどうしても違和感を覚えてしまう。
「同じ靴売ってるかな?」
今日のスケジュールが終わったら、買いにでも行こう。
「プロデューサーを誘って!」
そうだ、彼にも見て欲しいな。靴だけじゃない、服を選んでもらおう。
アイドルとしての私だけじゃなくて、1人の女の子の私も知って欲しい。そう思うと憂鬱な気持ちは消えてなくなる。
「えへへ……」
これが怪我の功名ってやつかな?
734 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 20:30:18.94 ID:HX5V8y7T0
――
「ふぅ……」
「どうかしましたか、プロデューサーさん」
「いや。少し考え事をしていたんです」
「考え事ですか?」
「はい。NG2の事務所に有力なアイドルが移籍している話、知っていますか?」
「えっと、松山さんと神谷さんでしたっけ?」
「はい。どちらも最近力をつけてきた新気鋭のアイドルなんですが、電撃移籍をしまして。それも2人ともNG2の事務所に行ったんです」
うちと規模があまり変わらなかったNG2の事務所だが、凛ちゃんたちの活躍と敏腕Pの金策が上手く行ったのか、
何時の間にやら大規模な会社へと発展していった。
前にあった公開新人オーディションも150人を超えた応募があったみたいだし、今一番勢いのある事務所というのは疑いようのない事実だ。
とは言え、我が事務所も指を咥えて見ているわけじゃない。近いうちに新人アイドルオーディションを行うことになっているのだ。
流石にNG2の事務所に比べると規模は劣るも、美穂の活躍もあって結構な応募が来ている。
735 : ◆CiplHxdHi6 [sage] :2013/03/01(金) 20:35:12.62 ID:IUil+3EI0
「オーディションに合格した子は確か……、五十嵐響子さんって言ったかな?」
記憶が正しければ、サイドポニーの女の子だったはず。普通のオーディションではなく公開オーディションと言うあたり、これから事務所も推してくるだろう。
「大々的にテレビでも放送していましたしね。IA受賞と言う看板は私たちが思っている以上の効果があるみたいです」
「ええ。1、2ヶ月でここまで力をつけるなんて、普通の手段じゃまず無理です」
当然事務所を大きくするに際して所属アイドルを充実させるために他社から引き抜きということも有るのだが、この2人に関しては引っ掛かりを憶えていた。
「この2人、美穂が合格したファーストホイッスルのオーディションに参加してたんですよ。その時、凛ちゃんが書いていたメモ帳に書かれていたのが、この2人なんです」
「メモ帳ですか?」
あの時はまだ疑惑程度だったけど、彼女たちが動いたことで確信へと変わった。
3人目は……美穂だ。
「はい。PROJECT SOUTHERN CROSS。IA授賞式でプロデューサーさんが言っていた言葉なんですけど……」
「……」
「ちひろさん?」
736 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 20:38:49.38 ID:HX5V8y7T0
「あっ! すみません、ボーっとしてました!」
「熱が有るとか?」
「いえ! 何でもないですよ!」
何でもないとは言うものの、ちひろさんはその言葉を聞いて複雑そうな表情を浮かべていた。
いつも笑顔を浮かべてきびきびと仕事をし、一度たりとも油断を見せなかった彼女が見せた一瞬の憂い。
もしかして、ちひろさんはこのことに関して何か知っているのだろうか?
「ちひろさん、貴女は」
「あっ、電話が。失礼しますね!」
「っと」
肝心なことを聞こうとすると、邪魔するかのように事務所の電話がけたたましく鳴りちひろさんは対応に追われる。
「気にし過ぎかな……」
電話の邪魔にならない様に作業に戻る。そろそろ、美穂も来るころだ。
お昼ご飯買わないでくださいとメールが来たけど、どういうことだろうか。外食をするってこと?
737 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 20:43:54.51 ID:IUil+3EI0
「お電話ありがとうございます! シンデレラプロです! えっ? はい、お久しぶりです。プロデューサーはいますけど……。分かりました、お待ちしております」
「知り合いですか?」
「はい。知り合いと言うよりかは……どう説明すればいいんでしょうね。とにかく、プロデューサーにお客さんです」
「俺にですか?」
誰だろう。アキヅキさんとかかな?
「失礼します」
急な話だなと考えていると、相手方はすでに事務所の中に入っていた。
プラダのスーツを身に纏い、クールな立ち振る舞いの彼女は、今日本で一番有名なプロデューサー。
「貴女は……、NG2のプロデューサー」
「ええ。よくご存じで」
テレビで見たことは有ったけど、実際にこう目の当たりにするのは初めてだ。
NG2との仕事でも、タイミングが合わないのか会ったことは無かったし。
738 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:12:20.40 ID:HX5V8y7T0
「IA制覇の裏の立役者ですよ? この業界の人間で、貴女のことを知らない人はいないと思いますけど?」
「私も有名になったものですね。あの頃と大違い。皮肉な話です」
「あの頃?」
「小日向さんはいないみたいですね」
意味深なことをぼやき1人感傷に浸っているけど、どうやら俺の疑問に答える気はないらしい。
「ええ。もうすぐ来るかと思いますが」
時計を見るとお昼前。いつもなら今日の昼ごはんを考えているころだけど、今はそれ所じゃない。
「まぁ良いでしょう。ちひろ、失礼するわよ」
「はい、お茶用意しますね」
「貴女も事務員姿が絵になって来たわね。お似合いよ」
「褒め言葉として受け取っておきますね。センパイも様になってますよ! どうぞ」
「ありがとう」
さっきの電話の主がNG2Pだとすれば、ちひろさんとは知り合いということになる。
それを裏付けるかのように、彼女もちひろさんの前ではホンの少し表情を緩めているし、ちひろさんもセンパイと親し気に呼んでいる。
739 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:17:37.80 ID:HX5V8y7T0
「ちひろさん、お知り合いなんですか?」
「ええ。私のセンパイなんです」
「センパイ? 事務員仲間ですか?」
「いえ、そう言うんじゃないんですけど……」
「まぁ、それは今は関係ありません。本日はビジネスのお話しで来ましたので」
その話題は聞かれたくないみたいだ。後でちひろさんに聞いておこう。
「ビジネス? そう言うのは社長の方が」
「いえ。用が有るのは、あなたと小日向さんです。それにデレプロの社長は、決定権を貴方達に委ねるでしょうし」
「俺と美穂、ですか?」
ここまで言われて俺の中で嫌な予感が駆け巡る。ずっとずっとこうなるんじゃないかと恐れていたことだ。
そして残念なことに、悪い予感は外れて欲しいと願った時に限って見事的中してしまうのだった。
「ええ、単刀直入に言いましょう」
740 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:18:47.25 ID:IUil+3EI0
「小日向さんを我がプロダクションに引き抜きたい」
741 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:23:51.33 ID:HX5V8y7T0
「何ですって?」
覚悟していたとはいえ、ストレートすぎる物言いに一瞬たじろいてしまう。
「PROJECT SOUTHERN CROSS。新時代を切り開くアイドルユニットの最後のメンバーに、小日向さんの力が必要なんです」
「一体なんなんですか、そのサザンクロスってのは。IAでも意味ありげに言って、他事務所から有力なアイドルを引き抜いて。貴女は何がしたいんですか」
「さっきも言った通りです。私たちが目指すのは、アイドルの新時代。ヒダカマイ、876、1052、ジュピター、そして765プロ」
「過去の伝説たちが残してきた記録を超え、新たな伝説となるユニット……」
「それがPROJECT SOUTHERN CROSSってわけですか」
「ええ。まあ正式名称は長いので、サザンクロスって呼んでくれて構いません。イチイチプロジェクトってつけるのも億劫なので」
「NG2はその序章に過ぎません。彼女たちは、私が想像していた以上の結果を出してくれました。全部門制覇まであと一歩という所で、十時さんに持って行かれたのは、本当に惜しい話ではありますが……」
「残すはIU制覇。それを終えて、心置きなく次のステージへと向かうことが出来ます」
先の引き抜かれたアイドルも、サザンクロスのメンバーということになるのだろう。
となると、凛ちゃんのメモも意味が生まれてくる。あれは品定めをしていたんだ。
新たな伝説を作るにふさわしいメンバーかどうかを。
742 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:33:20.11 ID:IUil+3EI0
あのページに書かれていた松山さんと神谷さんは、彼女のプロダクションへと引き抜かれた。
相手は天下のNG2のプロダクションだ。決して悪い話じゃない。むしろまたとないビッグチャンスだ。
恐らく今の俺と同じような説明を受けたのだろう。伝説を作るなんて妄言と捉われかねないが、それすらも実現させることが出来る環境が、彼女たちにはあった。
「仮に美穂をそちらのプロダクションに預けるとして。その場合どうするおつもりで?」
もちろん預ける気などさらさらない。彼女をトップに導くのは、俺の仕事だ。そう誓ったじゃないか。
「断言するのはまだ早いのでは? まあ、良いでしょう。もちろん無償というわけじゃありません」
「お金、ですか」
「いいえ。それ以上の価値があるかと。尤もいくらお金を積んだところで、貴方は認めないでしょうし。ですから、もっと価値のあるものを用意しました」
「小日向さんを我がプロダクションに預けていただけた場合、デレプロのプロデューサーに、私の持つハリウッド行きのチケットを譲るとしましょう」
「なっ!?」
今ハリウッド行きのチケットを譲るって言った? 業界人にとっちゃ喉から手が出るほど欲しいような代物なのに、
その権利を放棄するだなんて。この人どういうつもりだ?
743 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:40:05.20 ID:HX5V8y7T0
「放棄って、そんなことが出来るんですか?」
「飽くまで与えられたのは権利です。義務ではありませんし、行使しないという選択もありますよ」
尤も、そんな物好きなプロデューサーは今までいなかったみたいですがと小さく付け加える。
当たり前だ。IA協会から出資金も出るし、何より向こうはショービジネスの本場だ。
毎日が刺激と興奮の連続で、研修を終えて戻って来たプロデューサーたちのインタビューも実にタメになるものばかりだった。
「本当に物好きな人ですね」
「海を越える理由もありません。私はこの国でやり残したことが有りますので。それに、そちらにとっても悪い話じゃないと思いますが?」
「サザンクロスは最高レベルのレッスン環境とスタッフを用意しています。今所属している事務所がいくら儲かったとはいっても、赤字は覚悟の上ですが、それ以上の経済効果は十分に見込めます」
「今までソロで活動してきた彼女にとっても、仲のいいNG2の3人をはじめ、レベルの高いアイドルたちと共に、最高の環境で活動が出来る。それは魅力的な話じゃないですか?」
確かに悪い話じゃない。彼女にどのような目的があるか知らないが、俺はハリウッド行きの権利を得ることが出来るし、
美穂も今以上にレベルの高い環境で活動出来る。
テレビでやっていたNG2特集で見たレッスンは非常に高水準なもので、美穂も圧倒されていた。
向こうの事務所も、ホンの少し前までうちとそんなに変わらなかったはずなのに、いつの間にか大きなビルを建てて、
社内にエステルームやサウナ室、果てにはカフェテリアまで用意していた。もはや一種の娯楽施設だ。
悔しいが、今の俺たちではあそこまでの環境は用意出来ない。金もコネもありゃしないのだ。
744 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:42:36.76 ID:IUil+3EI0
「ですが……」
「どうでしょうか? そちらにとって、マイナスはないはずです。理想的なWin-Winの関係だと思いますが?」
「勿論小日向さんを引き抜いて飼い殺しにするなんて無粋な真似はしませんよ。貴方と同じように、私達も彼女の可能性に賭けてみたいと考えているんです」
「……」
「まあ困惑するのも無理は有りませんね。何分急な話で、油断していたのでしょう。出来ればこの場に、小日向さんもいてくれれば良いんですけどね」
彼女の言葉に嘘はないだろう。口ぶりや態度こそ冷淡に感じるものの、NG2の成長を誰よりも喜んでいた彼女なら、
美穂も大切に育ててくれるはずだ。
移籍と言っても悪いことじゃない。寧ろ前向きな交渉だ。
美穂の未来を思えばどうすべきか一目瞭然。悩む理由など、どこにもないだろ。
なのに。なのに俺は……。
「断る……」
「? 今何と言いましたか?」
「ことわ」
「そこまで。熱くなりすぎだよ」
「社長! それに、美穂……」
「プロデューサー。その、聞いてしまいました……」
聞こえるかどうかの小さな声で言うと、申し訳さそうに下を向いた。
745 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:50:12.68 ID:HX5V8y7T0
――
「小日向さんを、我がプロダクションに引き抜きたい」
「え?」
お弁当片手に事務所のドアを開けようとしたとき、中からそんな言葉が聞こえてきて、私の動きは止まってしまう。
「どういう、こと?」
ドアの向こうから聞こえてくる、プロデューサーと女の人の声。
相手は誰か分からないけどその声はとても冷たくて、4月というのに肌寒さすら感じていた。
「プロデューサーがアメリカに? 私を引き抜く? サザンクロス?」
次から次へと断片的に聞こえてくるワードが私の不安を煽っていく。
蚊帳の外。その表現がしっくりと来た。
言葉を集めていくうちに、相手がNG2のプロデューサーさんということが分かって来た。
なるほど、どこかで聞いたことある声だなと思ったわけだ。
NG2のプロデューサーはハリウッド行きの切符をプロデューサーに譲渡する代わりに、私をプロダクションへ引き込む。
シンプルな取引だ。
746 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 21:52:52.88 ID:IUil+3EI0
「どうして?」
どうして私なんだろうか。もっと他にも魅力的な女の子がいるはずなのに。
「小日向くん、どうしたのかね?」
「あっ、社長。その……」
聞き耳を立てることに夢中になって、社長が事務所に入りたそうにしていることにも気付けなかった。
「おや、誰か来ているのかい?」
ドア越しの会話が漏れてきて、社長も状況を把握したみたいだ。
「多分、NG2のプロデューサーさんです」
「ほう。彼女が……。何年ぶりになるのかな」
「彼女? お知り合いなんですか?」
「知り合い、か……。それならば君と彼も、知り合いと言う関係になるのかな?」
「えっ?」
その言葉の意味が分かったのは、数分後のことだった。
747 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:07:42.68 ID:HX5V8y7T0
「さぁ、入ろう。春と言っても、まだ風は強いからね。油断していると風邪をひいちゃうよ」
そう言うと社長は事務所のドアを開ける。理解が追い付かないまま、私も事務所へと入る。
事務所の中には涼しげな表情のNG2Pと、悔しそうに歯を食いしばるプロデューサー。2人をちひろさんが心配そうに見つめていた。
「――」
「? 今何と言いましたか?」
「こと」
「そこまで。熱くなりすぎだよ」
「社長! それに、美穂……」
私たちの顔を驚いたように見る。彼にとっては、この話は私に聞かれたくないことだったのだろう。
「プロデューサー。その、聞いてしまいました……」
虫の羽音の方がまだ大きいと思えるぐらいの声しか出ず、目を逸らしてしまう。
748 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:15:16.84 ID:IUil+3EI0
「しかし……久し振りだね。IA大賞受賞、おめでとう」
「ええ、お陰様で。尤も、私がしたことなど微力なものです。大賞を勝ち取ったのは、彼女たちの力ですよ」
「君が彼女たちを正しく導いたからこその結果だよ。願わくば、君たちがアイドルの時に貰いたかったものだが」
「へっ? 社長……。まさかさっきの言葉」
私と彼女が知り合いならば、君と彼も知り合い――。同じだったんだ。
「うむ。彼女と、ちひろくんは、私が昔プロデュースしていたアイドルだったのだよ」
「えっ? 社長、今何と?」
プロデューサーは社長の言葉が信じられないといったように、ポカンと開いた口が閉まらないでいる。
かくいう私もだ。NG2Pは社長の言葉で分かったけど、ちひろさんもだったなんて。
きっと私も彼みたいに間抜けな顔を晒していることだろう。
「ア、アイドル!? 彼女と、ちひろさんが? 初耳でした……」
「プロデューサーさん。今まで黙ってて申し訳ないんですけど、私元々アイドル候補生だったんです。社長がプロデューサーで、ユニットを組んでいたのが」
「うむ。彼女だよ」
749 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:19:58.27 ID:HX5V8y7T0
「まあ知らなくても無理はないでしょう。夢を見たものの、私たちは叶えることが出来ませんでした。私たちは、憧れのステージに上がることなく終わったんですから」
「そうだったんですか……」
「だけどその経験はプロデュースに大いに役立ちました。NG2をはじめ、私のプロデュースしてきたアイドルに、同じ踵を踏んでほしくないですからね」
「形は違えど、ファーストホイッスル出演、IA制覇という夢を叶えることは出来ましたから」
NG2Pは寂しそうに語るも、その眼は光に満ちていた。NG2の3人は彼女から夢を託されていたんだ。
「しかし、一体どういう用件かね? 私は途中から来たから話が読めないんだが……」
「ちょうどいい。小日向さんも居ますし、もう一度言わせていただきましょう」
「私たちの進めるプロジェクトに、小日向さんもメンバーの一人として参加していただきたい。早い話、引き抜きです」
「私を、ですか」
「ええ。他ならぬ小日向さん、貴女です」
「それがサザンクロスだね」
「ええ。その通りです」
「でもそれでは、君はアメリカに……。ああ、そうか。忘れていたよ。君はアメリカに行けないんだったね」
750 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:22:55.00 ID:IUil+3EI0
「えーと、どういう事ですか社長?」
「そ、その話は今は不要ではないでしょうか?」
さっきまでの余裕はどこへやら、『アメリカに行けない』と言われて、NG2Pは突然狼狽え始めた。
それをちひろさんはニコニコと見ていて、社長も相手の弱みを握ったかのように、嫌な笑みを浮かべている。
「彼女はね、この国を出ることが出来ないんだ。だから、ハリウッドにも行けない」
「はい? この国を出ることが出来ないって、鎖国してるんですか?」
「どういう意味ですか?」
「それ以上はいけない!」
必死な形相の彼女を無視して社長は続ける。
「ああ、彼女はこう見えてね」
「こう見えて?」
「ストーップ! 冷静になりましょう! ここは1つ、まぁ眼鏡どうぞ!」
そして私たちは知ったのだ。彼女の衝撃の真実を――。
752 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:27:16.84 ID:d/YGMK210
「飛行機恐怖症かつ、船舶恐怖症。どうやらまだ治っていなかったみたいだね」
「はぅっ!」
753 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:30:49.95 ID:IUil+3EI0
「なんだ、相変わらずなんですね。あの頃のこと思い出しちゃいますね、社長」
「ああ。沖縄で仕事が入ったのに、彼女は飛行機も船も怖いからと嫌がって……」
「あ、あんな鉄の塊が空を飛ぶなんてむーりぃーって……」
「ストップ! それ以上は止めてください! ちひろも悪乗りしないでー!」
クールで理知的な彼女はどこへやら。恥ずかしい過去と秘密を暴露されそうになって、涙目で止めようとしている。
そんな彼女の姿に、不覚にも萌えてしまったのは秘密だ。
「つまり貴女は、アメリカに行くのが怖いけど、それを知られたくないから日本で新たなプロジェクトを発足した、と。権利も誰かに譲渡すれば問題ないみたいですし」
「そんな単純なことではないだろうが、まぁ要因の一つだろうね。特に彼女の飛行機恐怖症は相当なものだったよ」
「意地でも乗ろうとしませんでしたもんね。何でも良く分からないトラウマが有るとかで。なんでしたっけ?」
「か、勘違いしている様なので! この際はっきりと言わせてもらいますが!」
想い出話に花を咲かせる2人を遮るように、聞いたこともないような大声で叫ぶ。よっぽど知られたくなかったんだろうな。
「私は飛行機とか船が怖いからなんて理由で、日本に残りたいわけじゃありません! この国で出来ることを最大限したい、それだけです!」
754 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:40:15.70 ID:d/YGMK210
「そらほんなこつな(本当かよ)」
プロデューサーは信じていないのか、思わず方言が出てしまっている。そう言えば彼の方言って初めて聞いたかも。
「信じて貰えないならそれでも結構です! ですがアメリカに行くことよりも、この国で活動することにこそ意味が有ると考えているのは事実です」
「なるほど、それで小日向くんを……」
「ええ。どうやらプロデューサー殿は良い顔をしていないみたいですが」
「当たり前です!」
「そう、怒らないでください。取引はクールに行きましょう」
さっきまでの彼女は無かったことにしたいようだ。緊迫した状況なのに、ギャップのせいで彼女が可愛らしく思えてくる。
「2人とも。どれだけアピールしたところで、最終決定のボタンを押すのはほかでもない彼女だよ」
社長は私に目配せする。どうやら私の意志を曲げてまで引き入れさせる気はないみたいだ。
「仕方ありません。今日のところは引き揚げさせてもらいましょう。ですが、最後には双方にとって最良の結果が訪れる。私はそう確信しています」
そう言い残して、NG2Pは事務所を出る。残された私たちは、その姿を只々見続けることしか出来なかった。
755 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:44:20.18 ID:IUil+3EI0
――
「しかし、弱りましたね……」
「うむ。引き抜きたいというのは、それだけ彼女を評価しているということだ。実に誇らしいことではあるが」
「納得しろって言われて出来るものじゃありません」
彼女の言いたいことは分かるけど、分かりたくなかった。さっきも社長が止めなければ、俺は断っていただろう。
俺たちからすれば、彼女は分かりやすいぐらいの悪役だ。それと同時に彼女の夢と野望からすれば、俺も悪役でしかない。
要は見方次第。俺にしろNG2Pにしろ、最良の結果を求めているだけの話だ。
でも今の俺は、美穂との別離を認めたくない余り、その事実を受け入れようとしなかった。
彼女を一番上手にプロデュースできるのは俺だ、トップアイドルに導くって約束したじゃないか。
何度もそう自分に言い聞かせて、現状から逃げていた。
悲劇のヒーローを気取っていたのだろう。全く、情けない。
今のままじゃロジカルな思考は出来そうになかった。感情だけでどうにかしていい話でもない。
ちゃんと冷静に考えないと。
756 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:50:23.75 ID:d/YGMK210
「センパイは、私たちの叶えることが出来なかった夢を、今を生きるアイドルに託そうとしているんです」
「きっと今日まで、その思いで頑張って来たんだと思います」
「ちひろさん……」
「センパイのこと、悪い人だと思うかもしれません。あの人は、どうしようもなく不器用なんです」
「すみません、どうしてアイドルを辞めちゃったんですか? あれだけ夢を叶えたいと思っていたのなら……」
誰かが夢を叶えることが出来たなら、誰だって夢を叶えることが出来るはず。美穂の持論だ。
だから美穂の眼には、あれほどの意欲を持つNG2Pがトップアイドルになれなかったことが不思議に映っているのだろう。
美穂はまだ、大人の事情を知らない。生まれたての子供みたいに純粋だ。
服部さんも帰ってくると信じているし、IU制覇という夢に向けて日々活動している。
俺は最初から、美穂のことも、美穂の夢だって叶うと信じている。
だけどそれは、根拠のない詭弁なんだ。美穂はもはや普通の女の子じゃない。
美穂は、特別な存在なんだ。
757 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 22:56:20.44 ID:IUil+3EI0
「どうしようもなかったんです」
「えっ?」
ちひろさんは泣きそうになりながらも続ける。
「これでも、私たちは精力的な活動をしていたんですよ。ローカルテレビだったり、小さな仕事の連続でしたがそこそこ売れて、このまま頑張れば夢も叶うんじゃないかって。3人とも信じていました」
「ですが……、センパイはケガをしたんです。最初は小さな違和感だったかもしれません。私たちにそんなことおくびにも見せませんでしたから」
「だけど、無理をおして活動して……。気づいた時には、彼女のアイドル生命は断たれていたんです」
「そんなことが……」
「そしてそのまま私たちは表舞台からフェードアウトしました。珍しいことじゃないです。この業界のサイクルなんですから」
私1人じゃ何もできなかったんですよ。ちひろさんは自嘲するように付け加える。
「それから何年が経ったんでしょうか? プロデューサーが会社を設立したと聞いたのは今年の夏のことでした。わざわざ私の働いていた職場まで押しかけて来たんですよ?」
「それまでこの業界から離れて普通の女の子として過ごして、普通に社会に出ていましたが事務員としてアイドルの皆をお手伝いして欲しいと。そう言われて」
「最初は戸惑いました。だけどセンパイがプロデューサーとしてあの日の夢に決着をつけようとしていたことと、もし私の力で誰かの夢を叶えることが出来るなら。そう思って入社しました」
入社して半年ほどが立って、ようやく彼女のことを知ることが出来た。
もしNG2Pが来なければ、知ることもなかったのかな。
758 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 23:00:48.67 ID:d/YGMK210
「でも私は後悔していません。決して恵まれた活動ではなかったですけど、私たちが輝いていたあの頃は、お婆ちゃんになっても忘れることが出来ると思えませんから」
「そう言ってもらえると、私も救われた気持ちになるよ」
「社長は、いえプロデューサーは私たちにとって最高のプロデューサーですよ」
「ありがとう。君たちも私にとって最高のアイドルだ」
誰にでもドラマはある。大きかろうが小ささかろうがその人にとっては、ダイヤモンドよりもキラキラとした記憶なのだ。
「さて。懐かしい話はこの辺にして。これからのことを考えるとしよう。社内ミーティング、こう全員で行うのは、初めてだったね」
社長はおどけるように言うけど、それでも目は笑っていない。何時になく真面目な表情に、俺の気持ちも引き締る。
懐かしい思い出と、今俺たちの目の前に聳え立つ問題は別の話だ。
「小日向くん、正直な話を聞かせて欲しい」
「正直な話ですか……」
困惑の二文字が、美穂の可愛らしい顔に書かれる。
759 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 23:06:44.84 ID:IUil+3EI0
「うむ。こればっかりは、大人が決めることじゃないからね。責任を押し付けているようで悪いが、君には最良の選択をしてほしいんだ」
「急に言われても、混乱しちゃいます……」
「無理もないか。君のアイドルとしての運命を大きく変える事態だからね。幸い時間はまだ有る。恐らく彼女がプロジェクトをスタートさせるのは」
「IU直後。NG2の優勝が、その合図だろう」
俺もそうだと考えている。IU制覇を果たしたアイドルが、新たなユニットを組んで連覇を目指す。
当然世間の関心も高くなるだろう。
おまけに新たに加わるメンバーも、美穂をはじめとしてファーストホイッスルに出演したような実力者ばかり。
伝説を超えると豪語するにふさわしい布陣だ。
「我が社の現状も説明しておこう。今週末だが、アイドル候補生オーディションを行うことになっている」
「オーディションですか?」
「ああ。だからその日は美穂のスケジュールはオフになっている。俺は審査をしなくちゃいけないけど」
「縁が有って入社してもらうアイドルには当然プロデューサーも必要だ。これは今探しているところだよ」
「後輩アイドルが出来るんですね」
少しだけ美穂の表情が緩む。やっぱり同じ事務所の仲間が欲しかったんだろう。
「そうなるね。本来なら俺は美穂の担当と新人Pの指導、新人Pが後輩アイドルをプロデュースするという方針だったんだ」
760 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 23:16:21.90 ID:d/YGMK210
「だけどNG2Pの介入……、って言うと言い方が悪いけど、彼女のプランに乗った場合は」
「小日向くんはサザンクロスへ、彼は新人プロデューサーの研修とアメリカ行きの準備をすることになる」
「すぐにアメリカに行くわけじゃないんですね」
「ああ、そうみたいだ。そういや服部PもIAノミネートアイドルのプロデューサーだ。彼もアメリカに行くのかな」
服部さんとのことは解決したのだろうか。一度連絡を取ってみよう。
「アメリカに行くのはIUの終わった後だね。それまでは他のプロデューサーもIUに向けて活動しているだろうし」
「じゃあ夏までってことですか」
「だな。ちょうど9月か10月になるはずだ」
奇しくも美穂と初めて出会った季節だ。
「以上がこの事務所の今後の方針だね。彼女はどういう方針を立てているかまでは分からないが、近いうちにアプローチが有るはずだ」
彼女の性格なら今日にでもしかけてきそうだな。
「小日向くん。これだけは約束して欲しい。決して焦らないで自分自身のために選択するんだ。自分の夢に正直になるんだ。良いね?」
761 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 23:18:05.23 ID:IUil+3EI0
「……分かりました」
やっぱり美穂の表情は浮かないままだ。これは美穂にとっても俺たちにとっても最大の選択。
事務所内を支配する緊張は、未だ晴れずにいた。
「さてと。難しい話は終わりにしよう。それよりもお腹が空いたね」
沈黙を最初に破ったのは社長だった。言われてみると、さっきから小さく腹の虫が鳴いている。
今あれこれ考えても仕方ない。ひとまず、お昼をどうしようか……。
「あのっ、プロデューサー」
「ん?」
変わらず美穂は深刻な顔をしていたけど、その頬に赤みが増す。
どうしたのかと思えば、美穂は事務所に入った時から持っていた物体を俺に渡して、
「お弁当、いりますか?」
「はい?」
「えっと! 作って来ました!」
恥ずかしそうに目を逸らしながらそんなことを言うのだった。
762 : ◆CiplHxdHi6 [saga] :2013/03/01(金) 23:21:58.53 ID: